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【小説】同じ空の保田(やすだ)さん 13

 いい意味で、もう限界だと逃げ出すことを決めたのであれば、決して戻ってはいけない。

 そこまで我慢したのであれば、多少の飴をもらったところで、その後にこっぴどい鞭が待っていることも身をもって知っているはずだ。

 どんなに情に絆されたとしても、それを頼りにして再び自分に無理を強いることを、幸せとは呼べない。

 本当に自分を救ってくれるのは、自分が心から納得して決断した、その判断なのだ。






 会社の体制に、今の業務に嫌気がさしすぎて、仕事を辞めようと思ったのが金曜日。
 週末を迎えても、わたしの退職の気持ちは変わることはなかった。

 しかし、辞める辞めると言っても、突然辞表を出してこれ以上チームの人数を減らせば、本当に保田やすださんを苦しめてしまうしセクションの他の方々にも迷惑になる。


 それに、じゃあこれからどうやって稼いでいくのかなんて全くアテがない。

 特技も資格もこれといってナシ。
 家業を継ぐとか、誰かのツテで働けるような人脈もない。

 今の時代なら、転職準備としてとりあえず何か副業でも考えるんだろうけど、あいにくうちの会社は副業禁止。副収入なんてバレたら、退職どころかクビになるかもしれない。


 そんな、ナイナイ尽くしで今後の見通しもなく、危ない橋どころか渡るための橋すら目の前にないわたしだけど、それでも、仕事を辞めたくてたまらなかった。

 辞めないと、何も始まらない、何も変えられない。
 そんな強迫観念にも似た思いで、心が張り裂けそうで。

 きっとどうにかなると未来を信じるしかなく、自分の中で来年の3月を在職期限として設定した。



***


 わたしの辞めたい気持ちを後押しするように、月曜日もまたうんざりする出来事が満載だった。


 まず、朝一番で、ゆっくりちゃんが2か月の病気休暇をとること、人が欠けた分の助っ人は特に来ないことを課長から告げられた。

 三人でも人手が足りなかったものを、二人でどうしろと言うのだろう?

 そして、わが社の場合だけど、メンタルを理由に休職した人が二ヶ月で戻った試しがない。結局、もっと長く休養して完全に元通りに働けるよう、会社の方が休職延長を推めるからだ。
 そして、調子を崩した部署に戻すことも基本的にはしない。 
 だから、ゆっくりちゃんが二ヶ月でうちのチームに戻ってくるはずがない。

 さらに、わたしは二年前の担当者がやらかしたミスに食いついたクレーマーのようなお客さんの対応に緊急で追われることに。
 仕事をまだよくわかっていないわたしですら、当時の担当者がどうしてこんなイージーミスに気づかないのか謎だったし、そのツケをどうして自分が払わねばならないのかと馬鹿らしいことこのうえなかった。

 保田さんは保田さんで、ゆっくりちゃんが積み残した業務の洗い出しにかかった。
 超要急案件が5件ほど放置されていることに、普段は淡々としている彼もさすがに青くなっていた。

 また、要急案件が処理できていないうえ、急ぐ必要はなく、隙間時間を使ってシステムに簡単な入力をすれば即終了となる仕事も、ゆっくりちゃんのデスクの片隅にひっそりと数十件放置されていた。
 これは、システム管理上、ゆっくりちゃんのログイン権限が必要で、流石の保田さんでも権限なしでは処理ができない。


 わたしは、自分の前の席に座っていたゆっくりちゃんの顔をちらりと思い出した。
 いつも少し笑ったような顔をして、そこに静かに座って、本当にいったい今まで何をしていたのだろう。
 残された業務の書類に山のように貼られた色とりどりのふせんと、読み取れないメモ書きの数々は、彼女なりの努力を表してはいるけれど。

 ………これが病というものなので、仕方ない。
 こうなることを予想していたものの、あらためて現実となると、春先の人事異動を担当した管理職達への憎しみしか生まれてこない。

「 ……こんな簡単なこと、どうしてすぐにやれなかったんですかね? 」

 簡単な入力作業放置の山を見ながら、保田さんが静かに言った。
 彼はゆっくりちゃんを非難している訳でなく、ただただ不思議、という顔をしている。

「 ……だから、彼女はここでの仕事は無理だったってことなのよ、最初から。
まあ、わたしもむいてないけどね、このセクションの仕事。
悪いのは道永みちながさんじゃなくて、もともと頑丈じゃない彼女のメンタルの症状を知ってて、こうなることが簡単に予想できるのに、こういう人事を無理矢理にした人達が悪いんだから」

 わたしは、誰に聞かれても構わないつもりで、はっきりとそう言った。

 こんな職場辞めてやる、と決めた人間は、強い。
 

***


 その後、わたし達二人はとにかく黙々と業務をこなした。
 
 わたしはわたしで自分の仕事、つまり二年前の担当者の尻拭いに追われた。
 こんなものがなければ、今たまっている本来の仕事ができるのに、と思うと腹正しくて仕方がなかった。

 保田さんは、ゆっくりちゃんが残した要急案件を片づけられるものから処理していった。

 このチームで働いてみてわかったことだけど、春先から保田さんの業務の負担は、実は、減ってはいた。
 それまでの体制と変わったことで、今まで彼が担当していた業務が、わたしとゆっくりちゃんと保田さんの三人に割り振られるようになったからだ。

 わたしとゆっくりちゃんは、不慣れもありなかなか処理ができず、そして次から次へと新案件が降ってくる。
 保田さんは、慣れているうえに今までよりも担当する案件が減った。
 だから、ゆっくりちゃんが残した案件を保田さんが処理するのは、大変ではあるけれど無理無理なものではなかった。

 ………ゆっくりちゃんは、結局仕事を保田さんに片づけてもらえる。
 わたしは、結局仕事がたまる一方。

 本 当に何なんだろう、この職場。
 仕事とともに、苛立ちが増す。
 吐き気がしてきて、時には手が震えた。

 ………ゆっくりちゃんは、吐き気がして震えるから帰っていいですか?ってわたしに言ったよね?
 保田さん、わたしも帰っていい?

 そんなふうに、淡々と仕事をこなす彼に向かって内心で少し毒づいてしまうわたしがいる。


 来年3月末で辞める、と決心していなければ、この月曜日をとても乗り切れなかった。


***


 夕方。

 ようやくクレーマーの件がおさまったわたしは、そこでやっと一息ついた。

紫葉しばさん 」

 保田さんの声でわたしが顔をあげると、彼はペットボトルを差し出した。

「 お疲れ様です、今日も大変でしたね。これ、よかったら 」

 ………それは、金曜日にとぴ君がCMで宣伝していたものと同じ、ミルクコーヒーのペットボトルバージョン。

 保田さんは話を続ける。

「 ………金曜日は、すみませんでした。ありがとうございました。
金曜は私も余裕がなくて、今日もあれこれあったし、まだきちんとお礼を言ってなかったですよね。
コーヒー、嫌いじゃなければどうぞ 」

 保田さんの口調は丁寧だけど、仕事の説明をする時の堅苦しさが完全に抜けていた。

 …………わたしの頭には、金曜日に目にしたとぴ君のCMが浮かんでいた。

 お疲れ様、と、このミルクコーヒーを差し出す、スーツ姿のデキる上司風のとぴ君。

 目の前で、ほぼ同じコーヒーを差し出して、『 お疲れ様でした 』と伝えてくれる、スーツ姿の仕事が超できる同僚の保田さん。

 ………さすがに二人が同じに見えるほど乙女全開な歳でも頭脳でもないけれど、
……心が、言葉にならないものでいっぱいになった。


「 あ、お好きでなければ……無理にというわけでは 」

 黙ってるわたしに、保田さんが遠慮がちにそう言った。

「 ……いえ、なんでもないです。
……ありがとうございます、ごちそうさまです 」

 わたしは保田さんから、ミルクコーヒーのペットボトルを受け取り、あらためてボトルのラベルを見つめる。

「 ……これ…… 」

「 新しく出たやつですよね。
私、コーヒーは結構好きなんで、新しく出たものは必ず買うんです。
これ、コンビニで見つけたんですけどね、結構美味しかったですよ 」

「 ……そうなんですか 」

 そういえば、とぴ君が宣伝する商品は必ずチェックして買っていたわたしなのに、週末は仕事のことで心身疲れきって、CMを見たきり忘れてしまっていた。

 …………そうだ、このコーヒーのCMを見た金曜日は、保田さんだって日中大変だったのに。

「 ……………保田さんこそ、金曜日はお疲れ様でした 」

「 ええ、めちゃくちゃ大変でした。
こんなの知るか、俺のミスじゃねえし!って感じの内容だったので。
今日は今日で、………私達、実は結構ひどい目に遭ってますよね 」

 彼は、わたしに同意を求めるように笑った。

 笑わない、と聞いていた彼の笑顔を、この春から何種類か見て来た。
 今、見せてくれたのは、その中で一番、素直でくだけたものだ。
 そして、あまり愚痴を言わない彼でも、彼なりに不満があって、それが人間らしくて親しみが余計に溢れてくる。

 こんなの知るか、俺のミスねえし、って。

 それは、もしかして、今日のわたしに降ってきたクレーマーの案件のことを気づかってくれた言葉だろうか。



 …………『 私達 』

 一緒に大変な思いをしてる仲間ですよね、私達は、と言ってもらえた気がした。


 嬉しさが込み上げる。

 ………でも、それは、先週の金曜日の夕方に言ってほしかった。


 ごめん、保田さん。

 私は、貴方を置いて、会社なんて辞めるって決めちゃったから。

 今さら、そんな笑顔見せられても、決めたことはもう変わらない、変えたくない。

 わたしが若い頃なら、その言葉と笑顔とコーヒーで、もうちょっと頑張ろうとか思えたかもしれないけど。

 ………こんな歳になると、そんな単純ではいられないんだよ。


 保田さんの優しい笑顔が今まで一番嬉しくて、そして、苦しくなった。





つづく。

#創作大賞2023

(約4000文字)

※地名などは実在の場所に由来しますが、物語とは一切関係がありません。

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