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「天才」の条件ーーサンソン・フランソワ

 傑出した芸術家は、無論みな非凡な才能を持っているわけだが、それを特に「天才」と呼びたくなるのは、どういった場合なのだろうか。
 哲学者のイマニュエル・カントは、『判断力批判』のなかで、天才を「芸術に規則を与える才能(自然の賜物〔天分〕)」(岩波文庫、篠田英雄訳)と定義している。カントによれば、天才は、訓練によって習得できるものではない独創であると同時に、それ自体がある規範や規則になるものである。そして、天才の持ち主自身は、それを「自然」として内在している。天才その人自身は、その着想や独創を学んで習得したわけではない。自らこそが、芸術に規則を与える人物であるのだから、それがなぜ可能なのかを論理的には説明できず、「自然」として宿しているのだ、というわけである。
 カントの定義がどこまで正しいのかをここで問う愚は避けるが、少なくとも、何か超越的なことが恐ろしいほどにさらりとーーまさしく「自然」にーー成し遂げられていたり、その人の閃きがそのまま、閃いた瞬間に実現されているのを目の当たりに、耳にしたときに、人はそれを「天才」という言葉で語りたくなる、とは言えるのではあるまいか。
 ピアニストのサンソン・フランソワが録音したショパンの練習曲集、なかでも作品10ー11を初めて聴いたとき、「こういう人のことを天才と言うのだ」と思った。
 万華鏡のように鮮やかに表情を変えながら花開いてゆくアルペッジョが、軽やかに解き放たれ、そのアルペッジョに彩られた旋律線と内声の対旋律が、耽美的で、仄かに滅びを匂わせた、心の揺れがそのまま映し出された全き自由なルバートによって歌われると、夢に溢れた甘美の世界へ誘われてしまう。作為性を全く感じない息遣いと、ある美的感覚に支えられた秩序にも貫かれた演奏は、まさに「自然」そのものである。
 フランソワは、録音を一発録りで済ませることが殆どだったらしいが、録音でありながら、演奏芸術の最大の特質である「一回性」というものを感じさせてくれる、「作品がたった今生まれているような演奏」がここに収められている。フランソワには、調子が乗らなかったのであろう、よくない録音もあるが、このような演奏をたまたまこの録音時に可能にしたこと自体、彼の天才が呼びよせた奇跡のように思えてくる。
 天才も様々だが、こういう天才は、もう、出てこないのだろうと、フランソワの演奏を聴く度に、私は感じる。
 いや、現代にも、世界のどこかにこういう天才はいるのかもしれない。ただ、息苦しくて窒息してしまっているだけで。

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