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【小説】同じ空の保田(やすだ)さん 11

 その事態は、ある日突然やってくる。

 予測できていたとはいえ、それに対する充分な備えができるほど、周囲が暇とは限らない。

 自分のことすら回らず手一杯だったり、余裕があってもさらに助けを必要とする者へと手を貸したり。

 そもそも、平民が容易に予測できるようなことならば、組織を統治する者は、それができてしかるべき。

 にも関わらず、できていないということは、無能の証しということだ。

 そんな所に、自分を圧し殺してまで居続ける価値を見いだせなくなった、風の時代のある物語。




「 あの………すみません……… 」

 5月も20日を過ぎたある朝。
 出勤したわたしがデスクにバッグを置いて席に座った途端、ゆっくりちゃんがのろのろとやってきてわたしに話しかける。

「 どうしたの? 」

 わたしは、できるだけ優しく問い返した。

「 ……えっと……今、どうにか職場に来たんですけど……昨日もそうだったんですけど……吐き気と震えが止まらなくて……もう早退していいですか? 」

「 ………いいよ 」

 わたしはそう答えながら、察していた。
 もう、この子は明日から出勤できない、と。

 これは、今までわが社で何人もメンタルの調子を崩した人を見た経験則。
 疲れがたまっても休みたいと言えず、ある日突然、電池切れのようにバッタリと休んでしまう。

「 あ、ありがとうございます………あと……義理の母が……昨日から検査入院してまして、………退院の付添いがですね……あ、えっと、入院したのが、一昨日?一昨日、で………………… 」

 それきり、ゆっくりちゃんが黙りこむ。
 わたしは、彼女の話をまとめながら続きを促す。

「 …………一昨日に検査のために入院して、それで、退院の付き添いが必要ってこと?退院はいつなの? 」

「 そうなんです。えっと、入院したのは、あれ、五日前?あれ?今日が……何曜日でしたっけ? 」

 うっすらとした笑顔は絶やさないまま、静かに混乱するゆっくりちゃん。

「 ……とりあえず、今日はもう早退しなよ。自分で課長に申告してね 」

「 あ、はい、ありがとうございます………それで、そういう、義母の入院とか退院が、あの、……すごく大きな負担で………… 」

「 そうだよね、そういうのも大変だよね 」

 共感はしたものの、その義理の母という人の実の子供、つまりゆっくりちゃんの旦那さんはこの負担を背負っていないのだろうか?、とちょっと疑問に思ってしまった。
 
 ゆっくりちゃんは、体調不良で早退することを課長に口頭で申告し、黒いナイロンの通勤バッグを細い身体に斜めがけにして、職場から去っていった。

 保田やすだが彼女と入れ違いで出勤してきた。
 わたしはゆっくりちゃんとの会話を要約して彼に伝えた。

「 ………わかりました 」

 表情を変えずに保田さんはそう答えて席から立ち上がると、ゆっくりちゃんのデスクと仕事用ロッカーを確認した。
 そして、1枚の企画書を取り上げて、わたしに小声で言った。

「 ……この件で、明日お客さんが来るみたいなんです。
私か紫葉しばさんが明日に対応しないとダメかもしれない。
これ、ちょっと面倒な件みたいですね……時間かかりそうだし 」

 保田さんも、ゆっくりちゃんが明日元気になって出勤するとは思っていない様子だった。

 ゆっくりちゃんのデスクもロッカーも、一見では読み取れない筆記体のようなメモが書かれたふせんがあちらこちらに貼られ、書類が積み上がっていた。

 しかし、その翌日。
 わたしは仕事を休んでしまった。体調がひどく悪かったから。

 と言っても、わたしの場合はひどい生理痛と目眩が原因で、きちんと休めば治る症状。

 今日もゆっくりちゃんが来ておらず、保田さんが一人になってしまうとわかっていたものの、だからといって頑張れるくらいなら休む必要なんてない。
 頑張れないほど、わたしのこの毎月の症状も、辛くてたまらないものなのだ。


***


 そして、さらにその翌日。

 本当はまだしんどくて、家で身体を休めたかった。
でも、さすがに二日も休んだら保田さんに悪いと思ったので、痛み止めの錠剤を通常の1.5倍の量服用して、2時間の遅刻でどうにか無理矢理出勤した。

 よれよれながらも職場に現れたわたしを見て、保田さんは「大丈夫ですか?」と言いつつ、少しだけ安心した顔をした。

「 まあ……どうにか…… 」

「 昨日、めちゃくちゃ大変でした 」

 この『 めちゃくちゃ大変 』は、わたしか保田さんが対応しなければならないと彼が言っていたゆっくりちゃんの案件を、彼一人で片づけたことを意味している。

「 すみません 」

「 あ、いえ、紫葉さんが悪いわけではないので 」

 彼は非難めいた口調ではなく、事実として本当に大変だったことをわたしに伝えたかっただけのようだった。

道永みちながさんは?」

 わたしは、目の前のゆっくりちゃんの席に誰もいない様子を目にし、諦め気味で彼に尋ねた。

「 昨日も休みました。昨日は道永さんから休むと連絡がありましたが、今日は連絡がないので、さっき課長が電話しました。
 ………結論は、今日も彼女は休みなんですが、どの仕事が急ぎとか、今日は何の予定があるのかと課長が尋ねても、彼女は何も把握していない様子だったそうです 」

 保田さんの声は普段とあまり変わらないものの、明らかに『 今後の雲色は危ないですよ 』というニュアンスを含んでいた。

「 それで、彼女の担当案件を確認すると、今日はこれがあるんです 」

 保田さんが腕組みをしたまま、少し切れ長の目で一瞬わたしを見て、彼の机にあるクリアファイルをわたしに視線で示した。
 ファイルの中には、例のごとくたくさんのふせんが貼られた紙が押し込まれていた。

「 ……今からファイルの中身をよく確認するんですけど、これの準備が… 」

 その時、保田さんあてに内線電話が入った。
応対した彼は、電話口で少し黙り込んでから、
「……承知しました、すぐ、至急対応します」
と答えた。
 ほぼ毎日仕事で顔を合わせていれば、多少は彼の表情と口調は読み取れる。今の様子だと、何かヤバいことが保田さんの件で起きたのだ。
 受話器を置いた保田さんは、申し訳なさそうにわたしを見た。

「………すみません、あの、…… 」

「 道永さんのを、わたしがやればいいんですよね? 」

 わたしは、保田さんのデスクの上のクリアファイルを手に取った。

「 ……お願いしていいですか? 」

「 はい 」

 わたしが返事をすると、保田さんはわたしに一礼し、すぐに課長の所へ何かを報告しに行った。
 保田さんから何かを聞いた課長が、通りかかった部長を捕まえてさらに何か告げると、部長が眉を厳しい角度にひそめていた。

 わたしは、保田さんから引き取ったクリアファイルの中身を確認し、ゆっくりちゃんのメモの文字を解析した。
 その結果、他所のセクションから山のような資料を借りて、その中からピックアップした情報をまとめたデータを、今日の午後3時に社外の人に渡す、簡単に言うとそんな仕事をしなければならないことが判明した。
 元気で仕事が早い人でも、最低まるまる一日はかかりそうな作業だ。

 今は、午前11時。

 資料を借りる手配もデータをまとめる段取りもできていないまま、完成物を渡す約束だけをしてしまっていた。
 延期してもらおう、と先方の連絡先がわかるものをファイルの中から見つけ出すと、わたしはただでさえ具合が悪いのにますます血の気が引いた。

『 from 福岡 』
『 資料とともに手渡しmust 』

『 4月末からReーscheduling 』

『 遅くても5月20日頃がmust 』

 ゆっくりちゃんのメモ書きに筆記体の英単語が混じってるのは、帰国子女だからだろう。
 それはともかく、データと関係資料を受け取るために先方は福岡からやってくる……4月から予定を再調整し、受け取りマストが5月20日頃、つまり今頃。
 ………先方の担当者は、もうとっくに福岡を出ているだろう。
 予定を再調整のうえ今日来てもらっておいて、こっちの不手際で渡せませんでした、とはとてもじゃないけど言えない。
 
 ………わたし、今日、何しに出勤したんだろう?
 わたしだって、本当は辛くて休みたかったのに。
 わたしだって、自分の仕事が山の方にたまっているのに。
 急げと言われているものを、お待たせしてすみませんとか言いながら片づけてる状態なのに。

 来れなくなってしまったゆっくりちゃんを恨みたいのでも、自分の仕事に追われてしまった保田さんを責めたいわけでもない。 
 ただ、今日のわたしは、とてもじゃないけれど、助け合いとか誰かの役に立ちたいという前向きな思いなんて1ミリも持てなかった。
 お腹の鈍い痛みとともにじくじくと湧き上がるのは、こうなることが火を見るより明らかだったのに、こんな人員配置しかしない管理職達への憎しみや怨みとも言えるどす黒い気持ち。

 ──── イライラしすぎて、吐き気がしてきた。
 ………でも、わたしがやると保田さんに言った以上、やらねばならなかった。
 吐き気がしても、薬の服用が異常でも、わたしは早退したいと言えない状況だった。






つづく。

#創作大賞2023

(約3700文字)

※地名などは実在の場所に由来しますが、物語とは一切関係がありません。

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