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「どちらにも踏み切らない場所」に立って

 大学時代、想いを寄せていた人に、「SNSで常に誰かと繋がっているから、孤独じゃない」と確信に満ちた様子で言われて、何も言葉を返せなくなってしまったことがある。自分とこの人は、孤独という言葉の定義が違う、いやそれ以前に、見えている世界が決定的に違う。心惹かれながらも、どんなに会話を重ねても話が通じていない、自分という人間を理解してもらえていないもどかしさをどこかに感じていたが、その原因を発見してしまったのだ。けれどもそのときは、明らかに相手に悟られていたほどに抑え難く昂じていた想いで、その発見に蓋をした。
 彼女は、「子供がほしい」と未来を憧れるように目を細めながら語り、幸せな家庭ヽヽヽヽヽを持つことを心底望んでいるようだった。家族という紐帯を何の疑いもなく信じ、心地よいと感じている、そういう家族観、家庭観の人は、私の通った、裕福な家庭に育った人が圧倒的に多い学校に、少なくなかった。
 私はあくまでも、個人の感情、とりわけ苦悩や痛みは、決して量的に相対化してはならないものだと考えている。どんなに満たされているように見える人でも、渇きを見せていないだけなのかもしれず、「あなたの悩みなんて、貧しい国の人たちや病に苦しんでいる人に比べたら…」などと言う人のことが私は嫌いだ。けれども、今年秋の転居でようやく区切りがついた、ほとんどはじまりから破綻しており──そのことを知ったのは十代の終わりだったが──、年々荒廃し、異常な状況が普通になってしまうほどに常態化していた家庭環境のなかで、家族のなかにさえ深刻な断絶というものがあることを目の当たりにし、当然社会との間にも壁を感じて生きてきた私には、孤独というものを知らない人たちの姿は、経済的にも精神的にも、やはり恵まれているヽヽヽヽヽヽとしか思えなかった。
 見えている世界が決定的に違う人には、同じ言語で、同じ文法で話していても、まるで話が通じない。ここまで整理して理解はできていなくとも、漠然とそのことを感じ始めたのは、音楽に傾倒し始めた十代の半ば、思春期の頃だっただろうか。

 文化的に洗練されているとは言えない土地で、音楽、それも芸術音楽などにのめり込んでいると、浮世離れした変わり者という扱いを受けるものだが、当時から私は芸術こそが現実を生きるなかで感じるさまざまを表現してくれるのだと感じ、そのことを周囲にも理解してもらいたいと思っていた。学校や家庭が満たしてくれないものを満たしてくれる、理解してくれない想いを受け止めてくれる唯一の場所、それが自分にとっての音楽だった。恐らくはどこかで道を誤っていてもおかしくはなかった環境にいた私が、今日までぶれずに歩んでこられたのは、そのなかでも一貫して「あなたはあなたでいなさい」と教え続けてくれた母のおかげであり、音楽をはじめとする芸術のおかげである。
 音楽に専念できる場所に早く行きたいという思いもあったが、早くから専門性に特化することで人間としての視野を狭くしたくないとの思いから、高校は迷わず普通科に進学した。その選択は正しかったと年々強く思っているが、とはいえ、自分の愛するものの話題を共有できず、自己紹介で、恐らくはその教室にいた誰もが知らなかったのであろう現代作家の小説を面白かった本として挙げると「趣味が悪い」などと言う奴がいるようななかで、日々孤独を感じるのは当然だった。いまも定期的に何時間も語り合う友人をはじめ、いくつかの出会いには恵まれたし、今でこそ高校時代はよき思い出だが、卒業式の日に、最後のホームルームが終わったあとも多くの人が居残るのをよそに、その友人と早々に帰路につくほどには、周囲からは浮いていた。
 だから、大学に入学したその日から、アルゲリッチやツィメルマンといった固有名詞が通じ、みんなが「プロコ」だとか「チャイコン」といった一種のジャーゴンを使って会話をしていることに、単純だがほんとうに感動した。それだけでなく、純文学を読んでいる人は多くはなかったが、それを馬鹿にするどころか私をきっかけに読んでくれる人もいたし、多くの人が当たり前のように美術館に足を運んだりしていた。つまりかれらは、あまりにも当然のことだが、芸術に対して理解があり、それを身近なものとして捉えていた。私はようやく、自分の話が通じる場所に来られたのかもしれないと思った。
 しかし大学生活も折り返しの頃になると、アンサンブルの練習の折に、ある個所について「悲しみの色で染められていくようだね」と語っても、「じゃあそれまでの部分は悲しくなかったの?」と冷めた反応を返されたり、学内コンサートで、出演者の書く曲目解説が調べ学習のような内容であるのを読んだりといった経験を重ねるようになり、音楽を専門にしていても、自分と同じような意味や仕方で音楽に没頭しているわけではない人が少なくないことに気が付き始めた。
 どうやらかれらは、コンサートや美術館に「癒されるため」に通い、音楽や芸術を、ただ「美しいもの」「いいもの」としてだけ愛でているようだった。それは、私が感じ、考えている芸術の在り方とは全く違うもので、むしろ、ちょうど高校時代の私がそうじゃないんだと言いたかった、浮世離れした、恵まれた余裕のある人の娯楽、贅沢としての在り方に近いのだった。芸術にはそうした側面もあることは否定できないが、私は次第に、大学のなかでも、例の話が通じないという思いが膨らんでいるのを自覚し始めた。そして、その懸隔を生んでいる大きなものは、やはり置かれてきた環境の差にあるのではないかと思い至った。
 私は、経済的に無理がある状況の、荒廃した家庭環境にありながら、どうしても音楽がやりたいという強い意志でこの道に進んだ。それが、将来の自分、つまりこの文章を書いているいまの自分に多大な負債を負わせることになることも承知の上だった。それだけ、自分がこの世界を生きるために、音楽や芸術は不可欠なものだった。恵まれていないからこそヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ、芸術が必要なのだった。
 ところが、親の言うがままに音楽の道に進み、家族はあたたかいものだと無条件に信じられるほどに親族が惜しみなくサポートしてくれ、音楽に集中できる環境が当たり前にある「恵まれた」人たちは、精神的に餓えているから音楽をするのではなく、音楽しかできないからただ漫然と、あるいは他に選択肢がなかったから音楽をやっているのだった。なぜ音楽をするのかといった問いが差し挟まれる間がないほど、音楽をすることが言葉の最悪の意味で当たり前のことになってしまっていて、個々の作品や演奏にたいしても、表現されている内容ではなく、専らどう弾くかのほうに関心が向いているのだった。
 もちろん、そのような環境にいてなお音楽を深く愛し、そのことが演奏からも感じられる人はいたし、逆にそのことにこそ実存的な問題を感じて苦悩していた人、「恵まれた人」というレッテルを貼られることに苦しんでいた人、幼少期から競争の場に駆り出されてきために、他者との比較のなかでしか音楽を見つめられないという不幸を抱えていた人もいただろう。けれども、前提からして恵まれていた人の口から、試験やコンクールで成功した人のことを「頑張っている」と言う、つまりそうでなかった人は「頑張って」いない、努力の差がすべてだなどと語られるのを聞いたり、恵まれていてかつ校内外で評価されている学生が、久しぶりに出席した授業で「自分は上手いんだから別にいいでしょう」とでもいうような不遜な態度で「出ていなくて課題を知らなかったのでやってません」と教員に言っているのを見たりすると、どうしても鬱屈したものが込み上げてくるのだった。そういう、自分が恵まれていることに無自覚で、恵まれていない人の目に世界がどう映っているのかということに鈍感な言動に、何度となく接した。
 その鬱屈は、いつも一つの疑問に向かっていった。こういう人が正当に評価されてしまうような場所に、自分のような人間の話が──表現が通じる余地など、あるのだろうか?

 私は、その「頑張っている」という言葉に象徴されるような努力至上主義、ひいては自己責任論に徹底的に反対しているが、環境やある種の運命がすべてだとも思えない。なぜなら私自身が、特に芸術音楽好きでも読書家がいるわけでもない家庭──それも決して普通ヽヽではない家庭──と文化的に洗練されているとは言えない土地のなかで育ちながらも、音楽や文学を愛するようになり、今日までその世界を探求し続けられる程度には努力をしてきたからである。だから、しばしば耳にする、ある程度富裕で教養に溢れる環境に生まれなければ、芸術に親しむことや知的になることは難しいという言説には、強い反発がある。
 しかしそれでも、幼少期に母がよく読み聞せをしてくれたことなど、心当たりのある小さなきっかけはいくつかあるし、表現者としての自己を形成する上で決定的だった恩師との出会いにも、それこそ恵まれた。諦めずに続けていられるのも、私の努力を評価してくれる人、私の表現を受け取ってくれる人が、数は多くないとしても確かにいてくれるからだ。それ以前に何より、苦しい状況のなかでとはいえ、芸術の道を選ばせてもらえたことがやはり幸運なことだったと思っている。私の高校の同級生には、まさに経済的な理由や、必修であるピアノを習ったことがないという理由で、音楽を専門にすることを断念していた人もいたのだった。
 荒んだ家庭環境、そして最も安心できるはずのその場所が、はじまりからして不安定であったことに恐らくは主に由来する死や危機への怖れに日々苛まれ、存在の意味を問いながら生きるなかで、もしかれらのように恵まれた環境に生まれ育っていたなら、こんなに苦しまずに、多くの人に話の通じる幸せな人生ヽヽヽヽヽを生きられたのかもしれないという想像をしてみたことも何度もあった。しかしもしそうであったら、私はピアノを弾いたり文章を書いたりしていなかっただろう。直接の言葉では話が通じないから、表現することで話をしようとしているのである。表現がどう受け取られるかは鑑賞者に委ねるほかないが、私にとって表現とは、あくまでも自分にとってほんとうに切実な問題を他者に──しかもそれを共感し合える人だけでなく、それを切実な問題と感じたことがないような人、つまり「話の通じない人」にも伝えるためのものである。だからこそ、同じある表現が、ある人を深い救済に導きながらも、同時に別のある人を深く傷つけることもあるのだ。
 思えば、冒頭に書いた人だけでなく、私が恋をしてしまう人の多くは、ほとぼりが冷めたあとで考えると好きになったことがふしぎに思えるほど、自分とは凡そ対照的な価値観や思想の人──そのことに気づくのは恋をしてしまったあとなのだが──だったように思う。もしかするとそれは、上に書いたような、私を表現の世界へ駆り立てている衝動と、無縁ではないのかもしれない。
 先日、ほぼ三年ぶりに生の演奏会を開催した。演奏自体には思うことはいろいろとあるが、いまは無事に舞台に戻れたこと、愛する友たちにも再び音楽を届けられたことを素直に安堵している。
 その演奏会に、思想的に、特に政治思想的に私と全く反対の位置にいる親戚が聴きにきてくれた。かれらとそれについて直接話したことはなく、母から聞いて間接的に知っている程度だが、もしそうすれば深刻な対立に至る可能性はきわめて高いだろう。かれらも、そのことは知っているはずだ。それでも、演奏、それも恐らくは誰もが楽しめるというような内容ではなかった演目を真剣に聴いて、何かを受け取ってもらえたことが窺える表情で感想を述べてくれた。それこそ、かれらとしては、家族だからヽヽヽヽヽなのかもしれない。しかしそうなのだとしても、私は、かれらと音楽を通じて交わした対話を、幻想だとは思いたくない。
 私は、私が経験してきたような孤独、あるいはまた違う質の苦悩やもっと深い傷を知っていなければ、表現芸術を理解することができないとは思わない。それは、人間には想像力という尊い能力が備わっているからであり、芸術とコミュニケーションこそは、その想像力を最大限信じることで成り立っているものだからである。
 それでも、人間の想像力や感受性には限界と個人差がある。芸術の力も有限であり、表現においては、もっと単純であるがゆえに決定的な違いともなる個々人の趣味や美意識の差もある。どれほど対話を重ねようとも相容れない相手というものは、この世界にどうしても存在するものだ。
 話の通じない人には通じなくても構わないという思いも、私のなかに強くある。だが、人間を知っているような顔をして、人間は本質的に汚いと言い切る者が、その実、世間知らずの人が人間は根本的に美しいと言い切るのと同じくらい単純であるのと同様に、話の通じる人にだけ話し、通じない人との対話を完全に放棄するのは、あまりにも簡単なことなのである。さまざまな揺れを裡に秘めながら「踏み切らない」ことにこそ、真の強さが求められるのだ。
 芸術を愛するようになってから今日に至るまで、人生観や音楽への接し方、つまり「立ち方」は大きく変わってきたが、その「どちらにも踏み切らない場所」には、ときに一方に傾きかけながらも立ち続けてきたように思う。私に何か誇れることがあるとするなら、そのことかもしれない。再出発となった年を終えて新しい年からも、その矜持をもって世界と向き合いたい。




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