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誰だって抱えているはずの「理不尽」を見つめて

朝ドラ「スカーレット」を毎日観ている。

それはそれはもう本当に良いドラマで、自分の足で歩む等身大の主人公も、良い時も悪い時もあるけれどあたたかいその家族たちも、同僚の人たちも、幼馴染も、人柄が画面を通してこちらまで伝わってくる、素晴らしい脚本と演者の皆様。

特に脚本に関しては、毎朝の「15分」という決まった枠の中で、毎日「山場」を作り、泣けるシーンも微笑ましくなるシーンも作り、そして明日はどうなるの!?とワクワクさせるシーンまで盛り込めるなんて、どんな鍛錬を積んだらこんなすごいことができるんだ、と感嘆のため息が漏れている。毎日。

そんな中で、今回の朝ドラに限った話ではないけれど、いわゆるフェミニズムの観点と重ね合わせながらこのドラマを観て、色々と感想を書いている人たちも見かける。

この時代は「女に学問はいらん」と当たり前に言われる時代で、学問をする自由もなかったんだ、とか、女が家の中にいて家事をすれば良いという抑圧された時代だったんだ、とか、女が陶芸家や絵つけ師になんてなるはずがない、なれるはずがない、と普通に言われるなんて悔しい、とか。

それらは確かに朝ドラで描かれていることで、というか朝ドラは1人の人生を長きにわたって描く作品が多いから、昭和を描くにはこういうシーンがあるのが普通で、これまでの作品でも幾度となく描写されてきたシーンだ。

ただ、それに過剰に反応して「こういう価値観を変えていかなければ」とか「女に学問は必要ない、だなんて許せない!」という議論に持っていこうとするのを見ると、意見として反対だとは思わないけれど、少し残念だなぁという気持ちになるのが本音のところだったりする。

なぜなら、きっとこの脚本は、このドラマは、そこがポイントなわけじゃないだろうなぁと思ってしまうから。

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女だけど学びたいんだ!お金を稼ぐんだ!と、きっと主人公は思っている。思っているけれど、「女だからって出来ないわけない!悔しい!悔しい!」という気持ちが、彼女の原動力になっているようには私には見えない。

彼女の家には大量の借金があったほどお金がなくて貧乏で、でも絵を描くことが好きで、妹が二人いて、決して丈夫そうには見えない少し頼りないお母さんがいて、戦争を生き延びてくれた酒飲みで頑固なお父さんがいて、それで一家でご飯を食べ繋いでいかなければならない状況があって。

彼女はそんな厳しい現実の中で、どうにかして家計を助けたいという一心で15歳で大阪に行って3年間女中の仕事をして。内職で貯めたお金で本当は美術の専門学校に通いたかったけれど、でもそれでも家が回らなくなって、諦めて18歳で地元に戻り、地元企業の食堂で手伝いの仕事をさせてもらって。その中で、ふかの先生という陶芸の絵付けの師匠に出会って。昔から絵が描くのが好きだった彼女はふかの先生のその技術や人柄に惚れ込んで、頭を下げて弟子入りさせてもらって。

夢と現実の狭間で、たっくさんの葛藤を抱きながらも、自分が今歩むべき道はどれか、そして歩みたい道はどれか、を選ぶ彼女はとても一生懸命生きていて、自分の意思を言葉で人に伝える力も持っていて、勇気を出して毎日の一歩を踏み出している。

私はそんな主人公に勇気をもらうし、一人の人間として、逆境を乗り越えて生きていく姿に感動する。その感情の中に「女だから」とか「こういう時代だったから」とかいう考えは、正直浮かばなかった。今の時代に生きる私の率直な感性のまま、主人公の行動や意思に、素直に感銘を受けている。


主人公が幼い頃、父は「男にはな、意地と誇りっちゅうもんがあるんじゃ」と言っていた。そして、あまりの貧乏がゆえ、微々たるお金も払えず紙芝居を見せてもらうことができずにトボトボと帰ってきた主人公が、しかめっ面で考えた末に叫んだのは「女にも、意地と誇りはあるんじゃーーーー!!」だった。

私は、男にも、女にも、そうでない人にも、人間誰しもに「意地と誇り」があると思う。それを表しているのが、このセリフだと思った。

「女に『』、意地と誇りがあるんじゃー!」だ。

「女に『は』」でもなく、「女に『こそ』」でもなくて。

そこが、最近、フェミニズム運動で時折見かける「男vs女」の対立構造のようなものを見て私がずっと抱いていた違和感をするっとほぐしてくれるような、そんな感覚があった。

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本来のフェミニズム運動は、「ないもの」を求めているものではないと思う。

人間、誰にだって「意地と誇り」がある。その「意地と誇り」が、まるで無いかのように扱われたり、無いかのように見られたりするのは、誰だって嫌だ。「意地と誇り」はすでに、持ち合わせているもの。存在しないものを「くれ!くれ!」と言っているのではない。誰かのものを、奪い取ろうとしているのでもない。すでにあるものを、取り戻させてくれ、自覚させてくれ、と主張している活動なのだと理解したい。

きっと、誰にだってこんな経験をしたことは、一つや二つあるだろう。
どうしても欲しいゲームがあって、親にねだったけれど「お前にこんなもん持つ資格はない!」と言い放たれたこと。
この学校に行きたい、と言ったら「うちにそんなとこ通わせる余裕なんてないから諦めな」と言われたこと。
将来はミュージシャンになりたいから進学しない、と言ったら「そんなん、お前に才能なんかない。ミュージシャンなんてなれるわけないだろ!」と一蹴されたこと。

そうやって、悔しい思いをして、唇噛み締めて、涙の味を確かめて。そうして、説得する強さや言い返す精神力を持ったり、諦めたり、悔しさをこれでもかと味わったりして。

理不尽だ、と思うことや、なんでそんなこと言われないといけないんだ、と強く反発したくなるようなことなんて誰だってあって。ただ、今の時代において、女性として生きる時に特にそう思うことが多くあって、そういう人たちが、声を上げている。私だって、理不尽をたくさん感じてきた一人でもある。(↓このnoteに結構赤裸々に書いた。このページを読み終えたら、ぜひ読んでみてください!)

これはものすごく時代にとって重要な変化だし、自由なことだし、理不尽なことに声を上げるのは、やるべきことだと思う。ただ、それが、不要な「対立構造」を生んだり、声をあげる人に対して「面倒臭い人だな」と思う人が多くなるのは、とても残念なことだと思う。

誰が悪い、誰が良い、ということを言いたいんじゃなくて、「誰にだって、理不尽だと思うことなんてたくさんあるでしょう?」ということ。

少し視野が固まってしまうと、女性の抑圧されている部分ばかりが目についてしまうかもしれないけれど、朝ドラでは男性の負担だってたくさん描かれている。

戦争に出て、戦死して故郷に帰ってくることもできなかった人もいれば、主人公のお父さんは一家の家計を支えるべく、腰の痛みや汗疹の肌の痒さに耐えながら、「楽しいなぁ」なんて一度も思えたことのない運送の仕事をやっている。


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私が幼い頃、2回ほど、家で泣きながら怒り狂ったことがある。今でも覚えている。

1つは、親に「夕飯の片付けを手伝いなさい」と言われた時。それ自体は良かったのだけど、私には兄がいて、兄ではなく私にだけ指示を出されていた。「どうして兄はよくて、私だけがやらなければならないの?」と聞くと、誰だったか忘れたけれど、両親か兄のうちの誰かに「さえは女だから、当たり前だろ」と言われたのだった。私は意味が全くわからなくて、理解ができなくて、それを言葉にすることもできなくて、ただただ泣いた。

2つめは、ニュースかワイドショーを見ていて、雅子さまにお子様が産まれないとか、産まれたけれど女性だったとか、なんかそんな類の話が上がった時だった。寄ってたかって雅子さまを責めるような口調や、そういった意見を含有したような語りぶりで議論されているのにたまらなく腹が立ち、理解することができず、「人のことをロボットみたいに言いやがって!」と、目の前にあるコップに入ったお茶をぶちまけてリビングをびしょびしょにした。多分私は、中学生とか、色々な意味で多感な時期だった。ただ、今でもその怒りの火種みたいなものは忘れていない。

このころの私は、当たり前だけれど、「フェミニズム」なんて言葉も「女性運動」なんて事実も、「人権」の意味も、「女性活躍推進」なんて言葉も、知っているわけがない。そんな私がこんな風に怒りを覚えて世の中に反発したのは、それが「理不尽だ」と心の底から感じたからだと思う。当時の幼い私には、その感情を言語化することもできず、ただただ泣いて、怒り狂うことしかできなかった。

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理不尽だ、不当だ、と思うことを、声を上げられて、なおかつ変えられる世の中になればそれが一番良いことだな、と思う。

車椅子やベビーカーで、都内を電車で移動することの大変さを強く感じている人。
結婚したら、なんで妻の分のご飯代まで払わないといけないんだ、と思っている人。
どうして同性同士じゃ結婚できないんだ、と思う人。
結婚したら、なんで自分の名前を変えなければいけないんだろう、と思う人。

フェミニズムは、これらのうちのたった一つの、一例でしかない。理不尽を抱えているのは、女性だけじゃない。

とても大事なことなのに、喧嘩みたいになったり、対立構造を作ったり、グループみたいにくくったり、けなしあったりするのは、意図とかけ離れていて勿体無いと思ってしまう。

もっと柔軟に、考えていきたい。

Sae

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