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拝啓 反面教師様

拝啓 反面教師様

私は今年30歳になります。
この人生の節目にあなたと過ごした日々を振り返ることとします。

あれは冬の寒い日でしたね。
切迫早産のために何ヵ月も入院していましたね。
あなたのおかげで予定日を超過して私は生まれました。
30代半ばでの出産。大変だったでしょう。
アルバムにある写真はいつも笑顔でピースサイン。
あなたはつらい時もよく笑う人でした。

生後半年で保育園に入り、あなたは仕事に復帰しました。
保育園は夕方になると先生がみんなに絵本を読んでくれます。
次第に迎えが来て、ひとり、またひとりと友達が帰っていきます。
お父さんかお母さんが迎えにきてくれている友達を横目に
私を迎えにきてくれるのはいつも近所のおばちゃんでした。
子どもって残酷なものですね。
楽しかった思い出もあったはずなのにこんなことばかり覚えています。

この話をするとかわいそうとよく言われたものでした。
私ってかわいそうだったのですか。

あなたは看護師でした。帰ってくるのはいつも真っ暗になってから。
私はいわゆる鍵っ子でした。
夕方まで学童で過ごし、真っ暗な家に明かりをつけてあなたが帰ってくるまでにできる限りの家事をする小学1年生でした。
当たり前のことだったので、しんどいと思うことはなかったですし、あなたのことをとても尊敬していました。
それでも確信していました。私は絶対に看護師にはならない。

年の離れた姉は私と違ってしおらしい人でした。
「男の子がよかった」なんて私に言われても仕方ないのに、
父のその一言を聞いてからはズボンを好んで履くようになりました。
でもあなたは決してそんなこと言わなかったですね。

その言葉の意味がわかったのはいつだったでしょうか。

中学生になってから姉と私の間に一度流産をしたことを知りました。
泣きながら一人で病院をあとにしたと聞いたとき、胸がギュッとしました。
それから数年経ち、もうだめかと思ったときに妊娠したのが私。
むしろ、もうだめだと思っていたのでしょう。
よくよく考えると我が家には子供部屋が一部屋しかないので。

その話を聞いたら、普通は生きていることに感謝しますよね。
それなのに思春期の頃には「どうせ私は生まれてくる予定がなかったから」
「死んだ子がもし生きていたらよかったのにね」とあなたを傷つけました。
あなたは困った表情で、やっぱり笑っていました。

母がどんな思いでこの話をしてくれたのか、私は考えるべきでした。

あなたのもとから遠く離れて、母になってからわかりました。
子供一人産むのにどんなに命がけか。どんなに愛おしいか。
私の娘も半年になりました。
こんなにかわいくて愛おしい子を保育園に預けたくなかったですよね。
一年間育休をとってそばにいたかったですよね。
でも父の給料だけではローンの返済が難しかったのですよね。
すべては私たち家族のためでした。

”この話をするとかわいそうとよく言われたものでした。”
私がかわいそうなのではなく、
家族のためを思って頑張っているのに子どもに理解されていない母がかわいそうと言われていたのかもしれません。


中学時代は上級生3人に体育館裏で囲まれました。
田舎だったので縦・横ともにいじめが多かったです。
突然のことに怖くて、怖くて。
家までどうやって帰ってきたのか覚えていません。
「もう学校なんて行かない」と泣きじゃくっていた私を
あなたは決して甘やかすことはしませんでしたね。
担任に電話して学校で力になってくれるようにお願いしてくれました。
そして「休まずに学校に行きなさい」と私の背中を押しました。

本当に苦しかったです。思い出すだけで喉が熱くなってきます。
発せられた言葉、3人が私を見下ろす景色、決して忘れることはないけれど、それでもあの時、学校に行ってよかったです。
担任にも友達にも恵まれて無事に卒業することができました。
だから今の私があるように思います。

我が子がいじめられているなんて母もきっと苦しかったでしょう。
おなかを痛めて産んだ子が「死にたい」と言っているのを聞いて
悲しくてしょうがなかったでしょう。
隣の部屋からすすり泣く声が聞こえてきました。

あなたも小学生の時に転校していじめられていたと教えてくれましたね。
親子そろって問題があるように思われそうだけど、
いじめる側ではなく、いじめられる側でよかったと思います。
何年にも渡って残るこの心の傷を他の誰かに与えることがなくてよかったです。


あなたは反面教師。
自分を犠牲にして家族を優先する。

同じ生き方をしないと決めていたのに、
気づけば、あなたと同じ世界をみてみたいと思うようになりました。

文学部に行って新聞記者や雑誌編集者になりたかった私が
全く異なる職種に就きました。
そう、看護師です。


正直、想像よりも大変でした。
毎日の実習、テスト、そして国家試験の勉強。
やっとのことで看護師になれたと思ったら現実に打ちひしがれました。

人ってこんなにも簡単に亡くなるのですね。
そしてこんなにも命は尊いものなのですね。

鳴り響くモニター音、一本線、ゼロの文字。



感情移入しやすい私はこの仕事が不向きだったかもしれません。
死にたいなんて戯言を言っていた私が
死を誰よりも恐れているなんて知ったら驚きますか?

もしかしたら察していたかもしれませんね。
幼い頃、死という概念を知り、怖がる私に
「じゃあ天国で会えたらお互いわかるように合言葉を決めておこう」
とあなたは抱きしめてくれました。

だから看護師になりたいと話したとき
あなたはうれしい反面、驚き、不安気な表情をしていました。

大学では死に関する研究をしました。
看護学生が死についてどのように考えているのか知ることで
自分が抱えている不安を取り除きたかったのだと思います。

そんなに怖いなら
助産師や保健師を目指せばいいのではないかと言われたこともあります。
看護師でも美容系に進むこともできると勧められたこともあります。


しかし、わたしはあの時逃げないと決めたのです。
死に直面した人がどう死と向き合うのか学びたいと思いました。
そして私が死に直面したときにしっかりと死を受け止めたいと思いました。


そんな私たちに悲しい知らせがきたのが去年の暮れのこと。
施設にいる祖父がコロナに感染。
もともと脳梗塞があり、車椅子生活をしていた祖父は、
感染をきっかけに肺炎となり食事も摂れず入院を強いられました。

当初コロナ渦で面会は禁止されていましたが突然あなただけ許可されました。
つまりはそういうことなのだと、私もあなたもわかっていました。

それでもあなたは迷っていました。
祖父はもう話すことはできません。
あなたのこともわからないかもしれません。
それを一人で受け止めないといけないことがどれだけ怖いか。
看護師の私たちだからこそわかるのです。

ひどい娘だとわかりながらも
私はあなたにわざと厳しい言葉をぶつけました。
「迷っているうちに会えなくなるよ」

”生きているうちに会ってあげて”
そんな言い方のようがよかったのかもしれません。
あなたは勢いよく立ち上がり、部屋から出ていきましたね。

これが最後になる、そんなこと母が一番わかっています。
しかし、コロナ感染・合併症による突然の危篤状態。
受け止めるには時間がかかるのに、その時間はもう残されていませんでした。
時計の秒針音がやけに大きく感じました。
ご飯がなかなか喉を通りませんでした。
あなたは決して私に涙を見せませんでした。

それでも私は
最期に会えずに涙する家族を数多く見てきました。
そんな思いをあなたにしてほしくなかったのです。
後悔しないでほしかったのです。
そして立派に生きてきた祖父を
”最期に娘に会えなかった父”にしたくなかったのです。

週末、あなたは生まれ故郷へと向かいました。
あなたの声に祖父は反応し、ゆっくりと頷いたそうですね。
スーッと流れた涙。安心した表情。



そしてこの春。
祖父は旅立ちました。

あなたは祖父の最期を看取ることができました。
あなたに言われた「ありがとう」。
わたしも少しはあなたの力になることができましたか。

しかし、ありがとうを言うべきなのは私のほうです。

私はあの時、あなたが点滴治療をしてくれたこと
生まれるまで安静にしてくれたこと
どんなに泣いても絶えず愛情を注いでくれたこと
家族のために働き続けてくれたこと
いじめに負けるなと応援し続けてくれたこと
遠く離れても私を思ってくれていたこと
そのおかげでここまで生きてくることができました。

看護師として私を助けてくれてありがとう。
母として私を助けてくれてありがとう。

何度も救ってもらった命で
今度は私が誰かの命を助けたいと思います。


乱文をお許しください。

そして反面教師様、どうか自分を犠牲にしないでください。
どうか心から笑っていてください。

敬具









#創作大賞2023
#エッセイ部門

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