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押山清高監督 『ルックバック』 : リアルとフィクションの「幸福な出会い」

映画評:押山清高監督『ルックバック』2024年)

評判に違わぬ傑作である。アニメ作品として傑作なのだ。
私は先に原作漫画の方を読んでおり、その際にレビューも書いているから、原作漫画との比較の中で、アニメ作品である本作を論じていくことになるだろう。

まず、本作が一般に強く訴えた点として「(心に)突き刺さる」作品だということがある。

これは、原作からしてそうであり、「ままならない現実」を描きながらも、ある仕掛けによって「ある種のハッピーエンド」に持ち込んで見せたところが、原作の巧みだったと言えるだろう。
「現実」を描きながら、それに対する「フィクション」による「救済」を描いており、それでいて、決して「現実から逃げていない」点が、原作漫画の素晴らしさだと言える。だからこそ読み手もまた「フイクションによるきれいごと」に逃げたという「やましさ」を感じることなく、この作品の「ハッピーエンド」を、安心して受け入れることもできたのだ。

(「京本」の画力に衝撃を受けて、負けじとデッサン練習に明け暮れたせいで、成績は落ち、友達づきあいも怠って、一人浮いてしまう「藤野」だったが…)

そして、本作アニメ版『ルックバック』の強みは、そうした原作の「骨格の確かさ」を生かしつつ、原作では「仕掛け」との関係で、あまり長々とは描き切れなかった部分を、十ニ分に「肉付け」できた、という点にあろう。

私は、原作を評して、次のように書いていた。

『本稿が本作についての批評文であるなら、この作品が「青春友情マンガ」であるという指摘だけではまったく不十分であり、やはりその「仕掛け」についても論じなければならない。
しかしまた、端的に言って、それをバラしてしまうと、本作の楽しみは半減してしまう。だがまたその一方で、本作の「仕掛け」自体は、それほど目新しいものではないので、ここではヒントだけを示しておくことにした。』

つまり、原作漫画における「突き刺さる」というのは、よくあるような、単に「感動的」な作品には止まっておらず、その「感動」を偽物にしないための「仕掛け」が、きちんと担保されていた点にあるのだ。
だから、本原作漫画におけるその「仕掛け」の重要さを、同作の「感動(突き刺さる)」との関係で論じなければ、議論は「感情論」に終始することになって、作品を論じたことにはならないと、私は上の部分で、そう示唆しておいたのだ。

つまり、原作漫画の場合は、このような「仕掛け」を仕込んだところに、凡百の「泣かせ作品」には無い「巧さ」があった。
ただ「泣かせたいだけの作品」のように、これでもかというような「感情喚起」のための描写はしなかったのであり、その点で、極めて技巧的に作られた作品だったと言えるのである。

だが、言うまでもなく、「漫画」と「アニメ」では、メディアとしての特性が違う。
その代表的な「違い」を挙げておくと、次のようなことになるだろう。

(1)漫画は基本「見開き」を多くのコマに分割して、ストーリー展開を説明するという形式を採る。そのことによって、絵本のような「のんびりとしたテンポ」ではない、緩急をつけた物語展開の迫力を持たせることができる。一方、アニメの場合は、基本「四角い画面」の中に、ひとつの絵(カット)を見せる。
(2)漫画の「絵」は動かず、コマ割りと効果線などの技巧によって「動きを擬似的に表現する」が、アニメの場合は、実際に「絵を動かしてみせる」。
(3)漫画には基本「絵」と「文字情報」しかないが、アニメには「音」がある。

つまり、原作漫画では出来なかったことが、アニメでは、「動き」「音」を付け加えることにおいて可能なのだ。

しかし、このアニメの「強み」というのは、しばしば弱点にもなる。

それは、「原作」で語られた「情報量」が多い場合、「アニメの強み」を付け加える「余地」を見出しにくく、逆に、原作の一部を削るかたちで「アニメ化」せざるを得ない、という難点である。

つまり、原作漫画が数巻にもわたるような長編作品であった場合、テレビアニメのように、何本にも分割された、長尺の作品にするのなら良いけれども、劇場用アニメのように「90分」ほどにまとめなければならない場合には、そこで無理が生じて、「原作付き作品の映像化問題」というのが、発生しがちなのである。原作ファンが、「これは違う」と怒りだす事態が、まま発生しがちなのだ。

その点、本作アニメ版『ルックバック』の場合は、映画では通常の「90分」にすら満たない「58分」という尺でまとめ得た点に、一巻完結の長編という、映画化にあたって「長すぎずも、短すぎもしない原作」選択の成功があったし、基本戦略の正しさがあったと言えるだろう。
つまり、原作を、アニメ作品に落とし込むにあたって、アニメの強みだけを「追加」するだけで、原作の内容を「無理に削る」必要が、本作では無かったのである。

さて、そのような意味で、(1〜3)の違いにおいて、まず注目すべきは、本作アニメ版の場合は、コマ割りによる説明の必要がなく、時間的に移り変わっていく「絵」で、物語をじっくりと見せられるという「映画の特性」を活かして、四角い「一枚絵」ならではの、美しい画面構成を実現し得ている点だろう。しかも、アニメは「カラー」なのだ。この強みを生かさない手はない。
アニメにおける「絵」は、「ストーリーを説明するためのもの」であるばかりではなく「絵そのもの」として鑑賞者の目を楽しませるという点で、「コマ割り」「モノクロ」の漫画原作よりも優位に立っているのだが、本作はそれを活かし切った作品だと言えるだろう(主人公の二人が、電車で帰宅するシーンは、じつに美しかった)。

(夕景の中を三両編成ほどの電車が走るカットが、とてつもなく美しかった。ここでの二人のやり取りも、個性が出ていて、とても微笑ましい)

本作の評価においては、ネットニュースなどで拡散される、制作関係者などの証言を受けて、「動き」の側面が強調されがちだが、「動き」というのは、「絵作り(見せ方)」のうまさが前提にあって、初めて生きるものであることを忘れてはならない。ただ「そのカットの動きがすごい」と感心させるだけの「動き」であってはならないのだ。
つまり、本作の場合、押山監督の「映画として絵作り」の巧さ、つまり「絵コンテ」的な全体の「絵作り」や、「実写映画における演技指導」の当たる部分での巧みさがあって、初めて原画家の作画力が活きたし、原画家は、押山監督の示した方向性をしっかりと理解して「動かした」からこそ、本作は「動き」だけが妙に浮くような作品ではなく、「動き」が映画全体に活力を与えるものにもなっていたのである。

そして、「絵作り」「動き」という「アニメならでは」の点ではなく、アニメが「映画の一種」であるところの強みでありながら、ついつい見逃されがちなのが、「音がある」という点である。
原作漫画では、吹き出しの中のセリフや「ト書きナレーション」的などの「文字情報」と、なかばビジュアル化されて「擬似的な効果音表現」があるだけだが、映画には、実際の「音」があり、この強みは、一般に思われているよりも、はるかに強いのだ。

というのも、目を通して受け取る「ビジュアル情報」や、同様に、目を通して受け取った後、さらに頭脳によって分析的に理解されるしかない「文字情報」に比べて、「音」つまり「音声情報」というのは、そうした「理解」を超えて、直接、人の「情感」に訴えてくるのである。例えば、声優による「セリフの内容」だけではなく、声優の「声質」が、直に聞く者の情感に訴えるのだ。

(二人の作品が初めて少年漫画誌の公募新人賞に入選して、雑誌掲載されることになった。二人は雪の中をコンビニへと向かい、おそるおそる雑誌を開く)

「音」の問題では、まず「音楽」だが、周知のとおり、「音楽」というのは、通常「知的理解」という過程を必要とはない。ただ、ぼーっと聞いているだけでも、その「音楽」の良さというものを感じることができるのだ。
つまり、「理解」する努力が必要ない、ということは、知らず知らずのうちに、人の情感に訴える力を持っているということであり、要は、わざわざ観客を「説得」するまでもなく、その「感化力」を直接的に行使できるということなのである。

だから「実写映画」の世界においては、その基本である「(現実を写し撮る・移し取る)映像の力」にこだわる作家などは、「音」の力に頼るのを潔しとしない者もいる。
要は、大した「映像(絵的描写)」ではないにも関わらず「BGMで、無理やり盛り上げる」というようなこと(演出)は避けたい、と考えるのだ。

そんな作家の代表が、ストイックな作風で知られる、フランスのロベール・ブレッソン監督で、彼は「BGM」の使用を避け、「プロの俳優による、形式化された演技」さえ排除してみせた。
だから、彼の代表作のひとつである『田舎司祭の日記』などでは、「BGM」が排除され、さらに、役柄にピッタリな存在感を持つ「素人」が配役された結果、娯楽映画を見慣れた目には、かなり単調で、かつ役者のセリフも「棒読み」と感じられるのだけれども、しかし、それを補って余りある、「リアルな存在感」が、「演出」されたものを超える力を、その画面に横溢させ得たのである。

で、私はここで、何もそういう映画が正しいと言いたいのではない。
映像作家が映像にこだわること自体には共感するけれども、しかしその一方で、「映画は総合芸術」であって、その特性を「全部」、有効に使い切ってこその「映画」である、という考え方も否定しないからだ。

そして、そういう観点からすれば、本作映画版『ルックバック』の、原作に対する「圧倒的な強み」は、「音がある」という点であり、具体的に言えば「BGM」があり「効果音」があり「声優の声」がある、という点である。
それらが、この作品の「絵」に圧倒的な「生気」を与えているという点を、決して見落としてはならない。特に、私が強調したいのは「専門の声優ではない俳優」による「声と演技の質」である。

本作の「声の演技」で、まず気づいたのは、「いかにもアニメっぽいというような演技ではない」という点であり、またそれだけではなく、じつは「アニメっぽい演技」も適度にあって、それが絶妙に活きているという点なのだ。

つまり、主役の二人である「藤野」河合優実)と「京本」吉田美月喜)の場合、「藤野」の方は「リアリズム」が強調されているのに対し、「京本」の場合は、適度に(アニメ的に)「誇張された演技」をしているのだ。
俳優当人がどこまで意識したものかはわからないが、この作品の意図と、押山監督の意図を汲んだ演技だというのは間違いないところだろう。

(クラスメイトから「藤野は、めちゃくちゃ絵が上手い」「プロの漫画家になれる」と言われて、満更でもでもなかった「藤野」だが、このあと「京本」の存在を知ることになる)

では、その意図とは何かというと、二人はそれぞれに「リアルとフィクション」を象徴しており、両者はそれを「つなぐ」関係の存在なのだ。

つまり「藤野」は、「リアル」に「少し鼻持ちならないところのある人間」だけれども、「京本」は「理想化された、可愛いキャラクター」なのだ。そして「京本」は、「藤野」が求め続けた、理想の存在だとも言えるだろう。
要は、自分を「全肯定してくれる存在」であり、「藤野」が持つような「自分が一番でないと気が済まない」という「人間らしさ」を持たない人間である。

(初めてもらった原稿料で、二人は街に遊びに出る。特に最後の「二人が手を繋いで走る」シーンは、典型的な青春シーンで大変美しく仕上がっているが、ここでのBGMの効果の大きさを、予告編動画などで確認してほしい)

だが、そんな「京本」も、「藤野」と一緒にいることで、やがて「リアルな人間としての欲望」を持つようになってしまう。つまり、「藤野が一番であり、藤野の背中を追い続けるだけの、子供のように可愛い存在」ではなく、「自分」を持つがゆえに『もっと絵が上手くなりたい』から「藤野」と別れてでも美大へ行きたいと、そう「私」を主張する、「人間的な欲望」を持った、「リアルな存在」へと変貌してしまうのだ。

だから本作は、「京本」が殺されることによって、初めて「悲劇」になるのではなく、「藤野」が「京本」という「フィクション」の存在を、「リアルな世界に引っ張り出した結果」として、それは必然的に起こったことなのだ。
もともと「京本」は、そのままでは、「リアル」では生きられない存在だからこそ、「リアル」の世界では死ななければならず、「フィクションの世界」に還らなければならない存在だったのである。

(昔、誤って「京本」の部屋に滑り込ませてしまった4コマ漫画を見つけて、自分がこれで「京本」を部屋から引っ張りださなければ、「京本」も死ぬことはなかったのに悔やむ、大人の「藤野」)

だからこそ、「藤野」の声優の演技は、徹頭徹尾「リアル」なものだったのだ。
特に、プロの人気漫画家になってから、担当編集者に「有能なアシスタントを増やしてほしい」という要件の電話をするシーンでは、「藤野」の「二次元」の姿さえ前面には出てこないで、「声だけ」のひたすら「リアル」な演技に終始する。
私は、長らくアニメを見てきたけれども、ここまで「リアル」に徹した演技というのは耳にしたことがない、とすら感じるほどのものであった。

そして、そうした「藤野」の演技に比べれば、「京本」の演技は、明らかに「可愛すぎる」のだ。

それがいけないというのではなく、普通なら、登場人物の「演技レベルの世界観的な統一」がなされるなずなのに、この二人の場合は、そうした統一がなされず、またなされていないところで、活き活きした世界観が生まれている。

では、なぜそうなったのかと言えば、それは本作の本質が、「リアルとフィクションの、幸福な遭遇と必要な別れ」が描かれた作品、ということだったからではないだろうか。
だからこそ、この作品には、ある意味で不似合いとも思える「SF的な仕掛け」が必要とされたし、それしかなかったのではないだろうか。

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「作画」面について、いくつか具体的に触れておこう。

まず、私が「作画的に感心した」のは、

(1)「藤野」が「京本」宅へ卒業証書を渡しに行き、玄関口から声をかけるも誰も出てこないものだから、勝手に家へ上がり込む。そして、スケッチブックが山のように積まれた廊下の先の、「京本」の部屋の前で、部屋から出てこない「京本」への、ちょっとしたイタズラとして、落ちていた「4コマ漫画用紙」に、「京本」を引きこもりを揶揄ったような漫画を描いたのだが、それをうっかり取り落として、ドアの下の隙間から「京本」の部屋の中へ滑り込ませてしまい、慌てて「京本」の家から「逃げ出すシーン」の、一連の「動き」である。

つまり「やばっ!」となって、あわてて玄関の方へと駆け出し、玄関で靴を履いて「京本宅」から表に出て、その先は「何事もなかったかのように、歩いて立ち去ろうとする」という、この一連の「東野の動き」が、とてもリアルで素晴らしかった。しかし、リアルとは言っても、それは、ロトスコープなどを使ったライブアクションのようなものではないではないところの、リアルさが素晴らしかったのだ。

(2)また、それに続くシーンとして、「京本」が「藤野」を追って、ドテラ姿のまま家の表に登場し、憧れの「藤野先生」に想いを伝えようとするものの、引きこもりで他人と話し慣れていないせいで、うまく話せないのだが、それでも必死で想いを伝えようとしている「京本」の、こちらはアップやバストアップを中心とした、誇張の入った「演技」の付け方が、じつに素晴らしかった。

(「藤野」が京本宅から逃げ出す時の動きに比して、ここでの「京本」の動きは、コミカルに誇張されている。特に「藤野」がカッコつけて言っただけの、ありもしない公募賞用原稿を「見たい見たい見たい見たい!」と、ずいっと詰め寄る動きなど)

(3)そして、勝手にライバル視していた「京本」から、「藤野先生」と全幅の尊敬の念を表明されて、すっかり自信を回復した「藤野」が、その帰り道の農道を、まさに「踊る」ようにして走って帰るシーンの動きが、また素晴らしかった。
この「踊るようにして走る」というのは、原作漫画にあるものなのだが、これを不自然ではなく実際に動かしてみせるというのは、アニメーターとして、並大抵の力量でできることではないからである。

(両腕を交互に天に突き上げるようにし、跳ねるようにして走る「藤野」)

しかし、最初にも書いたように、私は本作を「よく動いていた」「上手く動かしていた」という点を強調するかたちで褒めたいとは思わない。
あくまでも、その「動き」を活かす、押山監督による「全体の設計」があったからこそ、「動き」も生きた、という評価なのだ。
つまり、「動きが抑制されたシーンやカットが良かったから」こそ、「動きも生きた」と考えるのである。

例えば、夕暮れの帰り道で「京本」が、先を歩く「藤野」に対し、「美大に行きたい(から、漫画が手伝えなくなる)」と打ち明けるシーンでは、「京本」は両の拳を握りしめるようにして俯いたまま立ち尽くし、絞り出すようにその言葉を発する。
この時の「京本」には、「体の動き(動作)」も無いし、「アップ」の無い。さらには、引きの仰角アングルで、暮れ始めた空を背景にして立ち尽くす「京本」の「孤独」や「辛さ」や「寄るべなさ」が、見事に表現されているのだ。

つまり、こういうシーンがあるからこそ、「動きのあるシーン」が生きるのだ、ということである。

そして、こうした「人間描写」の部分を「膨らませた」からこそ、そして「目」よりも「頭」よりも、情感に直接訴える「音」を的確に使ったからこそ、このアニメ版は、原作以上に「突き刺さる」作品になったのではないだろうか。

だから、最初に書いたことの繰り返しになるが、本作については、当たり前に語られる「作画」面だけではなく、押山監督の「映画作家」としての「総合的な演出力」に、是非とも注目すべきだし、主役の二人を演じた若い女優たちにも、心からの拍手を送るべきだろう。

アニメの世界では「専門の声優をさしおいて、人気俳優を使う」ことに対する反発が、長らく語られてきたけれども、問題は「専門家か否か」ではなく、両者の特性をいかに活かすかということが重要なのだということを、本作は実作をもって見事に示した見せた「傑作」だと、そう高く評価すべきなのである。

(「またね」)



(2024年7月28日)

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