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くたばって、たまるか。

みなさん、こんにちは。禧螺です。

今日もnoteをご覧いただき、ありがとうございます。


早くも今月で一年の半分が終わってしまうのですね。

早いとは思いつつも、季節の移ろいを確かに感じられるので、今の生き方は私にあっているのだなと感じています。


本日の記事は重めなのですが、あの言葉がなければ、この記事が書けなかったのと、現在の自信喪失気味の自分を救えなかったので、是非とも、未来の自分に書き残しておきたいのです。

最近、自分自身を変化させつつあるからか、気持ちが不安定になって、自暴自棄に陥りそうになりました。

そんな焦燥感と、どうしようもなさに潰されそうになった時に、ある一言を思い出したのです。


「くたばって、たまるか」



🗡️

この言葉、元は、noteクリエイターである 雅樹(かつお)さん の記事でいただいたものです↓

「いただいた」と表現したのは、文章として書かれてあったのですが、私にはその言葉が「届けられた」という感覚だからです。

雅樹さんが、20代半ばでご自身と向き合われ、生きることを極限に考え、感じ抜かれて出て来たのが、この想いです。


滅多に露骨な表現では言わないのですが、私の内側では、今までの自分の生き方に「怒り」を持っているところがあって、それを口にすることは、周囲は嫌がるだろうなと、思っていました。

自分自身への怒り……ですが、理不尽に自分を責めて怒りたいわけではなく、その怒りと向き合いたいがために、もがく自分もいるのは分かっていました。

こういった状態をどう表現すればいいのか、モヤモヤしていたのです。

そんな時にみつけた、この言葉。

雅樹さんが過去から培われてきた「生きる意志」は、言葉として、私を確かに支えてくれています。


今、自分が生きているのは「ボーナスみたいなものだから、災害で死んでも、自死であっても、いつ死んでも構わない」という考えが強かったのですが、少し変化してきているような気がしています。

「いつ死んでも構わない」のではなく

「いつその時が来ても、玉のようにまばゆく散れるような、生き方をしたい」

と、言っていたことを、思い出しました。

noteに入ってくるまでの、何もかも失った時期に、自分がどう生きてどう死にたいかを考えていた時に、思っていたことです。

このまま、与えられるかもしれない、ある状況下の自分の死を、ただただ受け入れることに「くたばって、たまるか」なのです。

自分自身への怒りを持って、その怒りを甘んじて受け入れるしかしない自分に「本当はそうじゃないよね?自分なりにあがきたいんだよね?」と、手を差し伸べてくださったような気持ちになりました。


私はどこまで生きるか、私を含めて誰も分かりません。

ただ、くたばるにしても、ただ社会や周囲の固定概念の下でくたばるのは、絶対に嫌なのだと、はっきりわかりました。

より善く死ぬために、よりよく生き抜きたい。

そのために、簡単にくたばって、たまるか。



🗡️

雅樹さん、発信する分野、興味がある分野についてこんなにも違うのに、いつも温かく支えてくださり、本当にありがとうございます。

過去からの雅樹さんの生きる意志が、時間と空間を超えて、現在の私をも助けてくださっています。

雅樹さんのこの記事は、そんな生きる瑞々しさに溢れて、多くの人の癒しや勇気になったことだと思います。

雅樹さんのこれからの人生、ご家族含め、多くの幸せがありますように。


雅樹さん のnoteトップはこちらです↓

ご自身のモノづくりに対する想いや、子育てを通して考えられること感じること等、楽しくも真剣にものごとに向き合って書かれている、素敵な記事ばかりです。

是非、ご覧になってみてください!



🗡️

トップ画像は 巴/ぱりこ@漫画家カウンセラー様 からお借りしました!

ありがとうございました。


みなさんからのスキに、今日も研究に創作に邁進できます。

この記事にお時間をいただき、ありがとうございました。


それでは、今日はここまでです。

みなさんが、よき休日を過ごされますように。



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