脱学校的人間(新編集版)〈43〉
一般に教育とは学校においてこそ、あるいは学校によってこそなされるべきものであり、ゆえに学校こそが人間を一定の水準のものとして作り上げる、唯一にして十分な機能を持ち合わせている機関なのだと考えられているであろう。しかし、実のところ学校と同様に軍隊もまた、そのような「教育的機能」を持っているのである。
これも一般的なイメージからすれば、軍隊は人間を型にはめ込むような強制的・強圧的な訓練機能こそあれ、人間を発展・成長させるような教育的な機能は持ち合わせていないかのように思われる。しかし、社会的な意味での人間の成立が「未発達な後発近代国家」においては、軍隊のその訓練装置としての機能こそが一定の「教育的効果」を発揮したのであり、それが「学校と同時に機能すること」によってこそ、その効果を二重に、あるいはそれ以上に促進しうるものと考えられた。学校と軍隊の「両方向から生産すること」によって、人間を生産することの効果は二重に、あるいはそれ以上になるのだと「人間の生産者すなわち国家」においては考えられていたのである。
徴兵されることによって多数の人が「一つにまとめられること」で、そこでは必ず「多数の人が同時に同じことをさせられる」ことになる。「一つにまとめられた多数の人たち」は、そこでそれぞれ個別の能力を発揮せよなどということは、いっさい全く求められることはない。また、そのようなそれぞれ個別の能力が「その人自身を表わすアイデンティティ」であるなどとは、そこではいっさい全く見なされもしない。そもそも軍隊では「その人自身であること」などいっさい全く求められはしないのだ。そのように、「その人自身であることが求められていない」というのであれば、その人が他の人とは違うということを主張する必要も、いっさい全くないことになるだろう。
そのようにして軍隊は、まさしく一般的なイメージ通りに人間を一つの型にはめ込むことにより、むしろそれぞれの人の「個別の型を無効にしてしまう」のである。とするとこの過程において求められている「だいたい同じような人間」は、徴兵によって一つにまとめられたその時点で、実はすでにほとんど生産されてしまっているようなものなのだ。
また、軍隊はそのように「全ての人間を一つの同じ型にはめ込むこと」で、実は「その型にはまった人間を、同じ人間として平等に扱っている」のでもある。その意味で軍隊はここで、「平等」をも同時に生産していると言えるわけだ。
ところで「平等」は学校においてもやはり生産されているものなのだが、しかしその方向は軍隊とは全く逆である。学校の方では、それぞれの人ができることは「誰にでもできること」なのだとして、「できることの平等」を生産しているのである。つまり学校によって与えられる平等性とは、社会的能力を「誰かにはできるけれども他の人にはできない」といったように特化あるいは特権化するのではなく、逆に「誰にでもできるものとして、全ての人間に平等に与える」ことによって、社会的能力の可能的平等性を対象となる全ての人々において担保する、というようなものになるわけである。
また学校は、その人が実際にしたことに応じて、すなわちその人の「社会的成果」に応じて、「自分は他の人とは違うのだ」ということをそれなりに自己主張できるように、それぞれの人がそれぞれにしたこと、すなわちそれぞれの人の社会的成果の「価値」に対する基準が、「一定の同じものとして誰にでも適用される」のだとすることで、それぞれの人が自ら「価値を生み出す」ことのできる可能的平等性をも担保し、一方でそれにより生み出されたその「価値の独自性」への欲望も同時に刺激する。末は博士か大臣か。自らの力量一つによって、誰もがそのような「ひとかどの何者かになれる」という希望が、こうして全ての人間に対して平等に与えられるというわけである。
このようにして、学校と軍隊がそれぞれ「逆方向の平等」を生産することで、産業社会において有用な社会的人間の量と質が、両方向から担保されることになっていくことになる。それは当然、そのようなシステムを設計構築した国家の意図に適うものとなっているはずである。
〈つづく〉
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