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死んでもいいから、水を飲ませてくれ


人は美味しいモノを口にしたとき
「人生の最後にこれを食べたい」などと表現する。

お寿司や焼き肉、高級フレンチ。
こんなに咀嚼が難しい食べ物を、お年を召したうえで、
満足に食べることができ、ピンピンコロリできたらどれだけ幸せなのだろうか。





だが病院に入院する患者さんの多くはこうだ。

「昨日まで食べることができていたのにむせてしまいました。
 それから熱が出て、病院にきてみたら肺炎と言われました。」

付き添いの家族はよくこう話していた。
”昨日まで食べることができていたのに”と。

救急外来から病棟に上がってきた患者さん自身は
熱のせいで意識もうろうとしていたり、
むせたせいで咳や痰が増え、酸素投与をされていることが多い。

看護師の目線からすると
「よくもまぁ昨日まで食べることができていたなぁ」と思うこともある。





私が看護師として働いているとき、
高齢者の発熱や呼吸障害の原因の多くが『誤嚥性肺炎』だった。


私たちは通常、食べ物を口に入れ、
咀嚼した後に咽頭から食道、そして胃へと送り込まれていく。

健康な人であれば、万が一、むせてしまった場合も
誤嚥したものを気道から排出させることが可能である。


ただし、高齢者や脳梗塞の後遺症がある方などは嚥下障害になる割合が高い。
そして細菌が唾液や食べ物などと一緒に誤嚥され、
気管支や肺に入ることで発症する疾患を誤嚥性肺炎という。



このような状態で食べ続けてしまうと、誤嚥性肺炎を繰り返すため、
レントゲンや採血検査などの結果をもとに
医師の多くは、栄養は点滴から投与し、絶食もしくは絶飲食・抗生剤治療を選択する。

治療をすれば必ず食べれるようになるわけではない。


抗生剤投与により炎症値は下がり熱は落ち着いてくる。
しかし、嚥下機能が落ちたままでは誤嚥性肺炎を繰り返すだけである。

咳や痰も簡単には減らない。
1時間毎、ひどいときには15分~30分毎に痰吸引する。
それに加えて体位ドレナージやタッピングで気道浄化を試みる。

吸引という行為を理解して
口を開けて待ってくれる患者さんはほぼ少数。
多くは説明しても理解できない状態で
「やめてくれ」「殺してくれ」と叫ばれることもある。
つねられたり、殴られたりしても
私たちはそれをやり続ける必要がある。

命を守るためだ。

「ごめんなさい」「呼吸が楽になるから頑張りましょうね」と言い続けながら実施する。
そんな思いも届くことなく、終わってから「よくもやったな」という風に睨まれる。
触れようとしても手で払いのけられる。

それでも命を守るためだ。





酸素飽和度が許容範囲内、酸素投与も不要、
痰の量が減少していることを確認したうえで
医師が食事開始の指示を出す。


食事といっても
普通食を食べても良いのか、
嚥下食なら食べることができるのか、
はたまた水さえも難しいのか、
判断するのは口腔外科医である。

だが、あくまで
医師がみているのは
患者さんが過ごす1日のたった一瞬だけである。

身体を横に向けるだけで
口のなかが痰まみれになっている患者さんが
たまたま嚥下テストがクリアできたからという理由で
食事開始の指示を出されたことがあった。



患者さんにとっては嬉しい知らせなのかもしれない。

だが、食事介助をするのは看護師だ。
そしてまた苦しい思いをするのは患者さんだ。

総合病院であれば、
言語聴覚士が食事介助をサポートしてくれる場合もあるが、
他にも患者が多くいるため毎食付き添うことは困難だ。
そして彼らもまた人間であり完璧ではない。


実際に入院中の患者であっても食事中窒息を起こしてしまったり、
再度誤嚥性肺炎を起こしてしまったりすることも稀にある。

必ずしも予期できることばかりではないのだ。


嚥下機能を見誤り、
無理に食事摂取をすすめてしまえば、
誤嚥性肺炎を再発するかもしれない。

そうなると、また絶飲食に抗生剤治療。
ゴールはいつかわからない。入院はどんどん長くなる。
痰が増えて持続的な吸引や酸素投与が必要になるかもしれない。
患者さんは家族に会えない。
そして身体の機能も衰えていき、家に帰ることができるかもわからない。

だがもし食べられないだろうと判断してしまえば、
医師は看護師の意見をもとに”永久”絶飲食の指示を出すだろう。

これだけ長い人生を歩んできて
私のような未熟者の判断のせいで
この患者さんはもう二度と何かを食べることはできないのだ。

食べることができないとなれば
口以外の栄養経路を造設していく必要がある。
それを本人や家族が管理できないとなれば、家に帰ることも困難になる。



実際に数年前に亡くなった祖父は家で転倒し、リハビリも兼ねて病院に入院。
その間に誤嚥性肺炎を起こし、経口摂取困難と判断され、胃瘻を造設した。
数時間毎に吸引され体力は消耗、呼吸状態もなかなか改善せずに、病院で最期を迎えた。

祖父は祖母が作るご飯をいつも美味しそうに食べていた。
本当に優しい人だった。
祖父が最期に食べたものは何だったのだろう。それはいつだったのだろう。

あの時、転んだりしなければ
今も元気に生きていたのだろうか。







『頼む、死んでもいいから、水を飲ませてくれ』


患者さんにそう言われることもある。

誤嚥リスクのある患者さんには、多くの場合水分にとろみ剤を付加して飲んでもらう。
液体の流動性を低下させることでむせにくくすることができる。
しかしそのような工夫をしても、誤嚥してしまう患者さんもいるのだ。


医師から絶飲食の指示がでている。
看護師は医師の指示のもとでしか動くことができない。

「ごめんなさい」を繰り返しながら
マウススポンジに水を含ませ、そっと口の中を湿らせる。
口腔ケアをすることで可能な範囲の欲求に応える。

1年目の時は、自分の不甲斐なさに涙が出てくることもあった。
だが2年目の頃からは泣くことはなくなった。
慣れたからじゃない。
一番辛い思いをしているのは患者さんなのに、私が泣くのは見当違いであると気づいたからだ。

グッと歯を食いしばって耐えた。
そして謝り続けた。


もしこの患者さんが 父なら 母なら
「飲んだらいいよ」と私は言っているのではないかと思う。

「ちょっと飲んでむせても、吸引してあげるから」
「せっかくの人生なんだから好きなものを食べようよ」と。

どんな結末になろうとも、希望を叶えてから最期を迎えてほしいと思う。


こんなジレンマを感じながら看護師は働いているのだ。

でもそれはできない。
私は看護師だから。
あなたは患者さんだから。

一秒でも長く生きてほしいから。
家族と一緒に過ごしてほしいから。

『最低な看護師』と罵られてもいい。
それでも命を守るためだ。





こちらもお読みいただけると嬉しいです。

#創作大賞2023 #エッセイ部門

乱文失礼しました。
随時修正予定です。

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