見出し画像

破滅寸前の作家を救う最も効率的な方法

落谷ハテル

「全くダメだね。もう取り付く島もないって感じだよ。こっちがいくら言っても聞く耳さえ持たないんだ。小説なんか書かねえの一点張りだ。おまけにもう俺からは金は搾り出せねえなんて抜かしやがる。あいつ俺たちをなんだと思ってるんだよ。あいつをここまで育ててやったのは俺たちじゃねえか。なのにあいつは俺たちのいうことなんか聞かないで遊んでくだらない雑文なんか書いてるんだ。俺たちは別にあいつで金を稼ごうってわけじゃない。ただあいつにまともな小説を書いてもらいたいんだよ!あいつは結局デビュー作に匹敵するものを何一つ書いていない。書けば書くほどクオリティは低くなって今じゃまともに話さえ作れなくなってるじゃねえか。このままあいつをほっといたら絶対に破滅する。今どき無頼派じゃあるまいし死んだって笑われるだけだぜ!」

「まぁ、お前が奴を思う気持ちはわかるが、あいつはもう終わりだと思うぜ。最近のあいつのTwitter酷いもんな。『堕落には果てがないと俺はデビュー作で書いたけど、実はあったんだよ。堕落の果てってやつは。今、俺はその目の前にいるんだ』とかかまってちゃんアピールのつもりか訳の分からないこと書いて。お前ももう諦めろよ。あいつはこのままフェイドアウトしていくだけさ。復活なんてしないよ」

 某文芸誌の編集者の田代と清水ががさっきから異様に重苦しい顔で話をしていた。彼らの話に出てきた作家とは落谷ハテルのことだ。落谷ハテルは五年前に処女作『果てしなき堕落』で大スキャンダルを巻き起こしたいわゆる破滅型の作家である。その処女作の内容は作者の学生時代のエピソードをほぼそのまま書いたものだが、その合コンを繰り返し、そこで出会った女性たちに錠剤と酒を飲ませて殆どレイプに近い形で乱交しまくり、果てはクラブでコカインを打ってオーバードーズで死にかけるといったスキャンダラス満載の内容の小説は文芸誌に掲載されると当然批判が巻き起こった。しかしその堕落を描いた力強い描写と、堕落の底から救いを求める真実の叫びは決して少なくない理解者に支持されて、彼は掲載文芸誌の新人賞と日本でもっと有名な文学賞であるA賞を同時受賞した。

 そのことがいけなかったのか、はたまた処女作で才能のすべてを出し切ってしまったのか、彼はその後処女作の同工異曲のような作品しか書けなくなてしまった。二作目の『破滅交響曲』はまだ読める作品だが、三作目以降はあからさまな処女作の焼き直しだった。

 しかし久しぶりの純文学の人気作家であり、かなりのイケメンであった落谷ハテルをテレビが放って置くはずがなく、彼をワイドショー番組のコメンテーターとして度々出演させたが、なんと彼はそのイケメンの顔とその余りにも過激なコメントで大人気になってしまったのである。彼にはテレビから番組出演の依頼が後を立たず、彼は請われるままにテレビに出演してちょろっとどうでもいコメントをしては原稿料の何倍もの金を手に入れた。こうなるともう苦労して小説なんか書いているより、A賞作家のブランドを使ってテレビで小遣い稼ぎをしたほうがいいに決まっている。彼はそう考えたのか知らないがだんだん小説を書かぬようになり、エッセイなんかを出してお茶を濁し馴染めた。あのバカ売れしたエッセイ集『破滅へのXYZ』などもそのひとつだが、中身はハッキリ言ってどうでもいいものだ。このエッセイ集は処女作の『果てしなき堕落』の頃の回想がメインに収められているが、どのエッセイにもあの処女作の異様な緊張感はなく、全編脳天気な調子で書かれ、最後はあの頃は若かったなあ~! などと噴飯ものの文章で締めくくられる代物だ。

 だがそんな落谷ハテルもテレビに飽きられてきた。業界人たちはどうでもいいコメントしかしない彼より気の利いたコメントをする文化人に関心を移し始めていた。落谷の本も売れなくなってきた。しかも文章すら満足に書けなくなってきた。彼も危惧を感じたのか、もう一度注目されようとテレビで薬ネタをぶっちゃけまくったが、それがかえってテレビから彼を遠ざける結果になってしまった。もはや文化人としては賞味期限切れで、小説家としては干物みたいになってしまった彼は完全に自暴自棄になってしまった。クラブで半グレとAV女優をめぐって乱闘沙汰を起こしたり、アルコール中毒で病院に担ぎ込まれたり、もう昔の太宰治そのままに破滅への道をまっしぐらに駆け下りていた。

若き編集者

 田代は最近の落谷ハテルの堕落しきった現状を思うと、彼と初めてあった頃を思い出してそのあまりの変わりように唖然とするのだった。新人賞の応募作の中から落谷ハテルを見つけたのはこの田代だった。彼はその応募作を読んで読んでただならぬ才能だと思った。そしてこの小説が世間の注目をたちまちのうちに浴びるだろうとも確信した。彼はすぐさま落谷ハテルに連絡を取り彼に会った。実際会って見ると小説のイメージからは想像もできないぐらい普通の大学生だった。だが彼と話してみるとその言葉の節々に才気の迸っていた。田代はそんな落谷を見て時代の先を走る人間とはこういう人間なんだろうと感動したのものだ。田代の予測は通り、落谷ハテルのデビュー作はいきなり大ベストセラーとなった。だが当たりすぎて過剰に注目されたことで却って落谷ハテルは作家としての精進を怠り、ついにその才能を無駄に浪費してしまったのだ。もう少し自分が彼についていてやっていればこんなことにはならなかっただろう。だがまだ遅くはない。ハテルはまだ終わっちゃいない。

 そう信じた田代は落谷ハテルを苦境から救い出そうと何度もコンタクトを取った。しかし落谷からは「あんたらもいろいろ大変だろうが、人を利用して金を稼ごうとしたって無駄だぜ!」というつれない返事が来るだけであった。田代は一人ではどうしようもなく同僚の清水に相談したのだが、しかし清水はそんな彼に落谷ハテルを諦めろと諭すだけだった。

「お前が見つけた天才はもう死んだんだ。今生きているのはあいつの才能の抜け殻さ。自殺したきゃ勝手にすればいいのさ。どうせ作家としてはもう死んでるんだから」

 だが田代はそれでも諦められなかった。どうしてもあいつをもう一度作家として輝かせてやりたい。あいつに傑作を書かせてやりたい。あいつは絶対にまた書けるはずなんだ。と固く信じていた。ではどうすれば書かせることが出来るのか。

 と、そこに今年からこの編集部に配属されることになった若い女が田代たちの前を通りかかった。田代と清水はその女のために道を開けて一礼して彼女を通すとしばしその後ろ姿を眺めた。田代はこの若い女について心当たりがあった。

 この女は岡崎聡子という名で、たしか一昨年の出版社のパーティーで落合ハテルと話し込んでいたのを見た覚えがある。岡崎は昨年まではファッション誌に配属されていて、そこで主にブックレビューを担当していたが、その取材記事で落谷とは何度か会っていたらしい。あの頃のハテルは少しはまともだった。たしかにテレビに出てちやほやされてグラビアアイドルと浮き名を流しまくっていたが、それでもまだまともな文章は書いていた。あの時落谷が女と話し終わった後、田代は彼に声をかけたが、その時落谷ハテルは興奮した調子でこう喋っていた。

「あの女やべえよ! あのツンと上がった尻、マジでガン突きしたいぜ!」

特集企画

 回想に耽っていた田代に誰かが声をかけてきた。ハッとして声のする方を見ると先程通り過ぎたはずの岡崎が彼のそばに立っているではないか。彼女は田代と清水に話しかけてきた。

「あの、今話してるのって落谷君のことですか?」

 そうだと二人は頷いた。すると岡崎は腕を組みながらやっぱり、と何度もうんうん言いながら呟くと、わざとらしい笑みを浮かべて二人にこう言った。

「私、実は持ち込もうとしてる企画があって、それに落谷君も参加してもらいたいなあって思ってて、それで彼の連絡先を知りたいんですけど、田代さん、確か落谷君の担当でしたよね? よかったら教えてくれませんか?」

 田代は岡崎の話を聞いて何事かと首を捻ったが、とりあえずどういう企画を持ち込もうと思っているかを聞くだけ聞いてみた。

「はあ、それでどんな企画を持ち込むつもりなんですか?」

「再来月号で田山美実先生の特集やるじゃないですか? そこに落谷君も入れた七人の若手作家との対談を入れたいんですよ! タイトルはズバリ『連続対談・田山美実と七人の若き男たち~田山美実が若手に作家の極意を教える!』って、これって良くないですか? この企画が載ったら絶対に部数伸びますよ!特に落谷君なんか田山先生と作風結構似てるじゃないですか? 田山先生と落谷君のガチンコ対決を期待している読者も結構いると思うんですよねえ~」

 田代と清水は岡崎の話を聞くと大きくため息をついて肩を落とした。さすがファッション誌上がりだ。文壇の事情など何一つわかっていない。田山美実とハテルを対談させるだって? この女はハテルと田山美実の因縁を知らないのか?

因縁

 田代は落谷ハテルがA賞受賞した時の事を思い出して暗い気持ちになった。A賞の選考会で、唯一人落谷ハテルの『果てしなき堕落』を全面的に否定したのはこの田山美実であった。他の選考員はひどい内容だが、その内容は衝撃的であり、ある選考員などかつての村上龍のデビュー作にも匹敵すると評価したのだが、田山美実だけは、こんなものは龍さんのとは比較にならない、この落合クンって子はただ起こった出来事をダラダラと書いてるだけ。確かに書いている内容は衝撃的にみえるけど、やってることはひたすら女の子を侮辱して、堕落に落ちたとか泣きべそ書いて自分を慰めてるだけじゃない。多分この子には想像力も文章力もあんまりないから二作目以降は期待できないんじゃないの? というわけでこの作品は今回の候補作の中で間違いなく最低。私は田和屋紗里さんの『アスパラガスなんて大嫌い』のほうがずっと良いと思います。と選評に書いた。

 その評を読んだ落谷ハテルは大激怒し、このクソババア! てめえババアだから俺に犯されねえと思って好き勝手なこと書きやがって! 俺をナメんなよ!俺はババアでも平気でレイプできる鬼畜なんだぜ! テメエの乾ききったホールにアスパラガスでも何でも打ち込んでやるぜ! と息巻いて田代たちが止めるのも聞かず、強姦の準備にと精力剤とクスリをガンガン仕込んでA賞の受賞パーティーに向かったのだが、幸いな事に田山美実が欠席していなかったので事なきをえたのだった。

 それから落合ハテルは田山を猛烈に憎むようになり、事あるごとにあのババア! 会ったら絶対にレイプしてやるとわめき、そして田山が予想したとおり小説が書けなくなると、もう田山の名前を聞いただけで発狂するようになってしまった。

 田代は首を振って岡崎に向かって言った。

「岡崎さん、それは無理ですよ。ハテルがそんな企画に乗るとは思えませんね。あなたはずっとファッション誌やってたからわからないだろうけど、文学の世界にはいろいろしがらみがあるんですよ」

「えっ、しがらみってなんですか? しがらみだったらファッションの世界にだってありますよ! そんなもの文学だけの話じゃないでしょ! あのですね、言い方は悪いけど、そうやって自分たちを特別な存在であるかのように勘違いしてるから誰も文芸誌なんか読まなくなるんですよ! これからはもう変なしがらみなんか捨てて、積極的に今の若い子達に向けてアピールするような企画を出していかないとこの雑誌自体廃刊になっちゃいますよ! という事で落谷君に連絡したいんですけと、アドレスか電話番号教えてくださいよ!」

 全くどこまで脳天気な女だろう。田代と清水は岡崎に呆れ果てた。しかしこの女は編集者として極めて優秀で、コミュ能力もあるから、上層部の大のお気に入りであった。まだ二十代半ばなのに先の配属先のファンション誌では次々と企画を成功させ、その見事な仕事ぶりを見た出版社の上層部が彼女を見込んで、この赤字続きの文芸誌を立て直してもらおうと、岡崎を文芸誌に異動させることにしたのである。だがいくら優秀な編集者であるとはいえ、彼女はあまりにも文壇の事情を知らず、そしてまだ若いため人間というものが見えていない。こんな根っからのポジティブシンキングが文芸誌なんかでやっていけるのだろうか。田代は岡崎に向かって言った。

「あの、岡崎さん。あなたの言ってることは最もだと思うけど、だけど田山先生とハテルはA賞以来の犬猿の中ですよ。その二人を同席させることなんてまず無理ですよ」

「へえ、そうなんですか。昔彼と話した時そんなこと言ってなかったけど。でも田山先生が昔のことを根に持ってるとは思わないな。田山さんとはファンション誌で取材したときからお付き合いしてるんですけど、あの人、見た目と違って凄いいい人なんですよ。良く私を気遣ってくれて岡崎ちゃんは本当に可愛いよねって褒めてくれるし、私が体の線に気になってるって相談したら、じゃあ私が世話になってるパーソナルトレーナー紹介してあげるって言ってくれたりしてホント世話好きのいい人なんだから」

「だけどハテルの方が……」

 田代がそう言いかけた時だった。岡崎がいきなり目を剥くと田代の言葉を遮ってこう言ったのだ。

「だから、落谷君のアドレスと電話番号を教えてって言ってるんじゃないですか! 私は正直彼と田山先生に何があったか知りませんけど、いつまでも昔のことをグダグダ言ってるのは人間としてどうかと思いますよ。私、彼に会ったら言ってやるつもりです。田山先生と腹を割って話し合えって」

 この岡崎のあまりに能天気な物言いに呆れた田代は、彼女に向かって落谷ハテルの現状をありのまま話すしかないと思った。そうすればいくらポジティブシンキングに凝り固まった彼女でも落谷ハテルの事は諦めるだろうと考えたからである。

絶望

 田代は岡崎に落谷ハテルの現状を全て話した。落谷がとうとう文章すらろくに書けなくなり、その憂さを晴らすためにクラブで遊び呆けてトラブルを起こしまくっていること。自分たちがそんな彼を立ち直らせようといくら説得しても聞く耳を持たないこと。さらに田代はこんな事まで話した。落谷がA賞受賞以降やめていたクスリにやた手を出し始めたかもしれないこと。彼は岡崎に向かって最後にこう言った。

「ねえ、わかったでしょ? 今のハテルはあなたの企画に参加できるような状態じゃないんだ。だからハテルの事は諦めてくれ」

 岡崎は田代の話を間ずっと目を見開いて信じられないといった表情で聞き、そして田代の話が終わると俯いて黙り込んだ。田代はショックにうなだれる岡崎をみて、これでこの女もハテルを諦めるに違いない。お嬢さん、ここはファッションみたいな甘ったれた世界とは違うんだよ。人間というものが全て曝け出されてしまう文学の世界なんだよ。だからもう落谷ハテルの事は諦めて文学から元のファッションの世界にお帰りなさい、と彼女に肩でも叩こうとしたが、その時、岡崎は急に顔を上げて田代と清水をカッと睨むと二人に向かったこう言ったのだった。

「落谷君がそんなに大変な事になっているのにあなた達は一体何をしていたの? どうして彼を助けようとしなかったのよ! 酷い!ひどすぎる! 自分の担当の作家がスランプに苦しんでいるのに、どうせあなた達はそんな落谷君にその場凌ぎのおべんちゃらでも言って、何もしないで彼が立ち直るよう神さまにでもお祈りしてただなんでしょ! どうして本気で落谷君に手を差し伸べなかったのよ!」

 岡崎の突然の逆ギレに、田代とそばで二人の会話を聞いていた清水は唖然として岡崎を見た。岡崎はその大きな目で田代と清水を睨みつけていた。田代は目の前の岡崎に対して自分でも押さえきれないぐらいの怒りを感じた。彼は岡崎に向かって吐き捨てるように言った。

「アンタになにがわかるって言うん俺がハテルを立ち直らせるためにどんだけの事をしたと思ってるんだ!大体アイツをA賞受賞させるまで育ててやったのはこの俺なんだ! それからあいつの尻拭いまでやった。あいつが女学生から強制わいせつだって訴えられかけたときも俺は被害者を無理やり丸め込んで訴えを取り下げさせたんだ! ハテルが書けなくなった時も俺はアイツに向かって『お前は小説が書けなきゃただの人間のクズだ。お前のレーゾンデートルは小説を書く事なんだよ! いい加減夢から目覚めろよ! いいか? そうやって遊び呆けているうちにお前の中の才能はコーラみたいに抜けちまうんだよ! 初めて小説を書いた頃を思い出せよ! 今ならまだ間に合う! ハテル、もう一度小説を書くんだ!』ってヤツを思いっきり怒鳴りつけてもやった! でもダメだった! アイツは俺の説教さえ聞かなかった! アイツは一番の理解者の俺の言葉さえ届かなかったんだ!」

 田代はこう言い終わると目の前の岡崎をキッと睨みつけた。もう遠慮などしなかった。どうだこれで全てがわかっただろ。お前如きファッションバカが今のハテルに会ったところで相手にすらされんだろう。田代は再び俯いた岡崎に近寄ってもうハテルのことは諦めろと声をかけて肩を叩いた。しかしその瞬間岡崎はカッと目を見開き肩に置かれた田代の手を振り払うとハイヒールを履いた足を踏み鳴らして田代を怒鳴りつけたのだ。

「それで彼を助けたつもりなの? そんなことして落谷君が助かるとでも思ったの? 何が小説書けよ! そうやって追い詰めたら彼はますます荒れるだけじゃない! あなたそれでも落谷君の担当なの? 自分が担当してる作家が苦しんでる時に能天気に小説書けたなんて! あのね、あなたたちがどう思ってるか分からないけど小説はお薬じゃないのよ! あなたたちは致命的な勘違いをしているのよ! 田代さん、あなたの話を聞いてよくわかったわ! あなたじゃ到底落谷君は救えないって! 落谷君どうしたら救われるか。彼が何を求めているか。それは体を張って生きる活力を教えてあげることよ! もうあなたたちなんかに落谷君を任せられないわ! これからは私が彼の担当になる! 今から編集長に直談判してやるわ! 私を落谷君の担当にしてくださいって!」

「そんなこと無理に決まってるだろ!大体ファッション雑誌上がりのお前に作家の担当なんてできるわけないだろ!編集長だって認めるわけないさ!」

「言ってみなきゃわからないでしょ!とにかくアンタなんかに落谷君の担当を任せてられないわ!私が、この私が落谷君を地獄から救ってあげるわ!」

「勝手にしろ! このポジティブバカ女め!」

 田代は去ってゆく岡崎の背中に向かってこう叫んだ。そして自分をなだめる清水に向かって独り言のようにつぶやいた。

「どうせ編集長があんなバカ女のいうことなんかまともに聞くわけないさ」

新担当岡崎

 その翌日、出社した田代は岡崎が何故かボストンバッグ片手に突っ立っているのを見かけた。彼はその岡崎に近寄ると憎さげにこう言った。

「どうしたんですか岡崎さん。ボストンバッグなんか持って。会社を辞めるつもりですか?」

 岡崎は田代を見てニコリと微笑んだ。そしてボストンバッグ片手につかつかと田代の下に歩み寄ると自信満々な顔で彼に言った。

「あの、田代さん。落谷君のことですけど、昨日編集長を説得して彼の担当を私に替えてもらったんです。あなたには残念な話だろうけど、でも編集長も私の話を聞いて、君だったら落谷君にもう一度書かせる事ができるかも知れないって言ってくれたんです。ということで、私、早速彼のところに行ってきます。彼の住所と電話番号は編集長から聞いたのでご心配なく」

 田代は彼女が落谷の新しい担当になったと聞かされ冗談かと思ったが、岡崎のその自信満々の態度を見てすぐに彼女の言っていることが本当であることを察した。彼はたまらず岡崎に向かって叫んだ。

「おい、いきなり何言ってるんだ! ハテルがお前なんかの説得なんか聞くわけ無いだろ! いい加減におままごとはやめろよ!」

「おままごとなんかじゃないわ! 絶対に私が彼に小説を書かせるんだから!」

 岡崎は、田代に向かってこう言い放つと持っていたボストンバッグを突き出した。そしてボストンバッグを田代に見せつけながらもう一度念を押すように言った。

「どんな手を使っても絶対に小説を書かせてやるわ!」

 田代はそのボストンバッグを突き出した岡崎に恐怖すら覚えた。そしてこの若い彼女がどうやって次々と自らの企画を成功させたか、その秘密を垣間見たような気がした。この女、自分の企画を通すためなら自分の持ってるものをすべて使うんだな。まさかハテルもそのやり方で……。田代は編集室から出ていく岡崎を目で見送ると、編集長のところに慌てて駆けつけた。そして編集長に向かって言った。

「どういうことなんですか! いきなり自分を担当から外すなんて!」

 編集長は田代の剣幕に一瞬たじろいたが、やがて冷静になり目の前に立っている田代をこう言ってなだめた。

「君が落谷のために尽くしてたのはよく分かるよ。だけど岡崎さんがどうしても落谷ハテルの担当になりたいって言って聞かないんだ。じゃなきゃ上層部に言って自分を文芸雑誌の編集から降ろしてもらうとかまで言い出して。彼女がうちの会社の上層部のお気に入りだからね。彼女を怒らせたらただでさえ赤字つづきのうちの雑誌はどうなるかわからない。もしかしたら大々的な人事異動。最悪の場合にはこの雑誌自体が廃刊ってことになるかも知れないんだ! 昨日君は彼女と揉めたらしいが、今後はそういう事は気をつけるんだね。君自身のためにも」

「だからといっていきなりハテルの住所を教えることはないでしょう! 彼女はボストンバッグまで持ってハテルのところに出かけてしまいましたよ! 彼女に何かあったらどうなるんですか! いや彼女だけじゃない! 彼女の愚かな行動のせいで我々まで被害を被るかも知れないんだ!」

「君は自分が見出した作家を信じられないのか! 君はあの男が見境なく女を襲う人間だと思っているのか!」

「だけど、今のアイツは、いや……昔からアイツは! 危険ですよ! 早く彼女を呼び戻さないと!」

「大丈夫だ! 彼女を信じるんだ! 安心して岡崎君にすべてを任せるんだ! 私は彼女にすべてを任せた! 今後何があってもそれは彼女がすべてやり遂げてくれるはずなんだ! 何かあったら彼女が自分で責任をとるさ!」

 田代はこの事態に頭を抱えた。どうしよう、どうすればいいのだ。ハテルと岡崎に何かあったら下手したらこの出版社全体を巻き込む大惨事になってしまうかも知れない! しかし担当を外された彼にはどうすることも出来なかった。

破滅寸前の作家の部屋

 岡崎聡子は編集長から落谷ハテルの電話番号を渡されると、早速落谷に電話をかけた。しかし当然落谷は見知らぬものからの電話には出なかった。まあ当たり前である。岡崎は自分の電話番号を落谷に教えていなかったし、教えていたとしても彼はすっかり忘れているだろう。岡崎と落谷はあの一昨年の出版社のパーティーの件以来全く会っていなかった。岡崎はそれから時折落谷の名を思い出して雑誌の特集にエッセイを書いてもらおうと業務用のメールで落谷に執筆の依頼したが梨の礫だった。

 彼女は落谷に交渉するために、直接彼の住んでいるマンションに乗り込むことにした。向かう途中、手に持ったボストンバッグを持ち上げてしばし見つめた。彼女はボストンバッグをみながら、彼を説得できるまで帰らぬと自分に喝を入れると、足早に落谷の住んでいるマンションの方へと向かった。

 落ち目の作家とはいえ、さすがベストセラーを立て続けに出した作家だけの事はある。落谷ハテルの住んでいる場所は都内の一等地にある高級マンションだった。当然玄関はオートロックで落谷が中から鍵を開けてくれないことには入れはしない。彼女は玄関の前で慌てて髪を整えて笑顔を作るとナンバーキーに落谷の部屋番号を押して反応を待った。反応がない。再度押しても部屋からはなんの反応もなかった。そうして何回かやってみてもなんの反応もないので帰ろうとしたが、その時入り口のドアから住人がやってきてナンバーキーに自分の部屋番号を押して中に入っていくのを見た。彼女は開いたドアを見た瞬間これはチャンスだと思った。もしかしたら彼は中に居るかも知れない。しかし私を見て恐れて出てこないのかも知れない。だけど会って私の気持ちを話せばきっと彼にも伝わるはず。岡崎はこう決心して閉まりかけのドアに飛び込んで無理矢理入ってしまった。

 エレベーターの中で住人と一緒になったが特に怪しまれる事はなかった。怪しまれるはずがなかろう。自分は物取りではなく雑誌の編集者なのだから、だけど原稿はいただいてゆくけどね。と岡崎はエレベーターのなかでほくそ笑んだ。やがてエレベーターは落谷の住んでる階に着いた。彼女は再び手に持ったボストンバッグを見て決意を固めた。やっぱり彼には必要なのよ。何かを発散させるものが。落谷君、私があなたを助けてあげる。私が全身であなたを地獄から救い出してあげる。あともう少しよ。彼女は一歩ずつ落谷ハテルの部屋に近づいてゆく。後は彼に私を受け入れさせるだけだ。

 岡崎は落谷ハテルの部屋の前に着いたが、ドアは半開きで隙間から見た部屋の中は完全な闇だった。カーテン等で部屋を全て閉め切っているのだろうか。外界から完全に自分を遮断するために。ドアが開いているということは落谷ハテルはいる可能性が高い。

 彼女はベルを押して落谷が出てくるのを待った。しかし誰も出てこないし、部屋からはなんの反応もない。彼女は妙な胸騒ぎを覚えて、思わずドアの隙間から玄関に入ってしまった。玄関には靴が乱雑に置かれていて足の踏みどころもない。彼女は落谷の靴をどかしてスペースを確保すると靴を脱いで中へと入った。岡崎は電源スイッチの場所が分からず手探りで廊下を進んでいったが、やがて正面に両開きの扉が見えてそこで立ち止まった。どうやらここが行き止まりのようだ。彼女はここまできて急に怖くなってきた。仕事の依頼とはいえ、たった一度話しただけの男の部屋に無断で侵入するなんて。落谷が自分を見たらなんというだろうか。しかし彼女はこれも仕事のため、そのための試練なのだと思い直し、思い切って扉を開けた。

 部屋は真っ暗闇だった。恐らくリビングが何かだろう。かなり広い部屋だと察せられるが、今岡崎の目の前にあるのは夜よりも暗い暗黒だけだ。彼女は壁にかけていた左手に電源のスイッチらしきものの感触を感じた。おそらくこれは電源スイッチだろう。彼女は勇気を出してスイッチを押した。

 スイッチを押すと天井のライトが一斉に点いて部屋を照らし出した。岡崎は照らし出された部屋を見てゾッとして立ちすくんだ。窓は黒い厚手のカーテンで覆われ、壁は葬式の鯨幕のように白と黒で交互に塗られ、その壁いっぱいになぐり書きのように何かが書かれていた。そのなぐり書きが書かれた四方の壁の中心にはそれぞれ遺影のつもりか、額縁に飾られたモノクロの落谷自身の犯罪者みたいに撮られた大きな写真がかけられていた。視線を床に移すと敷かれた真っ黒なカーペットには注射器と味の素みたいな白い粉末が至るところに散らばっているのが見えた。そして部屋の中央のソファーの下に金髪で全身黒づくめの男が仰向けに倒れていた。

 ソファーの下に倒れている男を見て岡崎は一抹の不安を感じながらゆっくりと近づいた。彼女は男の目の前に立って、男が寝ているだけだったのを見て安心した。そしてじっくりと男の顔を見た。その顔は日頃の不摂生のせいで肌が荒れていたが、それを除けば落谷ハテルは三年前とさほど変わっていなかった。しかしその苦痛に歪んだ表情はこの三年間彼が味わった苦悩をあからさまに示していた。近づいてその顔をよく見ると頬に涙の跡があった。落谷は昨夜一晩中泣いていたのだろうか。今の自分の現状の惨めさに声を上げて泣きくれたのだろうか。こうして寝ている落谷の無防備な顔を見ていると、可愛らしく思え、この自分より二歳年下の男に何だか母性本能のようなものさえ感じてきた。この堕落と絶望に沈みきった男を救わねばならない。彼女は手に持ったボストンバッグを持ち上げると、自分の足元でひと時の安らぎに眠る落谷ハテルを救おうと固く誓った。

 しかしこの悪趣味な壁の模様とデカデカとかけられた遺影みたいな写真はなんだろうか。その周りの異様に達筆な筆で書かれたおどろおどろしい言葉の羅列はなんだろうか。岡崎は顔を上げて壁を眺めると嫌悪のあまり心の中でこうつぶやいた。おそらく落谷自身が書いたであろうそのなぐり書きは筆のような太い筆跡で壁いっぱいにこんな言葉が書かれていた。『堕落』『破滅』『絶望』『地獄』『自殺』『中絶』『覚醒剤』『阿片』『ポン中』『中毒死』『無頼派』『破滅型』『ダス・ゲマイネ』『堕落論』『人間失格』『我、ここに果てる』

破滅寸前の作家を救う最も効率的な方法 その1

 岡崎聡子はそうしてしばらく壁を眺めていたが、後ろから突然物音がしてビクッとなった。後ろには人の気配がする。落谷が起きたのだろうか。彼女は後ろを振り向こうとしたが、その時後ろから怒鳴り声が飛んだ。

「テメエ、誰だよ! 勝手に人の部屋入りやがって! ストーカーか? あいにくテメエみたいなブスとエッチする気なんかねえんだよ! さっさと出ていけコラ!」

 突然の怒鳴り声に驚いた岡崎は恐る恐る後ろを振り返った。振り返るとそこには目を血走らせた落谷ハテルが立っていた。岡崎はこの状況で落谷本人を目の前にしてなんと言い訳しようか言葉が出てこなかったが、落谷が彼女を見るなりアッと声を上げてこう聞いてきたのだった。

「アッ、アンタあの……。な、名前、なんだっけ?」

 落谷の言葉に冷静さを取り戻した岡崎は髪と服を素早く整えて答えた。

「お久しぶり。二年ぶりね。あの出版社のパーティーの事覚えてる? 私、岡崎聡子よ。今度文芸誌に配属になってあなたの担当になることになったの。よろしくね」

 岡崎の話を聞いて落合はあまりに意外な展開に驚いたが、目の前の彼女を見ながら考えを巡らせると落谷はチッと舌打ちをした。出版社の考えそうなことだ。いくら説得しても俺が執筆しないから、今度は色気を使って俺をたらし込もうとしてるんだ。こんな文学とは門外漢の女をわざわざ呼び寄せて俺の担当にさせるとはな。落谷は岡崎の事はおぼろげに覚えていた。たまたま挨拶ついでに話しているうちに盛り上がって、彼はこの女イケると思い、一気に彼女を攻めたが、岡崎は巧みに落谷の誘いを交わしうまく逃げられてしまったのだった。落谷はその岡崎の去りゆく姿だけはハッキリと覚えていた。特にその腰からつき上がった尻のラインのヤバさは今も時たま夢に見るほどだ。彼は目の前の岡崎に向かって嘲るような笑みを浮かべ、吐き捨てるように言った。

「へっ、アイツラもゲスなこと考えたものだぜ。まさか女を使うとはよ! 何がニ年ぶりだ! アンタも気の毒だなあ! 文芸誌なんかに配属されたばっかりに俺みたいな落ち目のクズ作家の執筆依頼なんかさせられるんだもんなぁ! 無断侵入までしてさ。そんなにまでして俺に小説書かせたいのかよ! だけど残念だな。俺は頼まれたって書きゃしねえぞ! 泣いたってダメだぜ! 俺は鬼畜だからな! いくらテメエが泣こうがその髪ひっ掴んでエレベーターに放り投げるだけだ!」

「あいにくだけど私は仕事の依頼のために泣き真似なんかしないし、誰かに命令されてここにきたわけじゃないのよ。今回ここに来たのは私が持ち込んだ企画にあなたが参加してくれるようお願いしにきたの。あなた田山美実さんって知ってるでしょ?」

「田山美実だぁ!」

 落谷は田山の名前を聞いて思わず叫んだ。久しぶりにその名前を聞いたが、やはりその名前を聞いただけで虫唾が走る。この女俺と田山のババアことについて何も聞かされてないのか? 

 岡崎は落谷の反応を見てやはり田代の言っていたことが正しかったことがわかった。落谷は田山の名前を聞いた途端さっきまでの冷笑ぶりはどこへやら頬を強張らせ全身を震わせているのだ。彼女はそんな落谷を見て話を続けた。

「その田山さんの特集をうちの雑誌で再来月にやるんだけど、その中で田山さんと若手の男性作家7人との連続対談をやる予定なの。その中にあなたも参加してもらいたいって思って。勿論私もあなたと田山さんのことは知っているわ。でもそんなわだかまりなんか捨てて、田山さんと対談してアドバイスをもらったどう? 彼女はベテラン作家だし相談相手としてうってつけじゃない。田山さんはああ見えてとてもいい人よ。正直に自分の悩みを打ち明ければちゃんと相談に乗ってくれるんだから。私が先にあなたの悩みを田山さんに話しておくから安心して……」

「テメエ、ブチ殺すぞ! わざわざ俺のところに来たと思えばそんなくだらねえ依頼するために来たのかよ! テメエの企画だあ? 連続対談だあ? 田山さんに悩みを相談しろだあ? 随分優秀な編集者ですなあ~、テメエの企画のためにわざわざ作家の部屋に無断侵入なんかしてよ。ふざけんな! 俺は慈善事業やってんじゃねえよだよ! テメエのアホみてえな企画に参加してやる義理はねえんだよ! さっさとこっから出て行け! 出ていかねえと……」

「私の企画はアホな企画じゃないし、出て行けと言われてもあなたが田山さんとの連続対談に参加してくれると言ってくれるまで出ていきませんから。大体あなた、お部屋をこんな悪趣味に飾って何やってるのよ。葬式みたいに壁を白黒に塗ったり、自分の写真を遺影みたいに飾ったり、しかも『堕落』だの『破滅』だの下らない落書きなんか書いて。そうやって惨めな自分を憐れんでるつもりなの? そんなの他人から見たらお笑いでしかないわ! おまけに味の素なんか注射して。あのね、あなた味の素を栄養剤かなんかのように思ってるみたいだけど味の素はただの調味料なのよ。それに味の素をあんまり調味料に使うと体に良くないのよ!」

「ウルセエ! このドブス! 人の部屋の趣味なんかオマエにはどうでもいいだろ! 自分を憐れむ? 他人から見たらお笑い草? テメエ何様のつもりだ! 何が味の素だ! 偉そうに説教し腐りやがって! 俺のことなんかなんにもわかっちゃいないくせに偉そうな口叩んじゃねえ! 結局テメエは俺を担ぎ出してテメエの田山美実とのなんちゃら対談ってのに参加させたいだけじゃねえか! いや、テメエは俺を利用して出世してえだけだろ! 正直に言えよ! 言ってみろよ! 私の出世のために落谷ハテル様のお力をお貸しくださいって! お前ら出版社の人間は本当は俺のことなんかどうでもいいと思ってるんだろ? 金が稼げるうちにこき使って、金がでなくなったらははいさようならだ! だけどな、残念ながら俺にはもう利用価値はねえんだよ! テメエらはカネに目がくらんでまだ俺から稼げるって思ってるけど、俺にはもう何もねえんだよ! 才能も未来も全部使い果たしちまったんだ! 本は売れなくなってきたし、今じゃ文章書こうにも一文字さえ浮かんでこねえ! おまけに小遣い稼ぎに出ていたテレビからも干されちまった! 今から思えば田山のババアの言うとおりだったぜ。あのババアはA賞の選評で俺には大した才能はねえって言ったんだ。そのとおりだった。俺はたまたままぐれで傑作を書いただけなのに、それが自分の才能のおかげだと勘違いしてのぼせ上がってたんだ! へっ、アンタもこんなクズみてえな野郎なんか関わらねえで他のところを当たれよ! 俺よりマシなやつなんかあふれるほどいるからさ!」

「そうやって自分を責めるのはやめなさいよ!」

 岡崎聡子の耳をつんざくような叫びに落谷は心臓がわし掴ま見にされる思いがした。岡崎を見ると彼女はその黒くて大きい目を開けて自分を見つめていた。彼女はボストンバッグを手にその身を震わせて仁王立ちで立っていた。彼はその自分を見透かされるような厳しい目に耐えられず思わず目をそらした。岡崎はそんな落谷をなだめるように今度は優しく語りかけた。

「私はね。田代さん達からあなたのことをいろいろと聞いてるのよ。あなたが荒れた生活を送っていることも、あなたが文章が書けなくなっていることも全部聞いたの。でこうして来てみたらあの人達の言っていることは正しかったし、実際あなたのところにこうして来たら想像以上に酷かった。だけどね。さっき寝ていたときのあなたの顔を見て思ったの。この人は立ち直らせなきゃダメだって。誰かがこの人に手を差し伸べなければ本当にこの人は終わってしまうって。だから私あなたの担当としてあなたを心から立ち直らせるために全力でサポートすることに決めたの。私と頑張ろ。私、あなたがもう一度前向きに小説を書けるようになるためだったら何でもするわ!」

「ギャハハハハハハハハハ!バカじゃねえのオマエ! 全力でサポートする? どうやってサポートすんだよ! 書け書けなんて言ったって俺は書きゃしねえぞ! どうすんだよ! どうやって俺に書かすんだよ! どう俺に書かせるんだよ、えっ!」

「だから、あなたが小説を前向きに書けるようになるためだったら何でもするって言ってるじゃない! わからないの?」

 岡崎はそう言って手に持っていたボストンバッグを突き出した。落谷は岡崎を見た。岡崎は体を震わせ口元をわななかせている。この女まさか。落谷はあのパーティーの時のさり際に見た岡崎の腰からあのつき上がった尻のラインを思い出した。彼は興奮して思わず岡崎に問いただした。

「本当だな。本当になんでもするんだな!」

「ええ、あなたがちゃんと小説を書くって約束してくれるなら」

「書くよ! 思いっきし書く、バンバン書きまくってやるよ! だから今すぐに!」

破滅寸前の作家を救う最も効率的な方法 その2

 落谷ハテルはもはや目の前にぶら下がった人参に必死で食いつこうとする馬であった。彼はもうこのガン突きしがいのあるつき上がった尻を持つ女とヤるためだったら口からでまかせのオンパレードを吹きまくってやるつもりだった。彼は岡崎に近づき、「あなたのために小説を書きたくなったよ。だから早く」とおべんちゃらを言って彼女を抱こうとしたが、その時彼女は後ろに下がって小さな声で彼に言ったのだった。

「その前にシャワー浴びたいわ。シャワルームはどこなの?」

 落谷が必死に冷静さを取り戻し、指でシャワールームへと続くドアを示すと、岡崎はボストンバッグを持ってシャワールームの方へと歩いていった。

 こうしてソファーに腰掛けて待っていても心は落ち着かなかった。これから起こるであろう出来事を思い浮かべて落谷の心と、彼の欲望に忠実な下半身はもう沸騰しまくっていた。彼は先程からの下半身の痛みに耐えられずジッパーを下ろしてパンツの上からそそり立つ下半身の感触を確かめたが、それはもうまるで伸ばしたゴムのようにパンパンになってはちきれそうだった。思えば半月ぶりのエッチだ。下半身は久しぶりのエッチに興奮してさきっぽからガマン汁を出している。これだったら余裕で5回以上はイケる。もしかしたら10回は軽く超えてしまうかもしれない。なんたって相手はあのガン突きしがいのあるつき上がった尻を持つ女だ。あの尻にガン突きしまくって、しまくり尽くしたらドアからポイ捨てでもしてやるさ。泣き喚いたってしりやしねえ! 俺は未来の無いクズ作家なんだから、後のことなんか知るもんか!

 彼は女がいつまで立ってもシャワーから上がって来ないのでジリジリし始めた。全く女ってのはいつも風呂が長い。そんなに男にきれいに見られたいのか。だけど男にとっちゃテメエの顔なんかどうだっていいんだよ。体だよ結局。その穴に打ちこめりゃなんだっていいんだよ! 落谷はもうこれ以上待つことは出来なかった。彼はシャワールームで岡崎をハメようと思い勢いよく立ち上がった。シャワーを浴びている岡崎つき上がった尻めがけてファックしてやれ、俺のこのガン立ちした息子を尻にぶち当てればあの女興奮してむしゃぶりついて来るぜ。犯してヤる。犯しまくってやる。彼はシャワールームへと続くドアの前で覚悟を決め、いざ開けようとした瞬間だった。ドアの向こうからけたたましい足音が聞こえ、いきなりドアが開くとエアロビの衣装を来た女が掛け声とともに足を上げ下げしながらいきなり飛び出して来たのだ。

「ハイ! ワンツー、ワンツー! さあ、元気を出してぇー! ハイ! ……ちょっと? あなた何してるの? そんなとこで突っ立って。私さっきあなたに言ったでしょ! あなたが前向きに小説を書けるようになるように何でもするって。本当はエアロビなんか恥ずかしくて人に教えらんないんだけどこれもあなたを立ち直らせるために恥ずかしさをこらえながらやってるのよ。さあ、この衣装に着替えてエアロビの特訓よ!」

 ピッチピッチのエアロビ衣装を来た岡崎はそう言うと手にしていたボストンバックから男性用のエアロビ衣装を取り出して落谷に投げた。

「ふざけんなこのボケ! 人をなんだと思ってるんだ!」

「なんだと思ってるじゃないわよ! あなた私がエアロビ教えたら小説書くって言ったでしょ! それにそんな不健康な生活してるから精神状態がおかしくなるのよ! 壁に変な落書きしたり、味の素なんか注射したりして! さあ良い小説を書くには運動をして健康的な生活を心がけなきゃ! ハイ! ワンツー、ワンツー!……ちょっといい?」

「いてえ! 何すんだ!」

「やっぱり不摂生な生活送っているから体が異常に硬いわね。あなたいい? あなたの体年齢はもう四十代よ。あなたいくつ? 私より年下でしょ? こんな体じゃじきに太って来るわよ! 精力も急激に衰えて来るだろうし、そしたらもう誰もあなたなんか振り向かないわよ。そうならないように今のうちに体をシェイプアップしなきゃ! だから早くエアロビの衣装着て私と一緒に特訓よ!」

「やめろ! 脱がすな! チンポ丸見えじゃねえか!」

「いい男が恥ずかしがらない! エアロビを始めるんだったら恥ずかしさを捨てなさい!」

エピローグ

 その一週間後、落谷ハテルは出版社の一室で田山美実と対談したのだが、その落谷の姿を見た田代と清水は驚き唖然とした。落谷は髪を短く刈り上げあの不健康の極みだった頃が嘘のような好青年に変わっていたのである。彼はその対談で田山美実の一時間以上にもわたる説教にも耐え、最後には田山に対して涙を流して感謝の言葉まで述べたのだ。田山を見送る際は、落谷とともに担当の岡崎聡子がでて二人は肩を並べて笑顔で田山を見送った。二人はその後もベったりと寄り添い、エアロビがどうたらこうたら語り合っていたが、落谷が田代を見つけると二人でやってきて、それから今までじゃありえないぐらいの殊勝な態度で謝ってきた。

「田代さん今まで迷惑ばかりかけてごめんなさい。彼女のおかげで僕はやっと真人間に戻れました。これからは田代さんへ感謝とお詫びするために小説でもなんでガンガン書いて行くつもりです。もう小説を書かないなんて絶対に言いません。だって僕には彼女がいるから」

 そう言うと落谷は岡崎の方を抱き寄せた。そして続けてこう言った。

「彼女のためにも僕は小説を書いて行くつもりです。僕は新しく生まれ変わったんです」


 そのとおり落谷ハテルは生まれ変わった。彼は今までのスランプが嘘のように執筆活動に積極的になり、次々と本を書いた。まず彼の復帰作にしてデビュー作『果てしなき堕落』を上回る評価を得た『さようなら堕落』それから岡崎との出会いを書いた『エアロビの糸』そして岡崎との結婚後、夫婦で馴れ初めを語った『エアロビ事始め~エアロビが結びつけた私たち』そのどれもが高い評価を得て売れに売れまくった。落谷ハテルは作家兼エアロビ評論家としてテレビで引っ張りだことなり、妻の岡崎聡子は編集長として新たにエアロビ雑誌を立ち上げ大成功させ二十代で出版社内で重要な地位を獲得した。彼女の活躍は社の上層部の注目の的となり、新たに健康関連の本を出版する子会社を立ち上げ、その社長に岡崎を据える計画が上がっている。

 落谷ハテルと岡崎聡子夫婦は結婚後落谷のマンションで暮らしはじめたが、当然あの内装は改装されている。一度テレビ局が二人の住居を取材したが、そのリビングには白いカーテンがたなびき、四方の壁には紅白のデザインが描かれそれぞれの壁の中心には額縁入りのエアロビの衣装を着て肩を寄せて抱き合う落谷と岡崎のカラーの写真が飾られていた。その周りには夫婦で丁寧に書いたというこんな言葉が鮮やかに輝いている。その言葉は次のとおりだ。『健康』『運動』『向上』『筋肉』『目標』『継続』『美ボディ』『健康体』『汗』『出産』『愛』『エアロビに果てはない』


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?