常人には人を愛せない ー 難しい『愛情論』
『好き』と『愛している』の違いってなに?
恋と愛の違いは何かと聞かれたら、あなたはどう考えるだろうか?
よく「理性が欲望よりも優っているのが愛だ」とか「下心があるのが恋で真心があるのが愛だ」とか「自分本位なのが好きで相手を思いやる感情が愛だ」とか言われているけれど、実際のところどうなのだろうか。
こういった議論が巻き起こされるのは、それだけ好きと愛しているということには大きな隔たり、価値の違いがあるからだ。
どこまでが好きで、どこからが愛なのか。
まず、大前提として、僕は「愛とは何か」と定義するときに、一番最初に挙げたような定義は真理だと思う。
自分中心ではなく相手を思いやる気持ち。それが愛。否定のしようがない真実だと思う。
でも、それだけでは間違ってはいないけれど、不十分だと思う。
自分の感情を真の愛情だというには、相手を思いやるだけでは全く足りない。
特に結婚をする場合や、相手と長く一緒にいたいと思うような関係性の相手には、これだけでは足りないと言えるだろう。
自分の気持ちを『愛』というのに必要な二つの条件
僕は自分が相手に対して持っている感情を「愛」だというには二つの条件があると思う。
それは、
「相手を守ってあげられる強さ」
と
「相手を受け入れてあげられる人としての器の大きさ」
の二つが伴っていることだ。
愛していると言っているくせに、相手をいざというときに守ってあげられずに、それを愛だと言えるだろうか。
愛していると言っているくせに、相手を受け入れてあげられないなんて、それは愛だと言えるだろうか。
その人に一生捧げてもいいと思える感情や、自分を犠牲にしてでも守りたいと思える感情を愛というのだろう。
ならば、自分を犠牲にしてでも倒れない基盤が必要ではないだろうか。
『親の愛情』—親子関係で考えると分かりやすい
親子の関係を想像してみて欲しい。
「親が子に与える感情は何か?」と聞かれて、「愛だ」と答える人がいたとしよう。そこに否定の言葉を投げかける人はいないだろう。
親が子に向ける感情は愛だ。何故か。
親は子供を守ってあげられる社会的な強さがあるし、子供が泣こうが、叫ぼうが、反抗しようが、受け入れてあげられるだけの器の大きさも持っている。
もちろん感情がビクともしないような人はいないだろうし、瞬間的には怒ることもあると思う。
でも、結局最後は子供のためを思って手を差し伸べてくれる。
何か損得の感情で動いているのではなく、純粋な子供を思う気持ちから来る行動なのだ。
自分の時間と労力をたくさん使ってでも、少しでも子供が幸せになるようにと尽くしてくれる親の愛情は、最もわかりやすい愛の形だろう。
誰も親が子に向ける感情を愛だと言われても否定しようとは思わない。
でも、親が子を守り抜いていくことが凄く大変なことからも分かるように、愛情を持つことはとても難しいことなのだ。
『愛』とは、凄くハードなのである
だから、中途半端な人間に気安く愛を語るなんて許されないのだ。
本来、完璧な愛情を持っている人はこの世にいないのではないかとすら僕は思っている。
だから、この世に存在している人間関係は、ほとんどがどこか都合のいい関係や、周りに大きな声では言えない隠した目的がある関係だと思う。
いわゆる薄っぺらい契約みたいな関係だ。
ちょっと何かあれば直ぐに消えてしまいそうな関係ばかりなのだ。
相手と付き合っていることで何らかしらのメリットが少しでもないと、人はその人との関係性を保とうとは思わない。
愛するって、凄く厳しいことなのだ。
自分に力と余裕がいる。どういう状況になろうが、それを受け入れたうえで相手を思いやった行動をしてあげることができるだろうか。
だから、愛するってそんなに簡単なことじゃない。だから、この世に存在している感情は愛とその他に分けられるほど、愛情はタフで厳しいものだと思う。
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