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シューベルトの実存に肉薄する──プレガルディエンとゲースのシューベルト・アーベント

 テノールのクリストフ・プレガルディエンとピアノのミヒャエル・ゲースによるリサイタルを聴いた(五月二十二日、トッパンホール)。曲目はすべてシューベルトで、「別れ そして 旅立ち」というテーマのもと、前半と後半それぞれ十二曲ずつ、《冬の旅》と同じ曲数の二十四曲が、独自の選曲と配列でひとつの歌曲集のように集められた。彼らは過去にまったく同じプログラムを録音しており、私は聴いていないが十年前の同じトッパンホール公演でも演奏している。この「歌曲集」を彼らが愛奏していることがわかるが、つねにテクストに大胆に踏み込んで新たな解釈を打ち出してくるその生きた演奏は、決して過去の反復にはならない、臨場感に満ちたものだった。
 この二十四曲には、確かに大きな曲集のようなひとつながりの流れが感じられるが、詩の並びから、《冬の旅》や《水車屋の美しき娘》のような筋の通った物語を見ることには、無理があろう。このひとつの流れは、詩の表面的な内容ではなく、あくまでも音楽の配列や詩の精神的な部分によって生まれていると捉えるべきである。
 駆け出すような「逢瀬と別れ」の高揚感で始まる前半は、シューベルトが好んだ、歩行を示すダクテュロスのリズム(長-短短)が用いられた作品が多く集められ、「さすらい」の主題が強調される。後半は、前半の「逢瀬と別れ」と対を成すように、近い性格の「ブルックの丘で」が一曲目に置かれるが、その歩みは次第により深く内面へと向かい、中盤で再び「さすらい人」の歌曲を前半とシンメトリックに挟みつつ、「影法師」で存在論的な問いにまで至ったあと、最後に「夜と夢」で苦悩が昇華される。全体が音楽的なドラマを構成しつつ、「別れ そして 旅立ち」を中軸にしながらそこにシューベルトが生涯追求していたテーマがさまざまに織り込まれた、巧みなプログラムである。
 一曲目の「逢瀬と別れ」が作品にふさわしい推進力をもって始まり、続く「星」ではダクテュロスのリズムがシューベルトらしく全曲にオスティナートされるなか、連ごとに繊細に異なる表現を聴かせる。場面や情感の転換を明確に打ち出す強度の高い演奏は相変わらずながら、他方でどこかピントの合わないような感覚も抱いていたのだが、五曲目の「さすらい人」のあと、ゲースが、それまでは一曲ずつ時間を取って譜面を次の曲のものに変えていたのを、それを床に落としてまで次の「さすらい人の夜の歌Ⅰ」にアタッカで入ったあたりから、演奏の集中が格段に深まっていった。
 変幻自在な表現を魔術的に繰り出すゲースの即興性が、プレガルディエンの知的な構成によって打ち立てられる劇的な表現を刺激するデュオの在り方はそのままに、今回強く感じられたのは、プレガルディエンの表現が、これまで通りの歌と語りの絶妙な均衡を聴かせつつ、よりその重心が語りのほうにかけられるようになったのではないかということだった。それによって、演奏はより一層、音楽の意味を、音楽表現としてはかなり具体的に伝えるものになったように思われた。
 たとえば「魔王」のクライマックス、魔王に怯える子供のパートでは、生演奏の高揚も手伝って、かつての録音以上に、声色をあと一歩で歌唱を超えて叫びになってしまうぎりぎりのところまで攻めてその恐怖を体現する。最後の「war tot(死んでいた)」の二語は、音程もあいまいなほど声を語りに近づけて息絶えたさまを伝える。締めくくりのふたつの和音は、ゲースの巧みなペダリングによってその残響が微かなこだまのように表出された。ほとんど表現主義的とも言えるこうした演奏表現は、この曲の詩を知らない者にもこれが死に対する恐怖であることをまざまざと感じさせるだろう。しかし、そこに至るまでの子供の怯えや魔王のささやきが次第に狂気を帯びてゆく過程は、直情的にではなく、まさしく階段を登るように段階的に表現されている。この構成力も、音楽に情感やイメージだけではない、実体を与えることに繋がっているだろう。
 彼らの演奏によって、音楽が実体をもって立ち昇ると、あらゆる表現が決して観念ではなく、シューベルトの実存から生まれているものなのだということが伝わってくる。シューベルトの音楽は、「死への憧れ」だとか「若くして悟りを知った」といった言葉で語られがちだが、プレガルディエンとゲースの演奏が明らかにするシューベルト像は、そのような認識とは懸け離れた、この世界に自分が「在る」ということの意味を問い、生に伴う死への意識に苦しむ人間の姿である。「死への憧れ」と捉えられがちな、彼がその大胆な転調などによって行った「こちら」の世界と「あちら」の世界の揺らぎも、この世が死に対する恐怖をはじめとした苦悩に満ちているのなら、やがて迎えなければならない死の後の世界は美しくあって欲しいという願いだったのではないかと、彼らの演奏を聴きながら考えていた。
 最後の二曲はやはり演奏としても最も印象に刻まれた。かつて苦しみとともに愛した人の家の前にもうひとりの自分の姿を見るという、人間の無意識の底の底に降りてゆくような「影法師」。ゲースが弱音から最強音まで、ロ短調の慄然とする響きを深淵に鳴り響くように奏で、技術的にもここに極まったプレガルディエンの緊迫感に満ちた「語り」が、聴く者の存在に激しく問いかける。
 最後にナポリの和音によって何かが覚める。ロ長調に転じて終わった最後の和音の響きを引き継いだまま、「夜と夢」の低音のさざ波が、最弱音と言うより、大きな光の波動があたりに広がるように始まった。歌とピアノが、光のなかで、互いの微かな揺らぎにも自然に寄り添い合って夜と夢に呼び掛けている。その境地の、なんと自由なことだっただろう。




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