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『本心』 平野啓一郎 作 #読書 #感想

特設サイトより、あらすじ

舞台は、「自由死」が合法化された近未来の日本。最新技術を使い、生前そっくりの母を再生させた息子は、「自由死」を望んだ母の、<本心>を探ろうとする。
母の友人だった女性、かつて交際関係のあった老作家…。それらの人たちから語られる、まったく知らなかった母のもう一つの顔。
さらには、母が自分に隠していた衝撃の事実を知る── 。


最初から主人公である息子が、亡くなった母親のVF(ヴァーチャル・フィギュア)を作り始めるので、急に近未来の世界に没入した気分になる。
母親は「自由死」を望み、"もう十分だ"という言葉を息子に残していたが、息子が上海にいる間に事故死してしまったのだ。

この息子もまた近未来的な仕事をしている。いわゆる"リアル・アバター"だ。例えば車椅子の高齢者が、死ぬまでに以前旅先で見た景色を最後にもう1度だけ見たいとしよう。そんな時、アバターが代わりにその景色を見に行ってくれるのだ。
高齢者はアバター(息子)に乗り移った気分になり、アバターを通してまるでその景色を本当に見ているかのような気持ちになれる。

そして近未来的な世界(仮想空間)もある。人は娯楽として自分がアバターになり、その世界を楽しむ。好きな見た目で(どう森的な)好きな場所へいき、仮想空間で現実では会ったこともない人と話をする。

なんだか全てが別世界のように感じる。

未来で本当に起きていそうな問題が描かれていて、なんだか他人事ではない気持ちにさせられるのだ。

大きなテーマは「愛」と「分人主義」、そして「最愛の人の他者性」
HPにこんなことが書かれている。

他者であるがゆえに、根本的には「わからない」し、「わかる」と言ってはいけない。それが他者性を尊重することではありながら、愛で結びついた相手の場合、それでもどのようにして相手をわかろうとし、また、相手の決断を尊重しつつ、関与するか、ということが問題になる。

VFとしてAI / VR技術で再生された「母親」の姿を、私も現実に一目見てみたい、と感じてしまった。会話を通して母親のVFは学習をしていくわけだが、それに対する違和感はないのだろうか?変化し続けられるのだろうか?VFはどの程度、「母親」になりきり、「母親」としての考えを語れるのだろうか。


自由死は言い方を変えれば安楽死なので、迂闊にそれに対する考えを語ることがあってはならないように感じる。ただ「自由死」を認めるか否かということだけではなくて、「『自由死』を望んでいるのは『本心』からなのか?」が問われている。実は社会のどうしようもない実態や圧力から、そう選択せざるを得ない状況にあるだけではないのか?と。その意思にはなんらかの事情が隠されているのではないか?と。
ただ本当に自分で「自由死」という選択をした時には誰にも否定されたくない、誰にもそれを否定する権利なんてない....という話も描かれている。


439ページより

わからないからこそ、わかろうとし続けるのであり、その限りに於いて、母は僕の中に存在し続けるだろう。
それでも、生きていていいのかと、時に厳しく、時に親身なふりをして、絶えず僕たちに問いかけてくる、この社会の冷酷な仕打ちを、忘れたわけではなかった。

死の一瞬前を、誰と過ごしたいのか。それを考えたとき、死ぬ瞬間を自分で選べても良いような気がしてきてしまった。これは死の一瞬前に、どの「分人」で居たいのか、という問いにもつながるわけだけれど。
1つ言えるのは、私は自らのタイミングで死を選ぶことができるとしたら、選ぶだろうなぁ、ということであった。


HP(特設サイト)にも印象的な言葉が多数記されている(本から抜粋されている)ので、ぜひ特設サイトを見てみてほしい。







前々作『マチネの終わりに』の「結婚した相手は、人生最愛の人ですか?」、前作『ある男』の「愛したはずの夫は、まったくの別人であった。」に続く『本心』の帯コピーは、「愛する人の本当の心を、あなたは知っていますか?」。

息子にとって母親は本当に愛する人だったはずなのに、母の「本心」を、自由死を望んだ母の本心を息子は何も分かっていなかったのだ。目の前にいた母親という存在は、いったいなんだったのだろう。

わたしは3作とも読んだし、"分人主義"についてもかなり関心がある。自分自身がそうなのではないか?という疑問と考えも含めて。自分の心の中に、確かに根ざしてきている考え方であるのだ。

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