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『和辻哲郎座談』 : 和辻哲郎の〈本当の魅力〉

書評:和辻哲郎『和辻哲郎座談』(中公文庫)

『和辻哲郎座談』というタイトルながら、和辻自身の発言は、全体の八分の一程度かもしれない。また、和辻自身の発言は、はっきり言ってさほど面白いものではない。

本書解説者の苅部直が『この文庫本は、和辻哲郎(略)の没後六十年にあわせて刊行された。和辻の対談・座談会を集めた本はこれまでないから、本書は初めての貴重な機会ということになる。』(P405)と書いているのは、決して故なきことではない。
端的に言えば、和辻の話は、勉強にはなっても、面白くはないのである。だから、これまでまとめられることはなかったのだ。

ただし、和辻の発言は、全体のごく一部であるし、他の話者に面白い人が何人もいるのだから、和辻の本としてではなく、一冊の対談・座談本として読むならば、それなりに楽しめる部分はあるとも言えよう。
例えば、志賀直哉、柳田國男、幸田露伴、寺田寅彦といった名だたる個性派たちの発言は、個性的かつ直截でたいへん楽しいものであるし、忌憚のない発言(正論)で和辻を苛立たせた、西洋史学者・今井登志喜のそれなども極めて面白いのだが、年下の者との対談は、年長者和辻に対する遠慮があるし、和辻自身もそんなに面白い話をする人ではないので、どうしても活気に欠けるものになっている。

苅部直が、和辻の座談における魅力を、次のように書いている。

『 この本に収められ諸談話を一読すればわかるように、和辻哲郎は自分から口火を切って、滔々と話を続けるタイプではない。どちらかと言えば他人の話をうけて、あとから座談に加わっている。語り口も、本書に登場する幸田露伴のような、次から次へと蘊蓄を披露して、他人を飽きさせないという伎倆はなく、むしろ淡々としている。
 しかし「緑蔭対談一一若い女性に望むこと」で柳田國男が「あなたに漠然は無理だけれど」(一四一頁)と言っているように、明晰に自分の意見を語り、議論を新しい方向に展開させるのが、座談の人としての和辻の持ち味である。他者の発言を聴いて、その内容を新しい角度から考え直したうえで、みずからの見解を発言し、また別の人に会話のバトンを渡す。そのありさまは、幸田露伴や斉藤茂吉と同席した座談会「日本文学に於ける和歌俳句の不滅性」で話題になっている、連歌の創作手法とも重なっているだろう。
(中略)連歌を詠み続ける人々の姿は、人間を常に「間柄」のなかにいる存在ととらえながら、個人の独立と集団による統合作用とのバランスをめざす、和辻の「人間の学」の具体例になっていると見ることもできるだろう。対談や座談会もまた、参加者がおたがいに言葉を交わすなかで、「円成」した個性を発揮する場だと考えていたのではないだろうか。』(P405~406)

もちろん、このように好意的に『見ることもできるだろう』だろうが、身も蓋もなく言ってしまえば、座談における和辻の能力とは「(陰の)司会進行役」プラス「コメンテーター」的なものであり、「主役」の魅力には乏しかった、ということになろう。

しかしまた、さすがに「思想史家」の和辻、本書の最後に収録されて座談会「文学と宗教」では、他のメンバー(高坂正顯・竹山道雄・長與善郎)のいささか素人くさい「宗教談義」を、学知に裏付けられた助言でしっかりとフォローし、軌道修正させているのには、感心させられた。

つまり、和辻哲郎を読むのであれば、和辻自身の単著の「理論書」を読むべきであり、わざわざ座談のたぐいを読む必要はない。
無論、和辻の著作や、和辻とその周辺の人たちとの「人間関係」まで十分に把握している、解説者・苅部のような人であれば、和辻のちょっとした言葉に表れた「和辻らしさ」に面白みを読み取ることも可能なのだが、それほどまでの和辻読者であれば、今更、この座談本を読む必要もないだろう。

したがって、面白い座談本が読みたいのであれば、幸田露伴など、他の座談巧者の本を読むべきであり、和辻が読みたいというのであれば、やはり和辻の主著であり理論書を味読すべきなのである。

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書評:2021年1月4日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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