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梅崎春生 『怠惰の美徳』 : 怠惰とは、悟りの境地である。

書評:荻原魚雷編・梅崎春生怠惰の美徳』(中公文庫)

梅崎春生を読むのは、これが初めてだ。どうして初めてなのかと考えてみると、戦後文学史や文壇史的なものに、梅崎の名の挙がることが少なく、言及されていたとしても、そう大きな扱いを受けるような作家ではなかったということなのであろう。だから、私の興味を惹かなかった。

つまり、これまではまったくのノーマークだったのだが、しかし、そういった作家でも1冊くらいは味見しておきたいというのが、可能なかぎりコンプリートを目指す、私の「コレクター的な気質」なのだ。
したがって、タイトルからしていかにも読みやすそうな本書で味見をしてみて、それで気に入れば小説作品を読んでもいいなと、そのように考えたのである。

で、結果としてどうであったかというと、たしかに「面白いエッセイを書く人」であり、作家自身も「面白い人」だというのがわかった。だが、だからといって、この人の長編小説を読もうとまでは思わなかった。

表題作からも分かるとおり、この人のエッセイには飄逸なユーモアがあって、とても面白い。本を読んで笑うことなど滅多にない私でも、おもわず吹き出してしまうほどのすっ惚けぶりは、きわめて魅力的である。
だが、こうしたすっ惚けたエッセイばかりではなく、本書には梅崎が、基本「大真面目」で「神経質」な人であることのわかるエッセイや短編小説も収められている。

彼自身、自分が「鬱」持ち的な人間であり、入院するほどではないものの、年に何度か、気分が落ち込んで、寝床から出ることさえできなくなる時期のあることを、それも惚けた筆致で報告しているし、何より、彼が戦後すぐに書いたエッセイには、彼の戦闘的なまでの批判精神がむき出しに表現されている。この人は、間違いなく、そういう側面を持つ人なのだ。

だが、それをそのままに生きていくことは極めて困難なことだろうし、そうした尖った神経が、正常な精神状態の中でのものだと言えるのか否か、それは彼自身にも判断のつきかけるものだったのではないだろうか。
言っていること自体は完全に正しいのだが、しかしそれをそのまま、ずっと書き続けるのは、実際のところ困難であろう。彼は、身分の保証された「文士」たちが、口先では「庶民の味方」みたいなご立派なことを言いながらも、「文壇」の中では、けっこう権力志向的な「俗物性」を発揮しているという事実を、そこでは厳しく処断しているのである。

だから、そんなものばかり書いていたのでは、地震の身の置きどころがなく、物書きとして食っていけないのは明白だ。私のようなアマチュアならいざ知らず、お客さんに本を買ってもらわなければならない作家としては、そんなものばかり書いているわけにはいかない。
また、だからと言って、評論家になれるというわけでもない。そういうものも、書こうと思えば書けないこともなかったろうが、評論家で食っていくためには、他の作家たちの姿勢を、頭から否定するようなことばかり書いていては、文芸評論家は務まらないし、それでも評論家をやれるとすれば、それは評論家たちの少なからぬ者がそうであるように、大学の先生でもやって、その余技として評論家をする、というようなかたちでもないと無理だろう。一一だが彼は、そういう「呑気なご身分」から発せられる、もっともらしい言い草が気に入らないのだ。だから彼は、そんなものにはなりたくないし、また自分の性格ではなれないことも知っている。
そのため、自分の尖った神経を韜晦し、すっ惚けの糖衣に包んで提供する。人間ではなく、犬だの猫だの蟻だののことを書くのは、そのためなのだ。
だから、彼の、呑気そうなエッセイは、彼の尖った神経の裏返しなのだ。それを真にうけては、いかにも愚かだが、しかし、そのように深読みすれば、呑気に笑って楽しむこともできなくなる。

梅崎のこうした「仮面」は、たしかに面白い。面白いのだが、所詮「仮面」は「仮面」に過ぎず、幾つも読んでいるうちに、少々飽きが来るのを感じないではいられない。似たようなエッセイ集を、もう1冊読みたいとは思わないのだ。

本書には、いくつかの短編小説が収められているが、それらには、梅崎の「素顔」に近いものが現れているように感じられる。
戦後しばらく経ってからのものは、エッセイと同じく、少なくとも表面的には飄逸さのあるものに見えはする。だが、真面目で繊細な下地が、梅崎文学の本質であることもよく窺える。梅崎は、変わりゆく日本や日本人について、その時々、それぞれに不満を持っており、決して満足することもなければ、諦めてしまうこともできず、ただ、それをユーモアの糖衣に包んで、書き続けているのである。

特に、最も古い短編「防波堤」には、彼の尖った繊細さがよく現れており、「まさに純文学」というような「心理の機微」を描いている。そして、これこそが、この人の本質なのだということがわかるのだ。

ただし、梅崎は、そうした鋭い神経を持ちながらも、それをむき出しにして闘うようなタイプの人ではなかった。
暗い目で、じっと世間を見据えながらも、それらをユーモアの糖衣で包み、ごくごく低い声で告発しているようなタイプの、外見上は、地味な人だった。
だからこそ、彼が「文学史」や「文壇史」の表舞台に出てくることなど、ほぼなかった、ということなのであろう。

彼のこうした気難しいスタンスは、非常によくわかるし、共感するところも多々ある。私だって、梅崎のような小説家的な才能があって、あるていど世間に出ることが可能だったとしても、やはり、梅崎のようなスタンスを選ぶのではないかという気がする。

だが、読者としての「好み」で言わせてもらえば、多少の「偽善」はあったとしても、表舞台で派手に闘ってくれる人の方が、やはり好きなのだ。
梅崎には、そうした破壊的な危険性が、毫も感じられない。結局は、安全な作家なのである。

梅崎の「潔癖症」的なところには共感しつつ、そうした「無難に綺麗に完成している」というものに、私はあまり魅力を感じない。
彼には、きっと「よくできた作品」も少なくないのだろうとそう思いつつ、そうした作品を、いまさら読みたいとは思わない。だから、ましてや彼の長編小説を読みたいとは思わないのだ。

だがまた、短編小説ならいくつか評判の良いものを読んでみたい気もする。
それは、梅崎への興味であるというよりも、どこか私自身と似たところのある、その「潔癖症の無難さ」という「弱さ」が気になるからではないかと思う。

梅崎は「怠惰の美徳」というエッセイを書いて、自分がいかに怠惰な人間かを語り、そして「怠惰も決して悪くはない」ということを書いているからこそ、「怠惰さ」が許される状況に憧れる多くの人たちが、本書に惹かれるのであろう。

だが、「怠惰の美徳」を語れる人というのは、実際のところ「怠惰」ではあり得ない。そうではあり得ないからこそ「純粋な怠惰」というものに憧れを感じ、それを賛美せざるを得ないということなのではないだろうか。

少なくとも私自身は、少しも「怠惰」ではない。やりたくないことはやらないとか、やりたいことだけしかしないというのを、「怠惰」とは言わない。
見ての通り、私はやりたいことをやらせてもらえるのであれば、きわめて「勤勉」な人間なのである。

言い換えれば、本物の「怠惰」とは、特にやりたいこともなく、だから出来るかぎり何もしないというようなものを言い、そんな人を「怠惰」と呼ぶのだが、そんな人は普通、生きてはいけないから、滅多にいるものではないはずだ。

したがって、「怠惰」とは、「故郷」と同様で、言うなれば、「遠きにありて思うもの」。つまり、非実体的な「憧れの対象」でしかないのではないだろうか。
人から「怠惰だ」と言われる人も、自分では「十分に怠惰だ」と思ってはいないはずなのだ。


(2024年8月10日)

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