『井上俊之の作画遊蕩』 : アニメーター目線の問題提起とその限界
書評:井上俊之著・高瀬康司編著『井上俊之の作画遊蕩』(KADOKAWA)
本書は、ベテラン人気アニメーター井上俊之による対談集である。対談相手は、新旧のアニメーターを中心とした、アニメ制作関係者。
「編著」者の高瀬康司は、「アニメ研究家」とでも呼ぶべき人で、「作品論」ではなく「表現(方法)論」の側面からアニメを研究している人のようだ。
つまり、本書では、井上の対談に立ち合い、その対談記録をまとめる(文章化する)とともに、井上と自身の共通認識としての「現在のアニメ制作現場の問題点」について、対談の「補足説明」となる文章を、本書の「前説」と「補論」というかたちで書いている。
例えば高瀬は、井上による「対談(本文)」についても、
と書いているとおり、かなり高瀬の「手」が入り、その「作為」が入っていると考えるべきだろう。アニメに喩えるなら、高瀬の「作画修正」が入っている、ということだ。
無論、対談(鼎談・座談・講演など)を文字起こしして「読み物」に仕立てるためには、おのずと「加筆修正」はあるものなのだが、それは通常なら「当事者(対談者当人)」が専権的にやるものなのだ。
したがって、普通であれば、担当編集者の仕事(文字起こし)から、対談当座者の仕事(加筆修正)までを、本書では「研究者」である高瀬が、かなり前面に出てきてやっているというのは、本書が「批評」的な意義(あるいは、創作という行為についてのイデオロギー的な色彩)の強い本だということである。
もちろん、井上はアニメーター一筋の職人だから、問題意識の言語化が必ずしも得意ではないのかもしれない。だからこそ、高瀬と組んでそのあたりをフォローしてもらったのだろうし、高瀬の方も、完全な「書き換え」にならないように配慮して、井上の言葉に「補足修正」を加えた、ということなのではあろうが。
ともあれ、本書の読みどころは、主に次の2点である。
一般的に言って、読んで面白いのは(1)の方なのだが、井上と高瀬の「問題意識」が強く出てくるのは(2)の方である。
しかしまたそれは、「制作現場におけるシステム的な問題」であり、一般人(外部の者)には「わかりにくい」ということで、対談の中で語られるだけではなく、巻頭の「図説 キーポーズ制」として読者へ「予備知識」が与えられ、さらに巻末「補論」的なものとして、高瀬による「補講 レイアウトをめぐる語りの歴史」が置かれるという、がっちりとしたサンドイッチ形式が採用されている。
ちなみに、「キーポーズ制」というのは、井上俊之が提唱する「(アニメ制作工程における)レイアウトシステム」の一種であり、井上の「キーポーズ制」は、高瀬の言う「レイアウトをめぐる語りの歴史」における、最新の語り(言説・提言・主張)である、という位置づけである。
で、古いアニメファンである私としても、「アニメ業界の明日」を考える、井上・高瀬両名の真摯な取り組みと、その成果たる本書に、まずは敬意を表したいと思う。
一一ただし、部外者であり、現場の現実がいまひとつ掴みきれない者としては「いちおう、お説ごもっとも」だとは思うものの、諸手を挙げて賛成とまでは、言いかねるのだ。細かい部分ではあれ、危惧を抱かされる部分も、無いではないのである。
というのも、井上と高瀬の両者によってなされる、本書での「提案」は、あくまでも「作り手サイド」のものでしかなく、「作品鑑賞者」の視点を、ほとんど欠いているからだ。二人の意識に入っているのは、せいぜい「作画オタク」などの「アニメマニア」たちだけなのだ。
そして、そんな井上らの「視野の狭さ」という問題点を端なくも露呈させたのが、9人目の対談相手である、後輩アニメーターで演出家(監督)の山下清悟の口から漏れた、次のような(口ごもった)言葉である。
これは、古いアニメファンの多くが感じていることだろう。
端的に言えば、昨今は「絵はきれい(作画レベルが高い)」し「よく動く」、手間とお金のかかったものであるにもかかわらず、案外「つまらない(面白くない)」作品が少なくない、というようなことだ。
例えば私は、昨年の劇場アニメのヒット作『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(古賀豪監督・2023年)について、次のように書いている。
もちろんここでの問題は、「とって付けたような『呪術廻戦』もどき(のアクションシーンがある)」の部分だ。
たしかに「そこだけ」見れば「すごい作画だ」と言えるし、それだけでアニメオタクなら喜ぶのだろうが、しかし、この作品では、そこだけが、良くも悪くも「不自然に浮いていた」のだ。まるで「ここ、上手い原画家に描いてもらいました」と言わんばかりに。
無論、良いシーン、良いカットというのは、良い作品を作るためには必要なのだが、いくら「優れた(動かせる)アニメーター」を集め、さらにそれを「絵の上手い(美しい絵の描ける)作画監督」に修正させたとしても、それだけでその作品が「1本の映画として」傑作なるわけではない。
山下清悟の言う『作品という水準で考えたとき』とは、そういう意味なのだ。
事実、本書の対談を読んでいて引っかかるのは、あれは良かったこれはすごいとかいう話は、もっぱら「パーツとしての作画」に限定されていて、「作品そのもの(総体)としての出来不出来」には、ほとんど触れようとしない点で、例外的かつ否定的に言及されたのは『ルパン三世』第2期だけで、作品自体はくだらないが、対談ゲストの先輩アニメーター友永和秀の作画は素晴らしかったと、そう対比的に友永を賛嘆する部分だけだったのだ。
無論、井上はアニメーターだから、「作画に目が行く」というのはあるだろう。だが、では「作品総体」については、まったく見えていないのかといえば、事実としてそうではない。『ルパン三世』の第1期に比べて第2期が、作品として格段に劣るという事実は、ハッキリと見えているのだが、そこは「自分の職分ではない」とでも言いたいのか、故意に触れないようにしているとしか見えない。
無論、現職としては、いろいろと差し障りもあるからだろうが、いずれにしろ、作品というのは、山下清悟も言っていたように、作画レベルの問題だけではないのである。
例えば、今や「レジェンド」の一人である安彦良和(アニメーター・監督)との対談では、井上は、安彦の「アニメーター」としての能力を褒めちぎり、また、自身の問題意識に引きつけるかたちで、かつて安彦の考えていた「作画システム」の先進性を褒めちぎる。だが、安彦が監督を務めた「作品の出来」そのものには触れないのだ。
あくまでも、その作品での「作画」や「作画の統一性(を支える制作システム)」を褒めるのであって、「作品そのものの出来」については、触れないのである。
言うまでもなくこれは、安彦の、監督作としての代表作である『クラッシャージョウ』や『巨神ゴーグ』などが、安彦良和のキャラクターが「ほとんどそのまま動いている」という点で、当時として「作画的には、画期的な出来」であったのは事実でも、ひとつの作品として(作品の総合的な評価として)は「凡作」だったためである(そしてこれは、ずっと後の、アニメ版『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』も同じことだ)。
『クラッシャージョウ』や『巨神ゴーグ』が引き合いに出されるのは、いつでも「作画レベルの高さ」の問題であって、「一般の映画ファンが見ても面白い作品」になっている、という話ではないのである。
だから私は以前、安彦良和の作品について、次のような厳しく総括している。
つまり、本書で語られている、井上俊之と高瀬康司の問題意識というのは「作画レベルを、一定の水準以上に保ちつつ、演出家(監督)の演出意図に忠実な作品に仕上げるための制作体制」をいかに確立するか、というレベルに限定されたものであって、「良い映画」を作るための問題意識そのものではないのだ。
言い換えれば、監督が「映画作家として無能」なら、その「演出意図」をいかに忠実に、優れた絵に写したところで、作品そのものは(見た目は素晴らしい)「凡作」に終わらざるを得ない、ということなのである。
もちろん井上としては、アニメーターという「職分」の限界として、そこまでは踏み込まない、ということなのかもしれない。
しかし、あくまでも「作画」面において、より「完成度の高い作品」にするための提言に止まろうとするからこそ、アニメーター出身のアニメ監督である山下清悟に、
と言わせてしまうことにもなるのである。
そして、こうしたことから見えてくるのは、井上・高瀬の考える「効率的に高い作画レベルを保つための、新しいレイアウト制」というものの根底にあるのは、「上からのコントロール欲求」なのである。
つまり、「描ける(上手い)アニメーターが、監督の意を受けて、それ以外の(以下の)アニメーターの仕事を、いかに効率的にコントロールしていくか」という、きわめて「エリート主義」的な問題意識なのだ。
「言うまでもなく、アニメというのは集団作品である」と、これまでは語られてきたのだが、本書で井上が強調しているのは、「上手いアニメーターが、下手なアニメーターの尻拭いをするかたちになっている現在の制作システムでは、優れたアニメーターに負担がかかりすぎて、どうにも無理がある」ということであり、それを「やんわりとした表現に言い換えているだけ」なのだ。
たしかに、どんな職場でも「有能な人もいれば無能な人もいて、無能な人の尻拭いを有能な人がしなければならず、有能な人はオーバーワークになりがちで、ウンザリだ」というような現実はあるだろう。
それでも、頭数として使わないわけにはいかないから無能な奴も使ってはいるけど、そういう役立たずに足を引っ張られないで済ませられるシステムを、いかに構築するか、というのが、二人の問題意識なのだ。
井上が対談の中で、作画レベルの話として何度か口にした「へこみを均して、できるかぎりデコボコを無くす」とは、そういう意味なのである。
そしてこれは、例えば「産休育休に対する否定的なホンネ」と、近親的な意識でもあろう。
井上は対談の中で「キャラクター設定に似せようともしていない原画を、平気であげてくる者がいる」とか「上がってきた原画を、結果として作画監督が全部修正したとしても、そんな使えない原画を上げてきた原画家にも、一枚なんぼの規定の料金が支払われる」などとも漏らしている。
そりゃあ、作画監督が修正を入れたり、描き直したりしないで済むような原画をあげてくれるアニメーターと、使い物にならない原画をあげてくるアニメーターに、同じような作画料を払わなければならないというのは、井上が払うわけではないとしても、腹立たしい「現実」であるというのは、よくわかる。
しかし、その反動として「エリートによる完全管理システム」の構築を構想するという心理には問題があるし、またそうしたシステムの構築だけで、良い作品が作れるというわけではない、というのも明らかなことなのだ。
例えば、昔のテレビアニメに比べると、昨今のテレビアニメの「作画レベル」の高さは、比較を絶したものがある。にもかかわらず、昔のほとんど動かない(作画枚数の少ない)「電気紙芝居」の方が、面白い作品が「多かった」とは言わないまでも、面白い作品が「少なくはなかった」という現実は、いったい何を意味するのか?
そのことを、「作画」という「セクト的なこだわり」からいったんは離れて、考えるべきなのだ。
現在のアニメ界を取り巻く情勢では、「デコボコはあっても、面白い作品」つまり「当たって傷んでいる部分はあっても、そこ以外は甘くて美味しいリンゴ)」は許されず、「見かけだけはピカピカだが、実際に食べてみると、さほど美味しくも甘くもないリンゴ」を作らざるを得ないという「現実」があって、その現状そのものを否定する(突き崩す)のは容易ではないのだろう。
だが、だからと言って「見かけを磨き上げるシステム」の構築を目指すだけでは、良い作品は生まれない。
「金と人材をふんだんに注ぎ込んだ作品」は、たしかに「見栄えがして、作画的に圧倒される作品」にはなるだろうが、それが「映画としての名作」になることなど、めったにないのだという現実を、今の現場にいる井上にも、そして「方法論」の問題に興味が集中しがちな高瀬にも、もう一度「一般的な映画ファン」の目線にまで立ち戻って、考えてみてほしい。
二人が真摯に「日本のアニメの未来」を考えているというその気持ちを疑うものではないけれど、今のシステムを宿命的なものとして肯定した上で、自分たちの限られた視点(虫の視点)だけを根拠に、そこに修正を加えようとするのは、不十分な絵の上に、偏頗で歪んだ絵を上書きすることにしかならない怖れだって、十二分にあるのだ。
本書の対談に見られる、「ざっくばらん」なようでいて、じつは「先輩後輩の力学関係」内での、職人の世界らしい語らいの問題点を、彼ら自身、気づくべきだ。
「虫の目」だけではなく、ぐっと退いて見る「鳥の目(業界の事情を忖度する必要のない者の、客観的な目)」をも併せ持つべきてあり、それによる大局観を持った上で、そこから業界の現実へと、寄っていくべきなのである。
(2024年5月8日)
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