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2050年 83歳の挑戦 房総半島沖大震災を越えて-前編【2050年の大多喜無敵探検隊-03】

 車は、モーターの振動をわずかに響かせると、私の実家があった場所から、まるで氷の上を滑るように静かに動き出した。
この権現坂通りは一方通行なので、もう一度この小さな旧市街をぐるりと廻って、今度は千葉銀行のT字路から右へまがり、そこから一気に県道伝いに大原を目指そう。
確かこの道は‥、房総半島沖大震災ぼうそうはんとうおきだいしんさいの影響を受けていないので、昔のままの風景だったな。

 車は大多喜小学校の校門前で左に曲がり、一旦道なりに進むと、桜台さくらだい交差点の赤信号に引っかかった。
正面に白い千葉銀行の低層ビルが見える。しかし建物には灯りはない、銀行の看板も既に撤去済だ。外観のくたびれ具合からも、実店舗が抜けて大分時間が経ったようだな。
人口減少に伴って、銀行窓口は日本中でみるみる閉鎖された。今ではどこの銀行も、ネット上の取引に置き換わって久しい。
そんな大手の金融機関でさえも、実店舗は都道府県に一つあるかないかの時代だ、大多喜に実店舗があるわけないよな。
そういえばレディ、実はこの千葉銀行にも、勇一との思い出があるんだよ。
当時の私は、銀行に拳銃のようなものを持ち込んだら本当に捕まるのかを試してみたくなってね。その少し前にニュースで聞いて、純粋な好奇心から、どうしてもやってみたくなったんだよ。
そこで勇一と相談して、私は銀玉鉄砲を、隣家の勇一は金属バットを手にして、2人でこの千葉銀行に突入したんだ。
でもなぁ、この通りに町は狭いし、さらに父の仕事の新聞記者ってのは大多喜では珍しいようで、その息子の私の顔も思いっきり割れててね。突入したはいいが、警備員と女性行員にすぐ個人特定されちゃって、挙句に「千葉日報の息子さん、今日は貯金しにきたの?」って聞かれちゃったんだよ。
いやはやあのときは恥ずかしかったね、もう私と勇一は顔が真っ赤でな、だから仕方なく社会見学に来ましたって言ったんだ。
我ながら、銀玉鉄砲と金属バット持って、何が社会見学だよって思ったよ。
そんな私の思い出話に、車のAIと同期中のレディはクスクスと笑いはじめ、車内のスピーカーを通じて話しかけてきた。
「マスターは本当にやんちゃなお子さんだったんですね。しかも勇一さんもご一緒にオモチャの鉄砲と金属バットですか、当時から大変気が合ってらっしゃって‥、うふふふふふ」
レディは続けて
「私も本日、久しぶりに彼にお会いするのが楽しみになりました‥ふふふ」

 信号が変わり、車は千葉銀行の脇を抜けるように右折した。子供のころによく通った2軒の駄菓子屋の跡地を横切り、続いて赤い外廻橋とめぐりばしを抜けて、圏央道の鶴舞インターから続くバイパスの十字路を突っ切る。旧市街の実家跡に寄らなきゃ、ここで左折したんだよな。しかし私の実家跡からここまでは、車だとあっという間だ。運転するのが億劫だが、車はつくづく便利なものだよ。‥まぁそういう私自身が、今日の運転は終始レディに任せっきりで偉そうなことは言えないんだけどね。
第一彼女はこれだけ運転が上手いんだ、せっかくなので最後まで任せたい。それにこの車は田舎道を走るには大きすぎる。83歳にもなるポンコツじいさんの私が運転したらすぐぶつけそうだ、ちょっと怖いよ。

 そのまま車は、大多喜女子高があった雷台いかづちだいを抜けると、40km/hの法定速度を維持したまま、大原を目指して国吉方面に向かう。

(いすみ市増田 2050年では外房市増田の田園風景 無人のトラクターが農作業している)

房総丘陵の大多喜を抜けると、しばらくは田園地帯が延々と続く。
水が引かれた水田では、そこかしこで無人のトラクターが田植えをしていた。これら無人のトラクターは、衛星からのGPSで正確に位置情報を把握し、さらにAIと遠隔操作で機械的に田植えを行っている。きっと近くに、この辺りの水田を管理する農業法人があるはずだ。そこの涼しい部屋で、管理者たちがモニターを眺めながらトラクターの仕事っぷりを常時監視し、必要であれば遠隔操作をしていることだろう。
実はこれから会う勇一も、この手のことを大原の山田地区でずいぶん前から行っている。ここの持ち主も彼に聞いたらすぐわかるだろう。
あぁ、今の時代じゃ大原の山田とは言わないか。ちょっと前までは、いすみ市の山田、現在は外房市の山田だ、いすみ米というご当地ブランド米が旨いところでホタルの里もある。
そういや蛍は大多喜の実家でもよく夜中に飛び込んできたが、当時の私は全部キンチョールで撃退していたな。
思えば私は、風流さのかけらもない少年だった。
そうだ!まだ新米の季節じゃないけど、せっかくだから今日も少しもらっていこうか?でも勇一ははケチんぼ爺さんだから、私からもきっちりお金を取ろうとするんだ。そのわりには人に借りたお金はさりげなく踏み倒す。何度かそれで私からの借金をうやむやにされた記憶があるぞ。
今度は私が「後払いする」といい、そのまま踏み倒してやろうかな。

 車は、国吉の町なかに入る直前の踏切で遮断機に引っかかった。
いすみ鉄道はローカル線で便が少ない、それで遮断機に捕まるのは中々確率的にもめずらしいことだ。
ぼんやり踏切を眺めていると、警報機の音に続いて、たった一両だけのディーゼル列車がやってきた。
それはキハ20-1303だった、まだ現役なのか凄いな。それに今もディーゼルエンジンというところがなんとも郷愁をさそうじゃないか。
この車両は2015年ごろに、いすみ鉄道の名物社長だった鳥塚さんが導入したものだ。わざわざ国鉄時代の気動車に似せて作られた当時の新型車両で、自動車みたいにサイドミラーが付いたレールバスとも呼ばれるワンマン列車だ。当時、私はちょっとしたご縁で、このお披露目会に参加させてもらったんだよな。懐かしいなぁ‥。

(キハ20-1303 いすみ鉄道の2015年製造の気動車 昭和の写真ジェネレータ(仮)で加工)

あの頃のいすみ鉄道沿線は間違いなく輝いていた。お陰で私の故郷の大多喜町も全国に名が知られることになり、土日にもなるとたくさんの観光客が、この寂れてた町を闊歩してたんだ。当時のいすみ鉄道のキャッチコピー「ここには何もないがある。」あれは名句だったね。
そんな有名になった大多喜町だ。私も出身を聞かれた際などに「いすみ鉄道の大多喜ご出身ですか!」と言われて、少々照れくさくも嬉しかった思い出があるよ。
ただ、彼が任期を終えて大多喜を去ったあとは、ここはまた昔のように一気にしぼんでしまったっけな。なんというか、まるで夢から醒めたかのような感覚になったんだ。
でも彼がこの大多喜で私たちに見せてくれた地に足の着いた地域振興、地方創生の効果が、今の私の、故郷での事業展開の原動力のひとつになっているのだろう。

しかし一番の動機は、やっぱりこの故郷一帯を襲い、海岸線を中心に幾つもの町をボロボロにした房総半島沖大震災と、その復興を信じ熱意をもって励んだ地元の人々、そんな中でも死んだ弟と同級生だった地元の議員さんの強い思いに動かされたのだと思う。
これがなければ、私は疲弊する一方の房総半島で、わざわざ新しいことをやろうなんて思わなかったはずだ。
第一私は既に大多喜を離れ、半世紀以上も市川市に住んでいる。半世紀どころじゃないな、今年で確か65年目だよ。大多喜にいたときよりもはるかに長い人生を市川市の行徳で過ごしている。
それに元々私は小さなIT関連会社の代表取締役で、ひとまずは何とかそれで喰ってはいけてたし、60歳を過ぎたらセミリタイアして、あとはお気楽にやればいいかな、ぐらいに考えていたんだ。
でも私は、あの20年ちょい前の大地震のせいで、結局リタイアするタイミングを失ってしまったようだ。

(外房市勝浦の部原海岸に押し寄せる津波)

 この外房市一帯は、今から四半世紀ほど前のあの大震災の頃がもっとも悲惨だった。あの大地震で、外房市を含む海岸線の町がほとんど壊滅してしまったんだよ。
千葉県東方沖を震源とした房総半島沖大震災の揺れは、最大で震度6強だったが、とにかく津波がひどすぎた。最大20m、一部では40mにも達したという大津波が何度も何度も押し寄せて、外房市や安房市、九十九里浜一帯の海岸線をきれいに吞み込み、瓦礫の風景にしてしまったんだ。
またタイミングが悪いことに、地震発生時はちょうど夏の海水浴シーズンだったので、人的被害もずいぶんひどいことになった。
この地震で最も被害が大きかった千葉県だけでも、死者は2万2千人、行方不明者は1万人ぐらいだったように記憶している。
特に外房市周辺では震源がそれほど離れていなかったため、緊急地震速報が出てまもなく津波が押し寄せてきてしまい、まったく非難する時間がなかったことも甚大な被害につながった。

(津波の被害にあった外房市勝浦の中心部)

そこに追い討ちをかけるように長くしつこく続いた地殻変動が、これまたひどかった。余震を含めた度重なる地震の揺れで、地下の天然ガス層、南関東ガス田からガスを含んだ泥水があっちこっちで盛大に溢れ出るようになってしまい、房総の中央部、一宮茂原市いちのみやもばらしを中心に、急激な地盤沈下が始まったんだ。
さらに関東フラグメントもこの揺れの影響で南側の一部が沈み出し、その結果、千葉県を南北に分ける割け目が出来てしまった。
まったく弱り目に祟り目とはこのことだろう。
地割れは外房市の隣、九十九里の一宮川河口から一宮茂原市の南部を貫き、千葉市と市原市の境目まで伸びて、そこに最終的に海水が入り込んで外房と東京湾が海で繋がってしまったのだ。

(一宮茂原市長柄支所付近の県道13号に出来た大きな亀裂、やがて海水に満たされることになる)

‥とはいえ、ほとんどが汽水域で、見た目もせいぜい二級河川と変わらない程度だが、陸地が割けて海になるという、有史以来まったく前代未聞のこの地殻変動が、しかも日本の首都東京の隣の県で起きた事実が、世の人々に与えた恐怖は計り知れない。結局この地殻変動は、大震災後も地味にじわじわと続き、ようやく10年目にして落ち着いた。
またこの地殻変動はまれにみる珍しい現象だったことで、世界中で千葉県が有名になった。世界的に千葉県が知られるなんて、チバニアン以来じゃないか。
ただし観光客は目にみえて減った。この地を離れる人も日に日に増えて、過疎に一層の拍車をかけたんだ。
おりしも全国で地震や台風などの大きな災害が立て続けに起きていた時期で、さらに第三次世界大戦の真っただ中で輸出入も安定せず、日本中が不況に喘いでいたころだ。2050年の今じゃ考えられないぐらいに日本は、特に被災地だったこの地域は疲弊していたよ。
そんなご時世だったこともあって、千葉県の災害復興は一向に進まなかったんだ。
そうそう、あの戦争じゃ、東京の霞が関や国内の米軍基地のいくつかにも、ロシアや中国から巡航ミサイルが飛んできたんだよな。ミサイルは核じゃなくて助かったが、‥まったく散々な時代だった。
そのせいで東京への一極集中問題が再燃し、地方分散は多少加速したけどね。でもここは大地震の痛々しい被害のせいか、はたまた半島地勢のどん詰まり経済だからか一向に移住者は増えず、ますます減る一方だったな。

 しかし、そんな状況から這い上がろうと、房総半島や、房総に縁のある人たちは、必死になって今日まで頑張ったんだ。そこに私も見事に巻き込まれて現在に至る。
震災復興の筆頭に立っていたのは、その当時に外房市の県議会議員だった小路正和こうじまさかずさん、彼は今では内閣の大臣さんになっている。
そんな彼は、私の死んだ弟、國男の高校の同級生だったことで、その縁から私の外房市での新たな事業についても、それぞれスタートアップ時からずいぶんとお世話になった。

まぁ実をいうと私は、そんな小路さんや、彼と一緒に震災復興を目指す熱い市議会議員さんたち数名に、震災後しばらくしてから力を貸してほしいと誘われたんだ。
もちろん誘われたのは私だけじゃないよ。彼ら地元の議員さんたちは、故郷を離れて他所で会社をやっているような人を一人一人と探し出しては、地道に足しげく通い、声をかけていってたようだ。そして私のような小規模事業者もこぼすことなく探し出して、わざわざ熱心に声をかけてくれたんだ。ようは故郷の外房市で事業をやってくれ、雇用と需要を生み出してくれってね。
でもね、あの頃の私なんぞ弱小零細IT屋なんかに声をかけてもね、借金はあれども力なんてないし、足手まといにしかならないよと思ったんだ。あれは私が60歳になるかならないかのことだったよ。
それに誘われたといったら聞こえはいいんだけどね、今思えば、あれは半分脅迫だったよな。
佐奈田さなださんは、苦しむ故郷を平気な顔して見捨てられるのですか?あなたはそんな薄情な人だったんですか!」
さらに國男くにおくんが生きていれば、きっと私たちと一緒に頑張ってくれたはずです!」とね。

(外房市の県議会議員、小路正和氏 後に内閣に入閣しました)

故郷を見捨てる云々はともかくだ、死んだ弟を引き合いに出すのはキッタネェよなぁ反則だよ。しかも気合い入った涙目で言われたらさぁ‥。
今思えばなんで「小路さん、うちの弟はそんなこと言わないよ!」と言い返せなかったんだろうか。振り返ると一度も言ったことなかったよ。
そして小路さんは、その後もわざわざ市川市の私の家まで何度も訪ねて来てくれたんだよ、決まって霞が関に災害復興の陳情をしにいった帰りに、わざわざ高速道路を降りてやってきたんだ。それもノンアポ、いきなり突撃してくるんだ。正直、私は途中から恐くなったね。
もうね、最終的に私は首を縦に振るしかなかったよ。
第一、県議会議員の小路正和さんは、昔っから随分と気のいい大男だ、弟と仲が良かった高校生の頃も知っている。
そんな男に男泣きで頼まれちゃったら、そりゃーさすがに断れない。
それに震災後に初めてうちを訪れたときの、あの久しぶりに会った彼の、やつれて焦燥しきった顔は今でも忘れられない。
‥いやはや、まいったまいった。
まぁ政治家さんに呑み込まれた瞬間だったね。
でも今の私は後悔してないよ、かえって私の残りの人生の新しい目標を作ってくれたんだ、
小路さん、そして市議会議員の久我さん、魚地さん、本当にありがとう。


 そんな私が故郷復興の大義名分を掲げて始めた房総の地方創生事業、その記念すべき第一弾は都会人向け火葬場事業だった。私は都市型葬斎場そうさいじょう事業と呼んでいるけどね。
高齢化と都市部の火葬場不足に対処するべく、外房市と睦沢むつざわの間の山林地帯、外房市須賀谷すがや地区に、24時間稼働の火葬場を、‥いやいや、葬斎場を建設したんだ。
60歳の弱小IT屋の転身にしては、ちょっと常軌を逸した決断に思われるだろうけど、あの疲弊しまくってた時期に、この場所で儲かるビジネスをやるにはこれしかないという閃きかな。逆に私は勝機を感じたんだ。


2050年 83歳の挑戦  房総半島沖大震災を越えて-後編に続く‥


【注意】登場人物名及び組織・団体名称などは全てフィクションであり画像は全てイメージです…というご理解でお願いします。

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【2050年の大多喜無敵探検隊】
2050年 83歳の挑戦  房総半島沖大震災を越えて-編

【解説】
(※1)房総半島沖大震災とは、2024~2025年ごろに起きた大地震(私の空想です)。千葉県いすみ市の東沖10km地点と千葉県勝浦市の南東沖60km地点とを震源とするダブル海底地震。最初に勝浦沖で地震が起こり、間髪入れずにいすみ市沖でも大きな地震が誘発されて、千葉県の外房海岸線を中心に甚大な人的被害を出した。
(※2)南関東ガス田とは、千葉県を中心に茨城県、埼玉県、東京都、神奈川県の地域に及び、鉱床面積は 約4,300 km2、埋蔵量は7,360億m3、可採埋蔵量は 3,685億 m3と推定される天然ガス田。日本国内で確認済みの天然ガス埋蔵量の9割を占める。東京での生産も行われていたが、ガス採掘に伴う地下水汲み上げ(揚水)が地盤沈下を招いたことから採掘は規制され、現在は千葉県の茂原地区を中心とする九十九里浜沿岸部が最大の供給地区。
(※3)関東フラグメントとは、まだ仮説段階ではあるが、およそ200〜300万年前に太平洋プレート上の海嶺がプレートの下に沈みこもうとした際に、抵抗が増大して太平洋プレートが破断して生じたプレートの断片とされる。関東直下の栃木県南部から神奈川県北部までの地域の深さ30〜100km付近に、厚さ25km、100km四方にわたって存在しているとされる。その南端は千葉県千葉市あたりになる。現在は太平洋プレートがこの断片の下にさらに沈みこもうとしており、関東直下は4層のプレート構造を成していることになる。
(※4)チバニアンとは、約77万年前から12万年前までの地質時代を指す地層名で日本の千葉県に由来。この名称は千葉県市原市の養老川沿いの地層が、地球の地質時代区分の一つとして国際的に認定されたことからきている。地球の磁場は過去に何度も逆転しており、チバニアンの地層には、この磁場逆転の証拠が保存されている。
(※5)第三次世界大戦とは、この先に始まるとされる世界規模の戦争。今後も内容は詳しく書くつもりはないが、中東と東西ヨーロッパ、そして東アジアで同時に戦禍が起こるものと推測される。
(※6)外房市とは、現在のいすみ市、勝浦市、大多喜町、御宿町が合併して誕生した、房総半島南東部の市(私の空想です)。
(※7)安房市とは、現在の館山市、南房総市、鴨川市、鋸南町が合併して誕生した、房総半島南部の市(私の空想です)。
(※8)一宮茂原市とは、現在の茂原市、一宮町、睦沢町、長生村、白子町、長柄町、長南町が合併して誕生した、房総半島中部の市(私の空想です)。
(※9)千葉県議会議員の小路正和氏、いすみ市議会議員の久我 つかさ氏、魚地 展弘氏は実在の人物だ(熱い現役議員の皆さんたちです)。小路さんの許可は取得済みです(笑)。

【2050年の大多喜無敵探検隊 趣旨】
昨今、私の故郷、千葉県の大多喜町を含む夷隅郡市が揃いも揃って、2050年には「消滅可能性自治体」になるという分析結果が公開されました。この「2050年の大多喜無敵探検隊」は、いつもの私の昭和の子供の頃の実体験談とは異なり、2050年になった際に、故郷の大多喜町がどう変わっているのか、そして私自身どのように関わっていくべきかを様々な書籍の研究結果を元に書いてみた一種の「考察」と、私の「人生目標」というものです。日本国中、大多喜町のような消滅可能性自治体は、今後ますます増えていくと思われますが、その対策や向き合い方を、一個人としても目をそらさず、考えていきたいと思っています。

【2050年の大多喜無敵探検隊】

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