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熱意と行動が生み出す抑圧

みたにノ戯言P.10

 僕の住む世界だけかもしれないが、人のやる気とか好き嫌いを測ろうとする人が結構いる。そんなもの測ってみたところで、誰が得する訳でもないが、勝手に思考して無作為に決めつけるその行動を是と考えている様に見える時は驚愕である。

『人の内面と社会的な表面で起こる小さな軋みの』

について今日は考えようと思う。

 僕は色々な所で言っているが、役者修行の身である。そのためかも知れないが、周りにはやる気に満ちた人も多い。その事自体は僕は否定しないし、むしろ熱意ある人の行動はこちらに可能性に満ちた影響を与えてくれるので、大歓迎なのである。だが、熱意がある存在が目につきやすい為か、熱意と行動がないと本気でやっていない、本当は好きじゃない事をやっているのでは?と疑われる人も存在する。

 もちろん、嫌いなことを積極的にやる人は珍しい。でも、だからと言って、積極性に欠けるから興味がない訳でも、やる気がない訳でもないし、その証明として積極性の無さと熱意と行動の有無は関係ない。
とあるご高齢の先生で、「静かだから熱意がない訳ではなくて、ちゃんと内に熱持ってるんだ。そういう人もいる。
それを最近知った」
と、言っている人がいて心底驚いた。何十年も生きてきた人でも、熱意と行動のみが、やる気の証明だと思っている事もあると言う事実に。お陰で僕の知見も広まったし、今まで何故、疑いようのないその事実を聞く人がいたのか理解できた。
 僕の言い方や態度がよくなかった事もあるかも知れない。
むしろ、やる気=熱意+行動と考える人々にこの話をすれば、すぐさま言い訳と捉えて、逆恨みだとか?やる気を見せろだとか?頓珍漢な発言をしだすかも知れない。

「やる気=熱意と行動」それは違う。
僕はそう思う。

 問題は2つある。まず第一にこれは前提条件であるが、好き、やる気の最大値と最小値、そしてその持久性には個体差があるという事。それを踏まえずに、全ての人が同じだけのやる気を持って動くと考えるから、的が外れる。

 もう一つは、熱意と行動のみが、やる気と物事の好き嫌いを構築する素材ではないという事だ。
やる気の設計図だって個体差がある。使われる素材も違う。熱意と行動のみで突き進める人もいるが、もっと周りを見渡しながら、慎重にそして丁寧に足を踏み出す人もいるのだ。

どうして誤解されてしまうのか?これは極めて難しい問いだが、生へ信頼と依存が大きく関わっている様に感じる。
やる気を誤解される人々は総じて、生きることへの信頼が薄いのだと思う。生を望む事も少なければ、依存度も薄いので、生命力が原点でエネルギーである行動力や熱意も生命力が強い他者からだと低く見えてしまうのでは無かろうか。それは生への無頓着や執着の無さにも影響している。

上記は誤解されてしまう側の視点だが、誤解してしまう側の視点も考慮したいと思う。

人間は良くも悪くも、主観でしか生きられない存在である。
よく使われる客観視は、データ上の事実でしか確認できず、そこから出る考察は主観の域を出ない。

 僕は、誤解してしまう理由の一つとして、主観から成る想像力の問題があると思っている。人の数だけの主観があるのは言うまでもないが、自身の想像力や観察力、思考力を広げるには経験しかないと思う。
《注)本を読んだり人の話を聞くのも経験と言えなくはないが、これらは知識寄りに傾いているため、ここで言う経験とは自らが体験したものとする》

経験が無い事は、想像するしかない。主体の理解や知識にも左右されるが、体験した事とそうではない事では、文字通り天と地ほどの差がある。

骨折した事がない人に骨折の痛みはわからない。

正確に言うと、同じ部位を同じように骨折した事がある人達でも。痛み方が違うのは当然だが、経験がない人とは判断材料が圧倒的に違うため、思考において重視するポイントも当然ながら変化する。同じ答えでもプロセスが違うと全く別の意味を持ってしまう事があるように。

 経験がない人々の早計な発言が、時として頓珍漢に聞こえるのは、不可能な他者理解をしようとする気持ちが無いからだと、僕は思うのである。



 これだけ無作法に書き立て、今更言い訳する気もないが、上記にある全ての事を最も出来ていないのは僕自身である。

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