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「本を読んでいれば偉いのか!」と言う人

いるよなあ、こんなやつ。一一まさか君、こんな如何にも頭の悪そうな言葉を口にしてはいないだろうね?

まあ、高校生くらいまでなら「カワイイやつだな」と思ってもらえるかも知れないけれど、大人になってもこんなことを言っているやつは、間違いなく勉強もしてなければ、頭も良くない。それが見え見えの、「自供」だということだ。
だから、君がもし、この言葉を口にしたくなったら、その時は、グッと堪えるべきだ。わざわざ自分から「私は莫迦(ばか)です」と表明するというのは、まさに莫迦の所業に他ならないからだ。

私のように、かなり率直に「駄作は駄作だ」「莫迦は莫迦だ」と書いたり言ったりしている者は、当然のことながら反感を買うことも多いし、反発を受けることもある。しかし、それは「わかってやっている」ことなのだ。要は、「挑発」行為。

ではなぜ、わざわざ人を怒らせ、わざわざ嫌われるようなことをやるのかというと、今の世の中は「傑作と駄作の区別なく褒める」というようなのが横行しているせいで、物の価値がわからない人間を、否応なく増やしていると感じるからだ。
こんな世の中であれば、「ひとまず褒めておけば間違いない」ということになりやすいし、そのような状況では、人は、物の良し悪しを「見分ける」努力をしなくなって、その能力が低下してしまう。何でもかんでも褒めているうちに、物事の難点や欠点が見えなくなってしまう。それを、あえて指摘しないのではなくて、徐々に「見分ける」ことができなくなってくる。そして、そうなってしまっている。なぜって、使う必要のない能力を高める努力なんて、普通は誰もしない物だからだ。

で、そうした区別がつかないものだから、決定的に「どうしようないものをつかまされた」時になって初めて、「騙された!」と言って怒ったり嘆いたりするんだけれど、では、そう言っている当人が、日頃そうした区別つけて、きちんと語っているのかというと、無論、そうではない。莫迦でもわかるほどの「どうしようもないもの」をつかまされたと感じた時でさえも、まずは周囲の評価をチェックし、顔色を窺ってから、みんなが貶しているようなら、そのとき初めて安心し、みんなと同じように貶しはじめる。

しかし、それにしたって、自分の顔を晒す場所では、そんなことはまずしない。
ネット上での「匿名」か、さもなければ、ごく限られた「仲間内」での内輪話に限られるだろう。このメンバーなら、何を言っても大丈夫という「安全性の保証」があって、初めて自分の本音を口にするのだ。
その仲間とは、要は、本音を隠して「そうだね」「私もそう思った」としか言わないような、じつに空疎な間柄でしかないのだが。

しかしまた、こうした本音を口にするのも、じつは、どこかで聞いたり目にしたりした「他人の本音」を、無意識に繰り返しているだけであって、自分が真っ先に「否定的な意見」を表明するような「冒険心」のある者は、今の日本には、ほとんどいないと断じても良いんじゃないか。

それで、そういう「知性の深い眠り」から呼びもどそうと、私はしばしば「どう見ても駄作」とか「あなたは莫迦だ」などと言ってみたりするのだ。
もちろん、駄作ではないものを駄作呼ばわりはしないし、莫迦ではない人を莫迦呼ばわりもしない。ただ、世間の多くの人は、仮にそれがそうだと思って(評価して)いても、「否定的な意見」を表明することで、「嫌なやつだ」「後ろ向きな意見だ」などと言われたくないから、そういうことは、ほとんど口にしない。だが、だからこそ私くらいは言わないとダメだよなあと、そんな使命感まで感じ、半ば自己犠牲的な精神で、そういう「嫌なこと」を言うのだ。

というのは、もちろん半分は冗談だが、半分は本気だ。
このままでは良くない。もはや「昏睡」状態とも呼べるような多くの人たちに向けて「眠っちゃだめだ! 死んでしまうぞ!」と頬の2、3発も張り、両肩をつかんで強く揺さぶるようにして、「どう見ても駄作」とか「あなたは莫迦だ」などと言う。
古い表現でいうなら「涙隠して、人を斬る」のである。そんな私は、「冥府魔道」に生きる、刺客・拝一刀みたいなものなのだ(以上『子連れ狼』より。私は、子なしだが)。

以上が、私が「どう見ても駄作」とか「あなたは莫迦だ」など、普通の人が言わないことを、あえて口にする理由である。

さて、いよいよ本稿のタイトルである、「本を読んでいれば偉いのか!」という「問い」について答えていこう。

このタイトルは「本を読んでいれば偉いのか!」であって、「本を読んでいれば偉いのか?」と「疑問形」にはなっていないから「問い」にはなっていないということに気づいた人は、ちゃんと「読めている人」である。

つまり、この「本を読んでいれば偉いのか!」という言葉を発した人は、問うているのではない。
この言葉が意味しているのは、正確に言うならば「本を読んでいれば偉いのか! そんなことはない。本を読んでいるやつにも、知識が豊富なだけの、人間的には大莫迦野郎と呼んで良いようなやつが山ほどいるし、一方、本を読んでいなくても、人間知や生活知にあふれた立派な人は大勢いる」と、大筋そのようなことである。
つまり、この人の中では、すでに答が出ているのだ。しかもそれが「正解」だと思い込んでいる。だから、「本を読んでいれば偉いのか!」という「問い」形式の言葉(反語)をぶつければ、相手は「反論できない」だろうと、そう踏んで、こう言っているのだ。

だが、こんなふうに考える人は、莫迦である。

(こちらは妖怪の「馬鹿」

最初に書いたとおり、高校生くらいなら、許してあげましょう。それにしてもこれだって、「許される」のではなく、「許してあげる」のであり「許してもらう」だけ、なのだ。
だから、ましてや大人が、こんなことを言えば「正真正銘の莫迦」認定されても仕方がないのである。つまり、自業自得。実際に馬鹿であり、正当的確な評価なのだから。

「本を読んでいれば偉いのか」という「問い」が、反論不可能な「正論」だと「勘違い」する人が多いのは、世間の多くが、あまりにも物事を「オブラートに包んで」表現しすぎるからであろう。

例えば、「駄作」を「良いところもある」「力が入った作品」「前に読んだのに比べれば、ずいぶん良くなって(マシになって)いる」とかそんな「欠点を指摘するのではなく、良いところを褒めて伸ばしてあげましょう」といった感じで、20点の作品を、40点くらいのように「見せかけてしまう」といった「無難な言説」が横行しているため、にわかに「本を読んでいれば偉いのか」などと言われると、つい「いや、本を読んでいれば偉いというわけではないけどね」などと、相手の言葉に迎合したような、「腰の退けた」物言いになってしまいがちなのだ。
また、だからこそ、相手は図に乗って「そうでしょう。本を読んでいれば、偉いというわけではないし、読んでいれば良いというものじゃないなんて、わかりきった話です。だから、そんなことを偉そうに言うやつは、今どき流行らない、時代錯誤の教養主義者ですよ」などと、すっかり「論破」したつもりになって、自慢の鼻をひくつかせることになる。そしてこれがクセになって、自分の不勉強と「莫迦」を棚に上げ、自分より賢い相手には「本を読んでいれば偉いのか!」という「決めゼリフ」を濫発するようになるのである。

だが、こういう莫迦には、やはり「君は莫迦なんだよ」ということを教えてあげたほうが良い。
「できない」ものを「できる」と保証するのは、相手のためにはならない。「君は莫迦なんだから、できないよ。できないことがわかっていないんだから、そんな莫迦なことはやめた方が良い」と教えてあげるのが、親切というものだ。

だが、このように「懇切丁寧に優しく教えてあげる」と、その内容の「厳しさ」に反して、表現が「柔らかい(優しそうだ)」から、その結果、相手の「深く眠りこんだ知性」を呼び醒ますことができない。
やはり、「昏睡」状態とも呼べるような人に対しては、頬の2、3発も張り、両肩をつかんで強く揺さぶるくらいのことはしなくてはならない。
熟睡している人に、ささやき声で「起きてください。ねえ起きて」なんて言っても、目を覚ますわけがない。それどころか、その優しい声に触発されて、何やら楽しい夢でもみて、それに深く潜り込もうとするかもしれないじゃないか。

したがって、「本を読んでいれば偉いのか!」と言われれば、次のように答えれば良い。

「偉いよ。読まないよりは、読む方が数等偉い。君は何か? 自分を、本も読まないで済むほどの天才だとでも思っているのか? そんなだから、私に莫迦だと断じられるのだ。君のそうした物言いが、話ぶりが、まさに莫迦丸出しだから、一目見ただけで私は『こいつ、莫迦だな』と見抜けたんだよ。
だから、わかりやすく莫迦な君は、本くらい読まなきゃいけない、と言うんだ。たしかに、本を読んでも、無駄にオタク的な知識だけをため込み、それをひけらかすしか能のない、救いがたい莫迦も大勢いるよ。
しかし、そんな莫迦であっても、少なくとも、本も読まない莫迦よりは、多少なりとも知恵はつくんだから、君もダメもとで本を読んだ方が良いんだ。
私は何も、本を読んだら絶対に賢くなるなんて言ってないし、ましてや本を読んでいる人が、絶対的に〝偉い〟と言っているのでもない。
本を読んでいる人を〝偉い〟と言う場合の〝偉い〟とは、その努力をして〝偉い〟と言っているのであって、その人が社会的に高い地位にあるとか、あるも同然だとか言っているわけじゃない。
莫迦であろうと賢かろうと、努力すること、向上心を持つことは尊いことであり、その意味で〝偉い〟んだ。別に、本を読んでいるからといって、大金持ちにも、総理大臣にも、天皇にもなれないけれど、その努力において、その人がどんなステータスにあろうと、その行い自体が〝偉い〟と言っているんだ。
したがって、〝偉い〟という言葉を、ほとんどステータスの問題だと誤解し、そのことにも気づかないで、そんなことを言っている君は、正真正銘の莫迦なのだ。
だから、本を読め。本くらいは読め、という意味だ。本を読んだからといって、君のような莫迦が賢くなる保証など全くない。だが、努力しないよりはした方がいいし、なによりその努力自体が尊いものなのだ。だから、本を読め。本を読むこと自体は、決して難しいことではないのだから、本くらいは読めと言っているのだ。
君みたいな莫迦に、いきなり難しい本を読めとは言わない。無論、わからないなりに難しい本に挑むというのはとても価値のあることだが、そんな高度なことを、いきなり君のような莫迦に求めたりはしない。しかしなぜ、とうてい歯が立たないような難しい本を読むことに意味があるのか、君にはきっとわからないだろう。だから教えてあげるが、難しい本を読むのは、そこから難しい知識を得て、それを暗記して他所でひけらかすためではなく、わからない自分を噛み締めるためなんだよ。どうだ、わからないだろう? どういう意味かというと、その本を書いている著者は当然として、その本の内容を理解している人が、この世の中に何百人だか何千人だか何万人だかいるはずなのに、自分にはそれがわからないという事実を痛感することで、自分の位置確認ができ、自分の能力確認が、客観的にできるということなのだ。
言い換えれば、普通程度の知能があれば誰が読んでもわかるような、そんなゆるい娯楽作品ばかり読んでいたら、いつまで経っても、自分の限界が見えず、自分の大きさ(小ささ)や輪郭が見えないから、自分が何でもわかるような勘違いに陥ってしまうんだ。自分の小さな部屋の中での王様になってしまうんだな。でも、それって、客観的にみれば莫迦なんだよ。しかも自覚のない莫迦。だから、せめて、書を読もう町に出よう、というわけだ。
また、部屋の外へ出ていくことまでは出来ないとしても、せめて、自分が部屋からも出られない、小さくて弱い人間だということを、本を読むことで、自覚できるようにはなれようということだ。だから、本を読め。
本を読まないで、本を読んでいれば偉いのか、なんて言っている君なんかよりは、娯楽小説であろうと、絵本であろうと、チラシ広告であろうと、読んでいる人の方がマシだというのはわかりきったことだ。だから、その意味においては、本を読んでいれば偉いのだ。読んでいないやつに比べれば、その努力において〝偉い〟という意味だ。
実際のところ、賢い奴ほど、自分の限界を知っている。自分が何を知らないかを知っているから、本を読むんだよ、際限もなく。自分の弱点が見えているから、読まないではいられないんだ。
だが、自分が見えていない莫迦は、自分の弱点も見えていないから勉強しないんだ。勉強とまでは言わなくても、本くらいは読んでも良いんだが、それもしないんだ。無知の全能感にひたっているから、向上の必要性を感じないからなんだな。
でも、そんな奴こそが、本当に救いがたい莫迦なんだ。
だから私は、そういうやつに対して、愛を持って、「眠っちゃだめだ! 死んでしまうぞ!」と頬の2、3発も張り、両肩をつかんで強く揺さぶるようにして、そう言うんだよ。君はそれくらい、脳死寸前なんだ。だから、莫迦呼ばわりくらいは甘んじてうけ、私に感謝すべきなのだ」

ともあれ「本を読んでいれば偉いのか!」という「〜であれば偉いのか!」攻撃というのは、その人が「偉い」と言ってもらえる地位にはないからこそであり、それいて、その地位が欲しくて欲しくてたまらないという本心を隠しているから、つい他人には「〜であれば偉いのか!」なんて言ってしまう。

「本を読んでいれば偉いのか!」「知識があれば偉いのか!」「ステータスが高ければ偉いのか!」「金持ちであれば偉いのか!」「イケメンであれば偉いのか!」「友達が多ければ偉いのか!」などなど。

こんなことを、恥ずかしげもなく口にする人は、本音では、それが欲しくて欲しくてならないのだが、たぶん、それを手にすることはないだろうと思っているからこそ、そんな「無意味な問い」を発するのだ。
言うまでもなく「本を読まないよりは、読んだ方が良い」「知識は、無いよりは、あった方が良い」「ステータスも低いよりは高い方が良い」「金も無いよりは、あった方が良い」「イケメンでないよりは、イケメンであった方が良い」「友達が少ないよりは、多い方が良い」。一一ただし、「本を読んで知恵がついたらついたで、知恵の苦しみを持つ」ことにもなるし、「知識は持てば持つほど、自分の無知を思い知る」し、「ステータスが高いと、他人から期待されるところも高く、人目を気にして生きなければならない」し、「イケメンでモテモテだと、モテるが故の苦労もある」し、「多くの友達を持つと、それだけ気遣いも必要となってきて、結構面倒」だ。とかくに人この世は住みにくい、ということにもなる。

つまり、「〜であれば偉いのか!」攻撃というのは、将来的にも「モテない」であろう人の「無責任な安心」に立脚した「負け惜しみ」にすぎない。

そもそも、そんなものは「いらない」と、心から思っている人は、そんな「見苦しい恨み言」なんて口にしないはずなのだが、何しろ莫迦だから、そんな自分が見えていないのだ。

一一と、古本屋が、昔そんなことを言ってたよ。あいつ、教師をやってたからな。
まあ、僕は本なんか読まないし、読む必要もない。だって、神が本を読んだら、ヘソが茶を飲んじゃうからね。

(榎木津礼三郎・談)


(2024年4月4日)

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