見出し画像

生の哀しみ──向井響の新作「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ」

 生は、始めさせられてしまったヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽものである。自ら望んでこの世に生まれるということは、誰にもできなかったはずだ。私という存在は、存在させられたヽヽヽヽヽのである。自分が生まれ、生きていることにたいして、一度も疑念を抱いたことがないという人でも、この前提を否定することは、決してできない。
 私は特に反出生主義者を自認しているわけではない。けれども、自分のものであれ他者のものであれ、生の過程で直面する苦悩の根源を探ろうとそれを見つめ続けていると、「なぜ人は、望んで生まれたわけではないのに、苦しみ傷つきながら生きるのか」という疑念に突き当たらざるを得ない。しかも、いつ来るとも知れぬ死に日々怯えながら。
 生きることをさせられているヽヽヽヽヽヽヽという感覚を抱いている者にとって、死は、あるいは救いかもしれない。それにも拘わらず死を恐れるのは、生まれてしまったからには、やはりどうにかして自分の生とこの世界を肯定したいという希望を捨てられないからなのだろう。それは感傷だと言う人もいるだろうが、その矛盾に、人間が生きることの哀しみがある。
 向井響さんの新作、無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータには、人間が根源的に背負っている生の哀しみが刻まれているように感じられた。今年の8月に浜離宮朝日ホールで行われたヴァイオリニストの土岐祐奈さんによる世界初演を、動画で聴いた。
 曲は、グラーヴェ、メロディア、ポルトガル民謡によるシャコンヌの3楽章からなる。バッハの同名作品やバルトークのソナタといった、この無伴奏ヴァイオリンという分野における先人の傑作を想起させずにはおかない楽章構成となっており、その伝統に連なろうとする意欲と誇りが感じられる。
 向井作品は、ひとつひとつの音を厳密に選び抜く美意識と知性とが、狂気に向かう音楽を狂気に振れる手前に踏みとどまらせ、そのぎりぎりの緊張感から噴出する情念の混沌が魅力だが、その根底には純粋な感性の軋みがあるように感じられる。このパルティータのグラーヴェの第1楽章に満ちている、透明感とざらつきが綯い交ぜになったような音は、まさにその純粋なものが生の圧によって軋む音ではないだろうか。本作も他の向井作品に例外なく、情報量の多い演奏至難な作品だが、それでも音数の限られている無伴奏ヴァイオリンの作品だけに、彼の音楽の核にあるそれが浮き彫りになっているように思われる。軋み、傷ついていながらもそれは、土岐さんの音色と相俟って瑞々しい光を放っている。
 民謡に題材を採っているのは、それがタイトルに明示されているシャコンヌだけではなく他の楽章においても同様で、第2楽章メロディアでは、掠れ消えそうな音型のうえで、民謡の断片らしき旋律がきれぎれに歌われる。さまざまな文化を平然と破壊しようとする者たちがいるなかで、どうにかほんとうの歌を繋ぎとめようとするような切なる思いが、音を透き徹らせてゆく。その、「何かを繋ぎとめようとする思い」こそは、彼の作品に流れている純粋なるものなのかもしれない。
 バッハのパルティータ第2番と同様に作品の重点が置かれた最後のシャコンヌ。嬰へのピチカートに支えられた、憂いを帯びたポルトガル民謡による主題を、土岐さんが自在な節回しで歌う。それが鋭利に変奏を重ねてゆく先に、明確に調性が聴き取れる、長調と短調のはざまを揺れ動く単旋律の変奏が訪れる。土岐さんの艶やかな音で奏でられる、極めて印象的な美しいこの場面や先の主題を聴いていて、ふと、誰かが言っていた「哀しみを感じた時に人は歌う」という言葉を思い出した。この作品に刻まれているものが生の哀しみであることに気が付いたのは、このときだっただろうか。
 表現とは、生を納得できない者が、どうにかして納得しようと藻掻くことだと言えないだろうか。この世界や生にたいして何も疑いがない者は、わざわざ何ごとかを表現しようと思わないだろう。そしてまた、世界を完全に諦めている者も、やはり表現などしないはずだ。つまり、生の哀しみを自覚したときに、人は表現に向かっている。民謡から現代音楽までを貫いて、表現という営為の核にその哀しみは変わらずにあり続けている。向井さんは、本作によって民謡を「歌い直す」ことで、民謡が生まれた時代の人々が背負っていた哀しみと現代人のそれが繋がっていることを、そしてだからこそ民謡はずっと歌い継がれてきているのだということを、明らかにしている。その営みは、ひとりひとりの生がそうであるように、尊いものだ。
 曲の最後、まさに向井的な狂いゆく音群を、土岐さんが圧倒的な集中力で弾き切る。そこから、生を渇望する向井さんの、人間の叫びが聞こえてきて、胸が搔き乱される。凄絶な昂揚の内に音楽が終わっても、作品を静かに支えていた嬰への音が、哀しみを象徴するものとして耳のなかでずっと響き続けていた。
 分野を問わず、近年、生の根源を見つめている傑出した新作に出会うことが多い。それは、私たちがいま、とりわけ自らの生を心から納得しにくい時代を生きているということの反映なのだろうが、私は向井さんのこのパルティータも、そのひとつに数えたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?