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谺する聖愚者の予言──マリウシュ・トレリンスキ演出、大野和士指揮によるムソルグスキー《ボリス・ゴドゥノフ》

 ひっそりとした闇に包まれた舞台に、各辺を光らせた立方体が並んでいる。上手側に置かれたその内側が照らし出されると、痩せ細った、身体に障碍を抱えている若者が、斜め上を見て椅子に座っている。その表情が背後のスクリーンに大きく映し出され、それが荒涼とした大地のような映像とクロスフェードするとともに、個人的な感情ではなく、もっと根源的な、この世界を生きる人間が抱えている宿命的な哀しみのようなものを湛えた嬰ハ短調の旋律が、ファゴットの音色で聞こえてくる。
 昨年(二〇二二年)の十一月に新国立劇場で上演された、マリウシュ・トレリンスキ演出、大野和士指揮による、ムソルグスキーのオペラ《ボリス・ゴドゥノフ》を、配信で観た。この暗示的な冒頭は、結末に見事に繋がることとなるのだが、それは、このオペラが現代を見透しているものであったことを示し、同時に、私たちの未来へのより暗い予感に慄然とさせられるものだった。
 主人公ボリスは、自らが犯した「子殺し」の罪の意識に苛まれている。帝位の正統な後継者だったドミトリー皇子は幼くして死を遂げたが、実はそれはボリスの手によるものだった。前皇帝が没すると、議会によって彼は皇帝に選出された。オペラは、その戴冠式前夜から始まる。
 寝間着姿の彼は、ひどく怯えた様相で屋敷を歩き回り、冠を戴くことを躊躇い、周囲に当たり散らし、ほとんど錯乱寸前の精神状態にある。指導者を渇望する迷える民衆の合唱も、彼に聞こえる幻聴のようにして描かれる。舞台に置かれた立方体に、テレビの砂嵐のような、罪の記憶が凄まじい速さでフラッシュバックしてその残像だけが駆け巡っているかのような映像が映し出され、ボリスの精神状態を描き出す。この立方体は、他にもさまざまな幻想的な映像を映し出し、冒頭のように、さまざまな部屋や場所などとしても用いられ、舞台装置として非常に効果的だった。舞台は全体にシャープで深い蒼白さに包まれ、冷たさ──渦巻く情念が極まって負の温度へと転じたようなものとしての冷たさに満ちている。
 ボリスの「子殺し」の詳細ははっきりとは描かれないが、プロローグにその回想が挟まれる。タイル張りの隔離部屋に子どもたちがベッドに並んでいて、白衣を着て防護マスクをつけた者どもがかれらを一斉に(恐らく)毒殺する。その子どものなかの一人が、幼いドミトリー皇子であり、動乱のなかでそれを指示することとなったのが、ボリスだったのであろう。つまりボリスは、ドミトリー皇子を狙って殺したわけではなかったようにも見える。第二幕で、ゴドゥノフは自らの行為を「偶発した汚点」と述べるが、トレリンスキの演出によって、民衆が惑い、議員がドラッグを常習するほど荒廃した状況のなかで苦悩に打ちひしがれる彼の姿を見ていると、彼の犯した罪は、全き彼個人にのみ帰せられるものではなく、社会や時代の産物でもあったように──もっと言えば、個人には抗い得ない運命のようなものであったようにさえ思えてくる。
 そして、ボリスの苦悩をさらに複雑に強めている存在は、オペラ冒頭に登場した、常に介助を必要とする障碍を抱えた息子のフョードルの存在である。トレリンスキは、フョードルを身体障碍者に設定し、聖愚者と同一人物として描く。聖愚者とは、常軌を逸した言動をする「異常者」であるがゆえに、常人には見通せない真理を知っている神がかり的な人物として、ロシアにおいて崇拝されている存在のことである。フョードルが、障碍を抱えた聖愚者であるということは、隠された父の罪を知っているということであり、ボリスは、息子こそが自分の裁き手なのではないかという予感に怯えている。自らの犯した「子殺し」に対する罰として、「父殺し」をされるのではないかという恐怖を抱いているのである。
 こうした数々の読み直しは、個人の苦悩や問題が、さまざまなものが複雑に絡み合って生まれるものであることを知っている私たち現代人にとって、説得的な描き方であろう。ボリスの苦悩を、より現代的なものとして立ち昇らせることに成功している。
 こういった現代演出では、鑑賞者もその読み解きに神経を使うため、時代のある現実を映し出すことは成し得ても、登場人物の心情を掘り下げることが二の次三の次になる、あるいはもっと極端は場合は切り捨てられることもあるだろうが──尤も、オペラに限らず、そもそもの方向性として人間の内面描写に重きが置かれていない表現の場合は、そこにそれを求めるのは鑑賞態度としてナンセンスであると私自身は考えるが──、今回の上演では、苦悩の描き方を現代的に更新しつつも、同時にボリスの内面の激しい動きそのものをも余すことなく体現していた。
 それに深く寄与しているのが、大野和士指揮の東京都交響楽団の演奏と、主役のギド・イェンティンスの歌唱であることは言うまでもない。大野が都響から引き出す、とりわけ弦楽器において顕著な特有の柔らかくふくよかな音色は、ムソルグスキーの音楽の強い色彩と陰影を濃やかに描き出す。表現の振幅は広く、慟哭のようなはげしさにも事欠かないが、音楽の姿形しぎょうは絶対に崩さない造形感覚に貫かれており、それが、表現に個人的なものに留まらない普遍的な深みを与えている。それを背後に、イェンティンスの弛緩しない求心力に支えられた声が、恐怖、躊躇、怒り、後悔…といったボリスの心の機微を描き尽くす。そしてトレリンスキの演出が、コンセプトが先行することなく音楽と台本に即したものであるがゆえに、演出と演奏が乖離することなく融け合っているのである。
 このように、演出、演奏共に、トレリンスキの狙い通り、ボリスの内面を徹底して深く掘り下げてゆくものであったが、それは最終的に、人間のより根源的な問題にまで辿り着くこととなる。
 ボリスと緊張関係にあるのが、戴冠式で群衆が熱狂するなか、ひとり後ろからそのさまを冷ややかに眺めていた修道僧ピーメンである。彼はボリスの罪を知っており、密かにそれを年代記にしたためていたが、第一幕で弟子のひとりグリゴリーに、グリゴリーと亡きドミトリー皇子が同い年であることなどを暗示的に語り、短剣を手渡す。固より野望を秘めていたのであろうグリゴリーは、ドミトリーの名を僭称し、皇子が生きていたと思い込んだ民衆を巻き込み、勢力を広げながらボリスのもとへ向かう。
 物語が進むにつれて、ボリスの苦悩は、「子殺し」によって得た地位と繁栄の空虚さの自覚と、その空虚な自分が民衆に期待をかけられているという耐えがたい重圧なども加わり、錯乱の度合いを強めてゆく。第三幕では巨大な顔の異形の幼子たち(毒殺した子どもたちだろう)と聖愚者であるがゆえに真実を知る息子フョードルに激しく糾弾される夢を見る。目を覚ますとフョードルが現実でも狂ったように父の罪を告発している。やがて興奮が鎮まると、大野の引き出す、静謐で神秘的だが底知れぬ不穏さを湛えた響きのなかで、「もうすぐ敵が来る 闇が訪れる 漆黒の闇が 何も見えぬ闇が これぞロシアの不幸 泣けよ泣け ロシアの民よ 飢えたる民よ」と、偽ドミトリー(グリゴリー)が攻めてくること、そしてロシアがより深い絶望に包まれることを予言する歌を歌う。この場面での、聖愚者の声を担当した清水徹太郎の何か超人間的で怖れを覚えるほどの透明な声は、印象的で忘れ難いものだった。
 ついにボリスの錯乱が狂気へと至った第四幕、混乱する議会にピーメンがドミトリーの再来を告げ、偽ドミトリー(グリゴリー)が甲冑をまとった姿で到着するが、彼は躊躇なく臣下にピーメンを殺させる。年代記に事実を書き続けているピーメンは、僭称者にとって邪魔な存在だったのだろうが、師であったはずの人物を躊躇なく排除するほどまでに支配欲に取り憑かれたグリゴリーの姿は、ボリスと対照的である。
 自らの終わりを悟ったボリスは、フョードルに向けて別れのアリアを歌う。ここでトレリンスキは、ボリスに息子フョードルを枕で窒息死させた。本来は狂気のために自らが衰弱死へと向かいながら息子に別れを告げるのだが、別れの意味が全く別のものとなっている。大胆でありながら台本(歌詞)との齟齬を来たさない考え抜かれた読み替えに唸らされたが、なぜトレリンスキは、あれほど「子殺し」の罪の意識にボリスを苛ませていながら、またしても子を──しかも今度は実の子を殺させたのだろうか?
 もっともらしい解釈はいくらでも考えられるだろうが、わかるようではっきりとはわからないというのが私の正直な実感である。何か根源的な、曰く言い難い無意識下の衝動に突き動かされた行為だったのでは、というようなひどく抽象的な説明しか今の私にはできないのだが、ただ、私の考えをひとつ述べておくなら、この「子殺し」には捻りがあるということだ。息子のフョードルは、この演出においては聖愚者である。つまり、前述したように、神(=「父」)に近い人物ということである。つまり、ボリスの、聖愚者フョードルを殺すという行為は、「子殺し」であり「父殺し」でもある、と言えないだろうか。この場面は、今回の演出の主要な主題である「子殺し」と「父殺し」が、一体となって象徴されているのである。そして劇中、何度も神に呼び掛けていたボリスだが、神(=「父」)に近い存在でありながら子であるフョードルを殺す際には、「神よ 祈っても罪は贖えぬのか」と歌う。トレリンスキ本人の意図はともかく、ボリスに「子殺し=父殺し」をさせたかれの無意識のなかには、神にたいする抗議が含まれていたのではあるまいか。
 フィナーレでは、蒼白い舞台に血の真紅が乱れ散り、その暴力という主題が直接的に極まって描かれる。民衆や議員たちがボリス側の貴族を次々になぶり殺しにしてゆく。偽ドミトリーはその様を悠然と高所から眺める。黒いビニールに包まれたボリスの死体が逆さ吊りにされ、偽ドミトリーがピーメンに手渡されたあの短剣で二度刺し、流れ出た血を盃に注いで呑み、口元が紅く染め上がる。
 大野の指揮によって都響から噴出する叫喚のような激しい響きを聴きながら、容赦のないトレリンスキの演出を観ていると、人間のなかに眠る、決して否定できない暴力性の存在を突き付けられるようで言葉を失う。戴冠式の際、あれほど熱狂的にボリスを迎えていた者たちが、偽ドミトリーに煽動され、暴虐の限りを尽くす。ボリスの偽りは許されないが、しかし事実を告げたグリゴリーもまた僭称者である。さまざまな「嘘」によって、いとも簡単に趨勢が変わってしまう、その虚しさと恐ろしさ。これは、私たちの世界でいま起きていることそのものだろう。
 ボリスの公開処刑の狂乱が終わると、新たな支配者となった偽ドミトリーが部下を率いてゆっくりと暗闇に消えてゆく。聖愚者の動機が奏でられ、第二幕のあの予言の歌がどこからともなくこだましてくると、背後のスクリーンに、あの荒涼とした大地の映像と荒れ狂う聖愚者=フョードルの姿とが、二重写しに映し出される。
「もうすぐ敵が来る 闇が訪れる 漆黒の闇が 何も見えぬ闇が これぞロシアの不幸 泣けよ泣け ロシアの民よ 飢えたる民よ…」
 二〇二〇年代の今、疫病が世界を覆い、政治的な対立が深まり、人々の間には深い不信が横たわり、ロシアで再び暴力が繰り返され、ロシアだけでなく世界が、神に近い存在であるとされる聖愚者にムソルグスキーが歌わせた予言の通りになった。そして、トレリンスキと大野の新制作によって、その予言は、私たちがこれから経験する未来をも指し示すものとなった。
 その未来は避けられないのだろうか。
 もし神がいるのなら、ボリスのように私も問いたい。すべてがあなたの「御意思」であるならば、なぜ「父」であるあなたは、「子」である我々に、「何も見えぬ闇」を用意し、殺そうとするのか。


*所見の配信はこちらにて9月24日19時まで観られます。


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