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藤本タツキ 『ルックバック』 : 半自伝的作品、 と見せかけて

書評:藤本タツキルックバック』(ジャンプコミックス・集英社)


「俺って、天才(天啓の器)?」って思わされた。どういうことかと言うと、本書を「今頃になって読んだ」のは、本作がアニメ化されると知ったからといった、そんな平凡な理由からではなかったからだ。
いや、それもあるにはあるのだが、それだけではないと言うか、そっちが主たる理由ではない。

その主たる理由というのは、先日「note」の記事として書いたことなのだが、「積読の山が崩れた」から、なのだ。平積みにしてあった、未読本の山が夜中にドサーッと崩れたのだが、その中から出てきた本の1冊が本書だったのである。

で、そうしたかたちで偶然にも発掘された本の中から、今日はこれを読もうかなと、さっき本書を取り上げ、読み、これを書いている。

本書は、3年前に同じ著者の短編集2冊と同時に新刊で購入したもので、その頃の私は、まだ退職してはいなかった。
今でも同じことなのだが、読みたい本が多すぎて、本を買うスピードに読むスピードが追いつかないから、未読本の山がどんどん成長してしまい、半年もすれば、半年前に買った未読本はもう発掘困難というか、発掘してまで読む気力がなくなっているのである。それよりも、いま読みたい買ったばかりの本があるからだ。

で、本書を、買って時にすぐに読まなかったのには理由がある。端的に言って「絵柄が趣味ではなかった」のだ。
『チェンソーマン』という長編作品がテレビアニメ化されるとかで、大人気になっているマンガ家だとは知っていたが、読書の妨げになるから、アニメも含めて、シリーズもののテレビ番組は見ないことにしている。なので、『チェンソーマン』については、アニメも見ないし原作マンガも読まないということには、なんの迷いもなかった。絵柄の合わない長編漫画を読むことは、生理的に不可能だということを経験的に知っていたからである。

私は「線の整理された」絵柄が好きで、タッチが強く入っている、クセのある絵柄は、おおむね好みではない。
だから昔、大友克洋が大人気だった頃、一巻本の『童夢』なら読めたし、ものすごく面白かった(のちに、古本で初版初刷本も入手した)のだが、それでもやはり、大友の代表作である『AKIRA』を読もうとは、これまで一度も思ったことがないくらいなのだ。

しかしながら、知らない有力新人は気になるし、味見だけはしておきたいという気持ちはいつもあるので、100ページ強の薄い長編作品である本書『ルックバック』と、短編集2冊だけは買った。これならすぐに読めそうだと思ったからである。

だが、やっぱり「絵柄が趣味ではない」ということもあって、なんとなく後回しにしているうちに、案の定、積読の山に埋もれさせてしまったわけなのだが、一一それが先日の「雪崩」によって、実に3年ぶりに蘇ってきたのである。

しかも、私は先日映画を見に行った際に、本作が映画化されるというのを、予告編で知って「アニメなら見てもいいな」と、そう思っていたのだ。

どうして「アニメなら見てもいい」のかというと、アニメでは「線が整理されている」から、原作の絵柄がダメでも、アニメなら、たいがいは大丈夫だからである。
先日、アニメ版を見た、浅野いにお原作の『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』なんかも、そうした例である。まあ、浅野の場合は、線は整理されているのだけれど、キャラの顔が好みではなかっただけなのだが、いずれにしろ、私は「面食い」で、見てくれが気になる人間なのである。

ともあれ、そんな折に、偶然にも「雪崩」が起こって、藤本タツキの本3冊が、じゃじゃーーんとばかりに再登場してきた。
だから、これは偶然ではありながら、とても偶然だとは思えない。まるで「さあ、今こそ読むタイミングだぞ」と言わんばかりの再登場だったのである。
しかも、さらに続きがある。

本書が「雪崩」を経て復活してきたのは、上のエッセイ「雪崩と蔵書整理」を書いた日だから、6日前のことである。
で、それ以降にも私は別の本を読んでおり、今日、本書を手に取ったのは、まったくの偶然だった。ただ「どうせアニメを見るんなら、その前に原作を読んでおこうか」と、そう思っただけだった。

で、本書をさっさと読了し、このレビューを書こうとパソコンに向かい、さて「アニメは、いつ公開されるんだっけ?」と思ってネット検索してみたら、なんと「6月26日」、つまり明日だったのである。
私は偶然にも、「アニメの公開前」ギリギリのタイミングで、本作を読んだのだ。

で、私がどうして、こんな「スピリチュアル」めいたことを長々と書いているのかというと、それは、本書の内容と、私のこの体験が「シンクロ」していたからである。

本書の「あらすじ」は、次のとおり。

序盤
小学4年生の藤野は学年新聞で4コマ漫画を毎週連載し、同級生や家族から絶賛されていた。ある日、教師から京本の漫画を掲載したいため、藤野の連載している内の1枠を譲って欲しいと告げられる。
藤野は不登校児である京本を見下していたが、京本の画力は高く、掲載された京本の漫画は周囲の児童からも称賛され比べて藤野の絵は普通だと掌を返すような反応をされる。
藤野は屈辱を覚えながら絵の本格的な練習を開始し、友人・家族関係にも軋轢を生みながらも努力を重ねていく。だが、そうした研鑽の果てにも京本の画力には届かず、3年生の時から続けた連載を6年生の途中で辞めて、とうとうペンを折ることになる。
中盤
小学校の卒業式の日になり、教師から卒業証書を届けるよう頼まれた藤野は、この日初めて対面し、京本に藤野のファンだと告げられる。再び漫画を描き始めた藤野は京本に漫画のネームを読んでもらうようになり、やがて京本が作画に加わり、2人は藤野キョウというペンネームで漫画賞の受賞を目指した漫画の創作を始める。
13歳で応募した作品が準入選となり、17歳までに7本の読み切りを掲載。アマチュアの漫画家として成功を収める2人であったが、高校卒業に際して2人の進路は分かれ、京本は山形市にある美術大学へ進学し、藤野は漫画雑誌での連載を開始してプロの漫画家になる。ここで両名のコンビは解消となる。
一人になった藤野は順調に連載を続け、藤野の漫画は既刊11巻でアニメ化するまでになる。そんな藤野にとあるニュースが飛び込んでくる。
(※ 「終盤」は省略)』

(Wikipedia「ルックバック」

要は「マンガ家を目指す少女とその絵描き友達」の友情物語なのだが、だから私は、本作を、男性である著者が、少女たちに自身を投影して描いた「半自伝的な作品」なのではないかと、そう思って、3年前に本書を購入していたのである。

ところが、今回読んでみて、本作には、そういう側面もあるにせよ、そうした「半自伝的要素」とは別に、ちゃんと「仕掛けもひねり」もあり、それによるハッピーエンドの作品になっているというのがわかった。
現在、Amazonの本書紹介ページには「6466」もの評価が寄せられており、しかも、その評価は極めて高いのだが、なるほど「愛される作品」であることの理由が、よくわかった。

で、本稿が本作についての批評文であるなら、この作品が「青春友情マンガ」であるという指摘だけではまったく不十分であり、やはりその「仕掛け」についても論じなければならない。
しかしまた、端的に言って、それをバラしてしまうと、本作の楽しみは半減してしまう。だがまたその一方で、本作の「仕掛け」自体は、それほど目新しいものではないので、ここではヒントだけを示しておくことにした。

本作の「仕掛け」が『それほど目新しいものではない』というのは、この「仕掛け」自体は、例えば藤子不二雄なども、何度となく駆使していたものでしかないからだ。つまり本作の肝は、「仕掛け」そのものではなく、「半自伝的作品」だと思わせる、段取りにこそあったのである。

したがって、そんな本作のイメージに最も近い作品を挙げておくなら、今年、日本でも公開された『オッペンハイマー』がアカデミー賞を受賞したクリストファー・ノーラン監督の、ある旧作だ、とだけ指摘しておきたい。

ここまで書いただけでも、気づく人は気づくかもしれないが、それでも読めば、励まされる作品になっているから、ぜひ読んでほしい。

「なぜ、描くのか(書くのか)?」
「それは、自分の作品を持ってくれている、誰かのためだ」

作者のそんな想いの伝わってくる好編である。


【追記・お詫びと訂正】
すでにお気づきの方も多かろうが、私としたことが、単純に日付を見間違えていた。
ネット検索した結果、アニメ版『ルックバック』は、明日「6月26日」公開だとわかった、と書いたのだが、正しくは「6月28日」だと、さっき気づいたのだ。恥ずかしい…。
残念ながら、私は天才ではなかったのだな。日頃、唯物論者を名乗るものが、あんなことを書いたので、バチが当たったのか。唯物論的には「バチ」なんてものはないのだが。
まあでも、歳をとって目が悪くなり、よく見間違いをするのだよ。はあ…。
(2024.06.25 16:39記)

(2024年6月25日)

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