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脱学校的人間(新編集版)〈8〉

 山本哲士は、学校を正当化する考えというものは、その使用者にとってそれが自らの必要や利益に奉仕していることを信じていなければ、制度あるいはシステムとして維持されることができない、ゆえに単なる上からの押しつけではなく、使用者自らの必要として自らに押しつけていく、その自発性にこそ制度的な特徴があるのだ、と分析する(※1)。
 一般に物事の「正当化」というものは、その対象となる事柄の正当性が失われうることが発覚する局面において、さらにはその事柄の正当性を信じている自分自身の正当性をも同時に失われてしまうと考えられるようなときにおいてなされるものだろう。つまりその制度を使用する者は、その制度の正当性が失われた場合に、その制度を使用することの正当性が失われるばかりではなく、その制度を必要とする自らの正当性をも同時に失うことになると考えているわけだ。
 自らの必要とするものがその制度から供給されることによって、「自分自身」というものがはじめて成り立っているのだと考え信じる。だからその制度が失われるとき、自分自身の必要への供給も同時に絶たれ、もはや自分が自分でなくなってしまうのだと、その制度を使用する者は固く信じるものである。彼はその制度の持続から、彼自身の現実生活における「利益」がもたらされているのだと考えている。その制度の持続が、自分自身が生きていくことにとって、この上なく必要なことであり、自分にとって欠くことのできない、利益や効用をもたらしているのだと、一心に強く信じている。
 
 一方で「信じる」ということは、「それ以外のことを信じない」ということでもある。つまりそれ以外のことによってでは、自分にとっての利益や効用がもたらされることはけっしてなく、それどころかそれ以外では自分が自分自身であることすらできないのだということを、彼は固く信じているわけである。
 いやむしろ、そのようなことすら彼はもはや考えもしていないだろう。「信じること自体が制度的になっている」というのは、信じること自体をもはや「意識していない」ということである。つまりそもそもそこには「信じないということ自体がない」のだ。
 見方を換えると、「信じることを意識する」というのは、「信じないことがありうるということも意識しつつ、にもかかわらず信じている、ということを意識している」ということなのであって、ゆえに「信じることを意識する人」は、逆に言えばむしろ実は「それを信じなくても生きていける」人なのだとも言っていい。
 しかし「制度的に信じている人たち」は、そういうわけにはいかない。「それ以外」というものがそもそもないのだから、信じなくても生きていけるということがありうるとは「そもそも信じられない」のである。少なくともそれは制度的な視点において「生きていることにさえならない」というようにまで、彼らには信じられているのである。生きていることにさえならないような人生を、一体どこの誰が生きたいと思うのだろうか?言い換えれば、自分自身がたしかに生きていると認められるような人生を自分自身で生きたくないと思うような人が、一体この社会のどこにいるというのだろうか?
 「正当化」の意味=答えは、このような問いの中にすでに成立している。そしてそれ以外の答えというものが、そもそもここにはない。それ以外の答えなるものをそもそも認めないからこそ、この問いは「制度的に機能している」のであり、だからその制度を信じる者、あるいは「制度的に信じる」者にとっては「この問いそのものが答え」となるのだ。いや、ここではそもそも問う余地はないし、問う必要がない。それ以外の答えをそもそも認めないのと同時に、それ以外の問いがそもそも必要のないものであるように、全てを予め用意するのが「制度」なのであり、制度への信頼というものは、そのことに全てがかかっているのだ。その制度には、必要とされるもの全てがすでに予め用意されており、またその「用意」に対する信頼こそが、その制度に対する信頼であり、この信頼こそが制度を機能させ維持させているものでもあるわけである。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 山本哲士「学校の幻想 教育の幻想」


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