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【小説】同じ空の保田(やすだ)さん 12

 コップに液体を溜め続ければ、いつかは溢れる。

 その中身は、一種とは限らない。

 様々な味や匂いの液体が少しずつ注ぎ足され、コップの空間を徐々に埋めてゆく。時には一挙にかさが増すことだってある。

 そして、とどめとなる最後の一滴は、実は無味無臭の水かもしれない。

 たまたまそのしずくが最後にコップの中へ落ちたにすぎず、問題は、その一滴が何かではなく、液体の表面張力の限界値まで張り詰めるほどコップを満たし過ぎたことが問題なのだ。

  そして、『 覆水盆に返らず 』という、手遅れの状況が生まれる。




 ゆっくりちゃん担当のお客さんを、ミーティングルームから無事に送り出した。その途端、わたしは行動力も思考力もすべて失い、自分の席にたどりつくとまったく動けなくなってしまった。
 モヌケノカラ、という言葉がぴったりで、自分の席で、ただただひたすらぼぉーー……っとほうけていた。

 ………これが、体調が悪くても自分の大きな仕事を一つ達成したのであれば、無理をした甲斐があったと思えるんだろうけれど。

 周囲では、同じセクションのメンバー達が慌ただしく動いたり話したり、どこかの内線電話がひきりなしに鳴っている。
 それらが、自分とはまったく無関係に見えて、どこか遠い世界の様子がテレビの画面越しに何となく写っているだけのような奇妙な感覚だった。

 ………メンタルが悪化して突然来なくなったゆっくりちゃんの仕事を引き受け、自分のことではないのにあちらこちらに謝りながら走り回って資料をかき集め、お昼も食べずにPCにデータを叩き込んだ。

 作業でわからないことがあっても、誰も助けてはくれない。
 仕方なく、今までこの会社で働いてきた経験から閃いた発想や直感で補うしかなかった。
 本来なら誰かとチームを組んで分担し相談しながら処理する作業で、一人でやるならそれなりに時間も経験値も必要。
 それが、突然『 短時間で一人でやれ 』と降って来たようなものなのだ。
 しかも、この業務に関してはわたしの経験値がほぼゼロなのに。
 ………そんなこんなで、独りですったもんだしつつ、福岡からやってきたクライアントの担当者を15分くらいはお待たせしてしまったものの、わが社としての成果物を本当にどうにかお渡しすることはできた。形の上では一応事無きを得た。
 これを元に他社と明日から交渉に入れる、助かりました、と福岡から来た30代後半くらいの男子が、嬉しそうにわたしに丁寧に御礼を言った。
 わたしが頑張って、誰かが救われて良かった、とこの時だけは素直に思った。

 ……………けれど、一人でデスクにいると、急にひどい孤独感に陥った。

 『 誰か、誉めてほしい 』
 『 ねきらってほしい 』

 一言で言葉にしたら、そんな気持ち。

 仕事だから、やれて当たり前?

 まず、自分の仕事じゃない。
 体調不良で仕事に来れなくなった他の人の担当。

 そして、わたしだって休みたいくらいの体調不良。

 それを、こんなに自分に鞭打って、自分をいじめてる様で。

 …………じゃあ、わたしも休んじゃえばよかったの?
 休んで投げ出したら、保田さんがやってくれたの?
 彼の方がわたしより同じ業務の経験値が高く頭もいいしPC操作も格段に早い。  
 わたしが苦しみながら片付けたゆっくりちゃんの仕事なんて、難なく短時間で仕上げたのかもしれない。

 でも、もしそうだったなら、彼が今日突然処理することになったらしき何かしらの不始末は、誰がどうすることになったの?

 ………誰かが、どうにかしたのかもね。
 組織って、そんなものだから。

 特に、うちの会社みたいに大きければ大きいほど、誰かがいて、誰かがいなくなって、誰かが仕事をしない分はどこかで誰かが被っている。
 誰かがいないとどうしても困ることなんて、ない。
 だから、『 人を大事にする 』みたいなことを会社のモットーとして掲げながら、所詮は代わりの誰かがやれば足りてしまう。
 代わりになったまともな誰かは、『 組織のためにそうするのが当然 』と割りきるしかない。
 

 組織にいるのは、確かにラクな部分もある。うちの会社は、健康診断だって福利厚生だってそれなりには備わっているし、とりあえずお給料はきちんと出る。

 だから、『 お金のため 』と割り切って働く人は多い。

 特に、昭和生まれの人なんて、たいていそうじゃないだろうか。

 一昔前は、会社にいれば、それなりにお給料が増えて安定した暮らしがあるという見返りがあった。
 そして、一部の特殊な職業を除けば、世の中のみんなが似たようなものだという共通認識が無意識にあった。
 だから、お金のため、家族のためというそんなシンプルな理由で職場での理不尽に耐えて来た人は山ほどいる。
 それが、当たり前だったからだ。

 この価値観を変わらず保てるなら、それはそれでいいと思う。

 ただ、わたしは昭和の生まれではあるけれど、だからいって『 こんなもんだよね 』と仕事を割りきれるほど、古くさくできてもいなかった。

 ─────── 今は、時代が変わった。
 価値観がガラリと変わり、我慢や忍耐をそれほど良きものとはしなくなった。

 『 私らしく 』
 『 私を大切に 』
 『 私の好きなことを 』

 でも、その方が上手くいったりする。
 楽しい気持ちや本当に求めるものを大事にする、そんな明るいオーラだけが選ばれたように風に乗って、ますます増幅してゆく。
 今は、そんな時代なのだ。

 …………ぼぉーっとした頭が少しずつ回り、気がつけばごちゃごちゃとそんなことを考えていた。

 もやもやした気持ちに加え、鎮痛剤が切れたお腹に鈍く重い痛みを感じる。

 …………薬を飲もう。
 それで、デスク周りを片づけて、定時になったらさっさと帰ろう。 
 今日のわたしは、頑張りすぎなほど頑張った。

 わたしは少しずつ 手を動かし始めた。

 資料のファイルを整理していると人の気配を感じたので、そちらの方に目をやった。
見れば、保田さんが自分の席に戻ってきている。
 彼も自分の案件で動き回り、離席している時間が多かった。

彼の方はまだ片付いていないのか、黙ってPCのキーボードを叩き始めたけれど、わたしの視線でふとこちらを見た。

「………お疲れ様です。
道永さんの件は、何とか終わりました」

 わたしがそう報告すると、保田さんは硬い表情のまま、

「……こっちの方は、もうちょっとかかりそうです」

と答え、PCのキーボードを叩き続けた。

 
 ………肩すかしをくらった気分。
 なんとなく、もっと、何か……
 お疲れ様でしたとか、大変でしたよね、とか、無事終わって安心しました、とか。

 もうちょっと、何か一言でいいから、
…………
 ………誉めてほしい、なんて、自分でも子供みたいだと思ったけれど、わたしは疲れ切っていて、身近な人からのほんのささやかな一言に飢えていた。

 ………わたしは黙って、再び自分のデスクの片づけを始めた。

 わかっているよ、保田さんだって、大変なんだよね。

 『 淋しい 』なんて、思ってる場合じゃないよね。

 元気で優秀な組織人なら、きっと「 わたしも何かお手伝いしましょうか 」と申し出るのだろう。
 残念ながら、わたしは体調不良のうえに足を引っ張るだけなのでやめておいた。
 その分、わたしか彼がやらねばならない夕方のルーティーンの業務を片づけて、定時に会社を後にした。


***


 電車で座って爆睡し、朦朧としながら重い身体を引きずるように帰宅した。
 部屋でテレビをつけると、ちょうどCMにとぴ君が出て来た。
 こんな時に、こんなタイミングで、人生最大の推しが流れてくるなんて、奇跡のような偶然が嬉しい。

『 お疲れ様、無理は、しないでね 』

 会社のデキる上司風イメージなのか、スーツ姿のとぴ君が笑って、画面の中で宣伝商品のミルクコーヒーの缶をこちらに向かって差し出した。

 …………じんわりと涙が浮かんできた。

 日中、仕事をしながら、『 泣きたい 』と何度も思った。
 さすがに40を過ぎて仕事中に泣くのはどうかというプライドだけで、涙を踏みとどめていた。

 今は、ぽろぽろと溢れる涙が止まらない。
 ───── それは、推しの言葉に癒されて嬉しい、というオタク的な涙ではなく。

 ……………どんなに理不尽な思いをこらえて頑張っても、どんなに無理をして疲れきっていても、画面越しの芸能人くらいしか声をかけてくれない。
 そんな孤独が、とどめになった気がした。

 昭和と令和のはざまにいる自分。

 いい歳して、出世はしていない、
 とうの昔に出世なんて見限ったから。
 でもその結果、組織の痛い馬車馬に成り下がった自分。

 どこか繋がっているように思える同じ職場の人に、すがるように救いの言葉を求めようとする自分。

 どこにも、なりたかった自分の姿なんてない。

 そんなことを、この歳になって急に悟って、妙に悲しくなって、本当に何もかも嫌になった。

 ………なんかもう、疲れた。

 こんなに淋しく惨めな思いをしながら、どうして働かないといけないのだろう。

 我慢したら、いつかは異動になる。

 その、いつかって?

 しかも、今のセクションから確実に異動があるかもわからない。さらに、その異動は残念な管理職達の手中にある。そんな人達に、わたしの働き方が翻弄されなければならないのだ。
 
 それでも、今まで働いてきた、40を過ぎて転職もままならないだろうから、と言って、『 我慢 』を続けるべきなんだろうか。

 そもそも、なぜ自分が壊れるほど『 我慢 』をしなくちゃいけないのだろうか。

 

 ─────── なんだか、もう、
本当に無理。もう、我慢できない。
 もう辞めよう。


 そう固く誓った。


 保田さんという、隣の席の不思議な人と、もう少しゆっくり『 お疲れ様 』と言いながらペットボトルのコーヒーの一本でも一緒に飲んでお互いの気持ちをもっと共感できる場があれば、……この虚しさを少しは浄化できたのかな。

 でも、いくら、ちょっと気になってはいる人とはいえ保田さんのために働くわけじゃないし、この先保田さんだって異動してどこかへ行ってしまう。


 わたしは、わたしを助けたい。
 わたしを楽にしてあげたい。
 解放してあげたい。
 だからもう、この会社でこんな働き方をすることから、逃れるのだ。

 わたしのためにできることは、わたし自身の基準で決めるべきだ。





つづく。

#創作大賞2023

(約4300文字)
(2022年8月の作品をリライトして再投稿)

※地名などは実在の場所に由来しますが、物語とは一切関係がありません。

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