労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈20〉

 国内資本の生産部門が「より安価な労働力を求めて海外に出ていく」のと同時に、一方では「安価な外国人労働力の、国内労働力市場への流入」もまた、さらに増してくるということも十分考えられる事態となる。
 外国人労働力は、それが参入してくる国内の労働市場ですでに出回っている「国内の労働力商品」に比べればたしかに割安である。だが当の外国人労働者からすれば、彼らが自国において自らの労働力を売る場合よりも断然に「高値で売れる」労働力市場、つまり「経済先進国の労働力市場」に参入して、その安さを武器に自らの商品すなわち彼ら自身の安価な労働力を売ることの方が、彼らにとってはるかに「割が良い」わけである。

 それに対して経済先進国内の労働者たちは、外国人労働力に比べて相対的に高価な労働力商品を抱えてその価格競争に敗れ、国内においてはその職を失う者も出てくるようになる。しかし、かといって逆に今度は彼ら自身が「海外に出て行って安価にその労働力を売る」というわけにもなかなかいかない。なぜなら、彼自身とその家族の生活を、すでにそれ相応の経済発展を遂げている彼の出身国内で、これまで通りの水準で維持していくためには、彼が出稼ぎにきた国より相対的に価格相場の高い、彼の出身国内の商品を、彼の出身国内の市場において買い続けることができなければならない。その「高額な」費用をまかなうためには、もはや「安価でその労働力を売ること」など、とてもではないが見合わない話でしかないのだ。「安く売って高く買う」などというやり方で、一体何が維持できるというのか?そのような算段はそもそもが矛盾であり、たやすく破綻するだろうことは想像するまでもない。
 したがって、今や売るに売れない高い労働力商品を「在庫」として抱えたまま、数多の労働者がその国内において留まり続けざるをえず、場合によってはただ売れ残るままにまかせるより他になす術がなくなってしまう。本来「商品として自由であることによって、その立場を謳歌していた労働力」が、今度はその自由に復讐されているのだとも言えよう。彼らは、自分がいかにして自由であるかということには関心があるけれども、「他の労働力=商品もまた同様に自由であるという事実」を忘れていたのだ。その失念が結果として、彼らにとっての命取りになってしまったのである。

 一方で国内の高すぎる労働力を、それが「労働力であるという理由だけ」ではもはや買い集めることができなくなった国内資本は、そのような国内の「余剰労働力」を買わない理由として、その高騰した価格とはまた別の理由をつけて忌避する。「国内の労働力は高すぎるから買わないのだ」という理由を正当化するために、「高い割には◯◯だから買わないのだ」といった弁解の材料を、買い手資本は何かとこじつけてくる。その「◯◯」には実際何を当てはめても正解なのだが、一般には「能力」とか「技術」とか「年齢」とか「性別」とか、そのような文言が入れられる。繰り返すが、その理由は結局のところ何でもよいのだ、買わない理由になっていさえすればよい。
 ともあれ、このようにして国内の高すぎる労働力は、ただ「高すぎるから買われない」ということだけではなく、たとえば「価格が高い割に低い能力などを理由として」買われないということになる。一方で資本は、そのように高すぎる国内労働力とは別に、「ある特定の国内の労働力を選んで買う」ようになる。そういった「価格が高いのになぜか買われる労働力」というのは、その価格の高さが「買うことのネックになっていないかのように買われる」わけである。たとえどれだけ価格が高いのであっても、「その分の能力が高いのであればむしろ割安」なのだ、というようにして。逆に、いくら価格が安くてもその能力が低いのであれば、そちらの方がむしろ割高になると見なされもする。
 こうして、労働力商品を買わない理由について、その高い価格にではなく「能力」などにおいて見出すようなやり口は、資本にとってもはやリスクでしかない「大半の高すぎる労働力」を、労働市場から弾き飛ばすうってつけの理由としても用いられる。「彼らには能力がなかったのだ」という絶好の言い訳が、ここで成り立つわけだ。逆にそれがまた「国外の労働力を買うこと」について、その理由をけっして「安さのみ」に求めているのではなく、「むしろその能力の高さにおいて判断したのだ」という弁解に用いられることともなる。それは、単に安いから買ったという「消極的な買い」ではなく、むしろ「その能力を高く買ったのだ」という積極的な意義を、市場へアピールすることとしても役に立つわけである。そしてこういったポジティブなアピールは、労働市場自体のイメージアップ効果としても大きな役割を果たすであろう。やはりただ単に「価格を下げよう」というよりは、「能力を上げよう」ということの方が、市場のムードもより活気づくというものなのだろうから。
 しかし逆に言えばこのことによって、「買われなかった労働力商品」は二重に傷つけられることにもなるのではないだろうか?「ただ値段が高かっただけ」という「相対的」な理由ばかりではなく、能力や年齢・性別といった「内在的」な理由までもが持ち出されてしまうなら、誰からも買われなかった労働力=労働者は、一般的な商品としても、また固有の一人格としても、いかんせん立つ瀬がなくなってしまうというものだ。いずれの理由であるにせよ、今さら自力では取り返しようもない。無理難題の板挟みで身動きも取れず、追い込まれた彼の痛手はより深く抉られて、もはや致命傷にまで至ってしまうのではないだろうか?いや、実際そのようにして「消えていってしまった生命」を、われわれは幾度も目撃してはこなかっただろうか?

〈つづく〉

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