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アンティークコインの世界 | スイスのターレル銀貨

今回は、スイスのベルンで発行された一枚のターレル銀貨を紹介する。スイスはドイツで使用されていた単位ターレルを基準に貨幣を発行した。それゆえ、ドイツのものと同じく、スイスのターレル銀貨も直径40mmを超える大型貨幣で非常に見応えがある。スイスのコインと言えば射撃祭シリーズが有名だが、それ以外はマイナー気味であまり知られていないかもしれない。だが、スイスのコインは周辺のヨーロッパ諸国とは異なる独特のデザインや造りが目を惹く。

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図柄表:熊と盾紋章(Bear and Crowned coat of arms)
図柄裏:ナイト立像(Standing Knight)
発行地:スイス連邦カントン州ベルン造幣局(Bern mint Kanton Swiss Confederation)
発行年:1798年
銘文表:RESPUBLICA BERNENSIS(英:Republic Bern 邦:共和国 ベルン)
銘文裏:DOMINUS PROVEDEBIT 1798(英:The Lord will provide 邦:主が与えてくださる 1798年)
額 面:1ターレル(Thaler)
材 質:銀(Silver)
直 径:42.0mm
重 量:29.3g
分 類:DAV1760B、KM165
状 態:EF+ Toned(極美品 トーンあり)

神聖ローマ帝国で行われた宗教・政権紛争「三十年戦争」の間、ベルンには大シャンツェと小シャンツェと呼ばれる二つの城壁が建設された。この城壁のお陰でベルンは守護され、破壊されることなく発展を遂げた経緯がある。スイスは都市国家が連なる連邦組織であり、それぞれの都市が独自のルールを持っていた。ベルンもそうした都市のひとつであり、貨幣発行権を有する大都市でもあった。ベルンの造幣局はスイスのメインとなる造幣局であり、この後の時代でも多くのコインがこの都市で発行された。

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ゲルマン(現ドイツ及び周辺に存在した先住民族)やケルト(ブリテン及びアイルランドの先住民族)を中心とする北方民族は熊を王権の象徴としていた。ブリテンのアーサー王の名は、「熊」を意味するという説もある。それゆえ、ドイツ諸国と同じくスイスも熊を国家のシンボルとしていた。発行都市ベルンの語源も「熊」に由来するとされている。それゆえ、熊が都市ベルンを象徴する紋章になっている。実は、この熊の構図には名称が定められており、スタイルごとに呼び方が分けられているので紹介する。

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パッサント
熊が四つ脚で歩いている姿。まさに本貨の姿に値する。

ランパント
熊が後ろ脚で立ち上がった姿。

セジャント
熊が座った姿。

デミ
熊の上半身だけの姿。

ギャム
熊の足だけの姿。

マズルド
口枷(くちかせ)がはめられた熊の姿。

マズルド・アンド・チェインド
鎖付きの口枷をはめられた熊の姿。

ヨーロッパでは熊を痛めつける見せ物があり、動物愛護法などの概念が存在しない当時は、これが人気のある催し物のひとつだった。口枷が施された熊を描く風習は、この文化影響であるとされる。

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スイスのザンクト・ガレンで1776年に発行されたターレル銀貨。「ランパント」構図の分かりやすい例のひとつである。後ろ脚で立った熊の姿が描かれている。

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熊が描かれた王冠盾紋章はオーバルで囲まれており、その外側には「RESPUBLICA BERNENSIS」と刻印されている。これはラテン語だが、中世以降の形式を採っており、「V」が「U」で示されている。古代ローマでは「U」が存在せず、「V」を「U」と「W」の両方の音価に使用していた。この不便さと紛らわしさから中世に「U」の音価は先を丸めて「U」の形にし、「W」の音価は先を尖らせた「V」の形にすることを定めた。

「RES PVBLICA(res publica レスプブリカ)」は、公益や公法を指し、個人的権威を有するもの、すなわち王政や元首政と相反する政治共同体を示す用語である。邦訳では、「共和国」や「共和政」という言葉が当てられている。対義語は「RES PRIVATA(res privata レス・プリワタ)」である。

共和政ローマはラテン語で「RES PVBLICA」と表現された。この名称は古代ギリシアの哲学者プラトンの著作『ΠOΛITEA(ポリテイア)英:politeia 邦:国家』に由来する。古代ギリシア語で記されたこの書をローマがラテン語訳した際に「RES PVBLICA」という訳が当てられた。この言葉はラテン語で「共和国」ないし「共和政」を意味するものであり、本貨発行都市のベルンも共和政を敷いていたことを示している。

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長剣を携えて立つナイトの立像が描かれている。羽根帽子を被り、胸にはキリスト十字が装飾されている。彼の足下には「1798」という発行年が刻印されている。また、オーバルで囲まれたナイトの外側には「DOMINUS PROVIDEBIT(ドミヌス プロヴィデビット)」と刻印されている。「PROVIDEBIT」の 「B」は未来形を示すもので、「I」は発音のしやすさのために添えられた意味を成さない接続母音である。これは「提供する/与える」の意で、動詞の三人称単数形となる。すなわち「DOMINUS」という男性名詞に続く男性形で、「DOMINUS」が主語であることを示す主格である。そのため、試訳するなら「英:The Lord will provide 邦:主が与えてくださる」となる。

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彫刻の描写が非常に細かい。ナイトは右手に長剣を携えているが、人差し指だけ立てている点など、細かい部分に芸がある。また、軍服の装飾も鮮明で、ある種ファッションカタログのように楽しめる。

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エッジには偽造防止対策としての切れ込みが入られている。プレーンエッジの場合、エッジを僅かに切り取り、銀地金を抜き取られるリスクがある。そうなると、エッジが切り取られたコインをそのままの額面で使用され、取られた銀地金を別の形で換金されてしまう。紙幣や卑金属が主流とされる以前の時代は、こうした詐欺行為を行って私腹を肥やすことを企む者が大勢いた。

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本貨の場合は非常に繊細で美しいギザであり、デザイン性も重視した手の込んだ造りである。職人の手業によって成されるもので、こうした複雑なギザ処理には感服する。

最後に繰り返しになってしまうが、本貨は熊をあしらった紋章のデザインが非常にユーモアで可愛らしい。この種の熊をモティーフにしたコインは、いくつもヴァリエーションがあるため、ついつい集めたくなってしまう気にさせる。ターレル銀貨という大型貨幣ゆえ、熊の毛並みまで繊細に表現されていることから、飽きずにずっと楽しむことができるだろう。それがターレル銀貨の最大の魅力であり、醍醐味のひとつであると思う。底なしの面白さを秘めたアンティークコインの世界。その片鱗でも伝えることができれば幸いである。


Shelk 詩瑠久🦋


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