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エッセイ・評論など

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音楽、その他の芸術や社会問題についての評論やエッセイなど。力を入れて書いたものから、気軽に一気に書いたものまで。とりとめのない雑感も。
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#音楽

「待つ」あいだの随想

「待つ」あいだの随想

 そうたやすくは触れられない題材を扱ったある映画を先日観ていて、「自分が問い続けていることに安心しないこと」「答えが出ないということに甘えないこと」という言葉が浮かんだ。どちらも意味するところはほとんど同じだが、正解や答えのないあいまいな、あるいは困難な問題を自らに問い続けることのすぐ側には、「こんなに問いと向き合っている自分は大丈夫だろう」という安心感や甘えへの危うい誘いがある。もしそこに誘われ

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シューベルトの実存に肉薄する──プレガルディエンとゲースのシューベルト・アーベント

シューベルトの実存に肉薄する──プレガルディエンとゲースのシューベルト・アーベント

 テノールのクリストフ・プレガルディエンとピアノのミヒャエル・ゲースによるリサイタルを聴いた(五月二十二日、トッパンホール)。曲目はすべてシューベルトで、「別れ そして 旅立ち」というテーマのもと、前半と後半それぞれ十二曲ずつ、《冬の旅》と同じ曲数の二十四曲が、独自の選曲と配列でひとつの歌曲集のように集められた。彼らは過去にまったく同じプログラムを録音しており、私は聴いていないが十年前の同じトッパ

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傷つきながら癒される

傷つきながら癒される

 十一歳のある夜の遅い時間、芸能人から一般人まで複数人の出演者たちが、なにかシリアスなテーマについてテレビで議論していた。子どものころ、早く寝なさいと言われた記憶はほとんどなく、就寝する時間が親と一緒だったので、それを見ていた母の横にいただけだったのだが、ある俳優が「セックスこそが愛の究極だ」と真顔で語っていたりする、今にして思えば、その年齢で見るような内容ではとてもなかった。
 その番組のことを

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手に宿るもの

手に宿るもの

 数か月前のある日、私の出演する演奏会の案内を見たという知人から、「手がきれいだなと思っていたんですよ」と言われた。その人は、私がピアノ弾きだということを、その掲示を見るまで知らなかったのである。
 こういった日常の何気ない場面から、はじめてかつての恋人の手を握ったときや、大学に憧れを抱いて見学に来た受験生と在校生として握手をしたときといった重要な場面まで、手やその感触をほめられるという経験は何度

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これからの表現芸術のために、表現芸術のこれからのために──映画『TAR/ター』との対話

これからの表現芸術のために、表現芸術のこれからのために──映画『TAR/ター』との対話

「芸術家として優れている人ほど往々にして人間としては問題があることをするものだ」というような意見を、陰に陽に口にする人は、少なくない。かれらは、芸術家は社会規範からはみ出しているからこそ、常人にはできない発想や表現が可能なのだと言うのである。
 私はこういった意見に、反対の立場を取り続けてきた。
 確かに、私も含めて芸術にのめり込むような人間は、内面に、この世界への絶望と結び付いた、現実の倫理とは

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浸み透る歌声

浸み透る歌声

 しばらくぶりに話した人に、元気ですか?と尋ねられて、答えるまでに少し間が空いてしまった。春前から不運や心理的に負担のかかるできごとが続いていたのに加えて、身体的にもやや疲労が溜まっており、思考や感情の方向も負のほうへ極度に傾きがちなこの頃であったから、「元気」と言ってよいものか、馬鹿正直な私はためらってしまったのである。間を空けてしまったらもうあとには引けない。元気と言いたいところなんですが、最

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語り続ける姿──アレクセイ・リュビモフ ピアノリサイタル

語り続ける姿──アレクセイ・リュビモフ ピアノリサイタル

 指定された座席に着いてプログラムを読んでいると、今日のピアニスト、アレクセイ・リュビモフがまだ会場に到着していないとのアナウンスが流れた。何かの事情で来日が遅れ、空港から直接会場に向かっており、二〇分押しの予定で、到着次第すぐに始めるという(四月十一日、五反田文化センター音楽ホール)。
 中止にはならないということにまず安心したが、飛行機を降りてそのまま会場に直行して、休息の時間もリハーサルもな

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谺する聖愚者の予言──マリウシュ・トレリンスキ演出、大野和士指揮によるムソルグスキー《ボリス・ゴドゥノフ》

谺する聖愚者の予言──マリウシュ・トレリンスキ演出、大野和士指揮によるムソルグスキー《ボリス・ゴドゥノフ》

 ひっそりとした闇に包まれた舞台に、各辺を光らせた立方体が並んでいる。上手側に置かれたその内側が照らし出されると、痩せ細った、身体に障碍を抱えている若者が、斜め上を見て椅子に座っている。その表情が背後のスクリーンに大きく映し出され、それが荒涼とした大地のような映像とクロスフェードするとともに、個人的な感情ではなく、もっと根源的な、この世界を生きる人間が抱えている宿命的な哀しみのようなものを湛えた嬰

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「どちらにも踏み切らない場所」に立って

「どちらにも踏み切らない場所」に立って

 大学時代、想いを寄せていた人に、「SNSで常に誰かと繋がっているから、孤独じゃない」と確信に満ちた様子で言われて、何も言葉を返せなくなってしまったことがある。自分とこの人は、孤独という言葉の定義が違う、いやそれ以前に、見えている世界が決定的に違う。心惹かれながらも、どんなに会話を重ねても話が通じていない、自分という人間を理解してもらえていないもどかしさをどこかに感じていたが、その原因を発見してし

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生の哀しみ──向井響の新作「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ」

生の哀しみ──向井響の新作「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ」

 生は、始めさせられてしまったものである。自ら望んでこの世に生まれるということは、誰にもできなかったはずだ。私という存在は、存在させられたのである。自分が生まれ、生きていることにたいして、一度も疑念を抱いたことがないという人でも、この前提を否定することは、決してできない。
 私は特に反出生主義者を自認しているわけではない。けれども、自分のものであれ他者のものであれ、生の過程で直面する苦悩の根源を探

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卒業の季節に

卒業の季節に

 五年前の春、大学院の修士課程に進学したばかりの頃のこと、夕方、大学の練習室でピアノの練習していると、教務の女性と彼女に連れられた母娘が、ノックをして入ってきた。学校見学に来たのだという。
 その母娘は当然、私のことなど知らないので、私を知っている教務の女性が、ごく簡単に紹介した。そして、「せっかくだから、何か一曲」と演奏を求められた。
 この半年ほど前にも、同じことがあった。「たまたま練習してい

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「死者の声」は聴けるか?──三善晃の音楽

「死者の声」は聴けるか?──三善晃の音楽

 作曲家の故三善晃氏の音楽を最初に聴いたのは、大学一年のときだったと思う。ある授業で、その年に逝去された氏への追悼として、一度、内容を変更して氏についての講義になり、童声合唱とオーケストラのための『響紋』がかけられたのだった。作品については後述するが、そのときに私が受けた衝撃は大変なものだった。「現代音楽」を含めて、それまで聴いてきたどのような音楽にもない表現、「音楽」という枠には収まらない、しか

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メナヘム・プレスラー

メナヘム・プレスラー

 ピアニストのメナヘム・プレスラーの実演は、彼が93歳のとき、2017年10月16日にサントリーホールで開いたリサイタルを聴いたのみだが、その音楽の根底に息づいていた瑞々しい明るさは、今でも折々思い出している。
 大分時間が経ってしまっていて、当時もごく短いメモしか残していなかったので、当時感じた通りに精確に述べることは難しいが、とりわけ、前半が素晴らしかった。彼の芸風のためには会場が広すぎるとも

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「天才」の条件ーーサンソン・フランソワ

「天才」の条件ーーサンソン・フランソワ

 傑出した芸術家は、無論みな非凡な才能を持っているわけだが、それを特に「天才」と呼びたくなるのは、どういった場合なのだろうか。
 哲学者のイマニュエル・カントは、『判断力批判』のなかで、天才を「芸術に規則を与える才能(自然の賜物〔天分〕)」(岩波文庫、篠田英雄訳)と定義している。カントによれば、天才は、訓練によって習得できるものではない独創であると同時に、それ自体がある規範や規則になるものである。

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