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作家須賀敦子を追って 阪神夙川への旅

先日の「私にとっての阪神 『細雪』との出会い」の最後の一文を書いていて、「ああ、そうだ、私にとっての阪神はこんなところにもあった」ということを思い出したので、今日は、それについて書いてみることにした。

* * *

あれはたしか、十数年前の2月の三連休、中日の昼ごろだったと思う。突然、作家須賀敦子の墓参りに行ってみようと思った。当時、毎日終電では帰れないほどの激務で、心身がかなり疲弊していた。その三連休はめずらしく出勤しなくてもいい連休だったため、ゆっくりと体を休めようと、連休一日目は終日寝て過ごし、連休二日目も昼くらいまで寝ていた。

立春を過ぎていたとはいえ、まだ寒さがきびしく、空気を入れ替えるために開けた窓から、今にも雨か雪が降りそうなどんよりとした空が見えた。

その希望のなさそうな空に、「私の人生、こんなことを望んでいたのかな?こんなに疲れて、連休も何もできないなんて」と気分もふさいだ。そんなときはきまって、それよりも前の年月で諦めた古典文学の研究や、作家須賀敦子のような生き方を思った。

須賀敦子とは、『ミラノ 霧の風景』『トリエステの坂道』など、若き日のイタリアでの生活やキリスト教徒(カトリック)としての自身の半生をつづった文章で知られている作家。

1929 年に阪神夙川で生まれる。戦後、聖心女子大学英文科を卒業し、慶應義塾大学大学院に進学するが中退し、フランス・パリへ留学。帰国後、29 歳でイタリアのローマに留学。 

その後ミラノに移り、イタリア人の男性と結婚。キリスト教徒(カトリック教徒)として「よりよく生きる」ための新進的な活動に参加するかたわら、日本の文学をイタリア語へ翻訳する活動を開始する。

夫との死別後、1971 年に日本に戻り、60 歳になってから『ミラノ霧の風景』をはじめとする数々の作品を発表し、 1998 年 3 月に没している。

この作家の作品は、私が古典文学の研究を諦め、進むべき道を見失いそうになったとき、いつも手にしていたものだった。

没後すぐに出された追悼特集の雑誌を手にとってパラパラめくっていると、葬儀が教鞭をとっていた上智大学の聖イグナチオ教会で行われたことや、墓地が出身地である阪神六甲山の麓にあるという記述が目に止まった。

そうだ、須賀敦子のお墓に行ってみよう。こんな夜も昼もないような生活でも、自分の原点ともいえる作家に触れることで、気持ちを整理することはできるかもしれない。

何が降ってきたようにそんなことを思った瞬間、一泊分の荷物をまとめて、家を出た。


実は、墓地については「六甲山の麓の甲山カトリック墓地」ということ以外、何も知らなかった。当時スマホはなく、インターネットでの調べものはパソコンでという時代で、家にパソコンがなかったため、本屋に立ち寄って大阪、神戸の観光ガイドを手に入れた。

学生時代、友人たちと旅行した神戸や六甲山が、宿泊した三宮か元町から近かったことを思い出し、そのガイドにあった三宮のホテルを電話で予約し、新幹線に飛び乗った。すでに15時をまわっていた。

18時すぎに新神戸につくと、外はすでに暗くなっていた。三宮のホテルは、生田神社の脇にある洋館風の新しいホテルで、連休中の宿泊料金としては良心的だったこともあり、好感が持てた。

新幹線が新神戸に着く直前、友人からメールで食事の誘いがあった。かくかくしかじかで、今、新幹線が新神戸に到着するところだと伝えると、さすが同じ文学研究の志を持った友人、面識もない作家の墓参りに行くといっても驚くことなく、いい旅となるといいね、といってくれた。

夕食時には、ガイドにあった三宮駅近くのとんかつやに入ったことや、海外のものが入ってくる港町神戸はジャズのメッカでもある、というのをガイドで読んで、すこし歩いたジャズバーを訪ねたことを、今、これを書きながら思い出した。

「私の人生これでいいのか?」という問いで始まった旅なのに、しっかり観光を楽しんでいる自分がいて、今さらながら笑ってしまった。

ホテルに戻り、「六甲山の麓の甲山カトリック墓地」がなんという教会で、どのように行くのかをフロントで聞いてみた。しかし、フロントの人も土地勘がないのか、答えが要を得ない。インターネットで調べてくださいとお願いしても、やはりあやふやな答えしか返ってこなかった。

今ほど、ホテルに宿泊客が利用できるインターネット用のパソコンが置いてある時代でもなく、電話ボックスにある電話帳で探そうかと思っていたところ、さきほど夕食に誘ってくれた友人を思い出し、メールした。

インターネットで「六甲山 甲山 カトリック 墓地」を検索して。

すると友人からは、教会かどうかはわからないけれど、甲山(かぶとやま)墓園というところの中にあるらしい。夙川という駅からバスかタクシーで行けるらしい、という返事がきた。

翌朝、小雨降るなか、早めに出発した。ホテルを出たところで、生田神社のお社の屋根が視界に入ってきたので、お参りしていくことにした。

あの阪神淡路大震災で、お社が倒壊し殿舎の屋根が地面で真っ平らになっていたのを、テレビで何度もみたことを思い出していた。震災から8年の間に屋根が元の位置に戻っていたことに、人々の苦難とそこからなんとかここまできた軌跡を思うと、涙をこらえることができなかった。

気持ちがおさまるのを待って、阪急神戸線の神戸三宮の駅に向かった。


ホテルのフロントに聞いた夙川への行き方は、阪神電鉄線や東海道本線の三宮駅からではなく、阪急神戸線の神戸三宮駅からいくつめということだった。

関東で生まれ育った私は、このあたりに地縁なく、土地勘がまったくない。電車の路線についても同様で、阪神線とは阪急神戸線の「阪」と「神」をとった略称かと思っていたのだが、別の路線だということをそのときはじめて知った。

電車に乗り込んですぐに壁の路線図を見上げると、六甲、御影、岡本、芦屋川と学生時代に読んだ『細雪』の地名がたくさん出てくるのに、心踊った。でも、「芦屋川」と「芦屋」は違うのかしら??と思っていると、平行して走っている阪神電鉄線と東海道本線に「芦屋」という駅があったので、「ああ、これが『細雪』の次女幸子が住んでいたところで、日本屈指の高級住宅街の芦屋ね・・・」と思ったりした。

いよいよ夙川に着いて降りてみると、ひっそりとした静かな駅だった。雨が本降りになっていて、かなり寒かったこともあり、あまり駅の周辺を見て歩く余裕はなく、すぐ、バス停に向かった。ところが、あまり本数がなかったのか、次の発車まで時間があいていたのか、タクシーに乗り込んだ。

須賀は、父方の実家があったこの夙川で生まれた。近くの小林聖心女子学院の小学校に通っていたが、父親の仕事の関係で、東京の麻布に移った。太平洋戦争の折、東京の戦火が激しくなったことで、一度、この地に戻る。戦後、また東京に移り、広尾の聖心女子大学の第一期生となる

須賀というと、イタリアでの暮らしを描いた作品で有名だが、幼少期や少女時代の思い出、家族とのことを綴ったものもあり、そう多くはないが、この夙川の地名が出てくるものもある。

 しげちゃんと私はもともと、六甲山脈のはずれにあたる丘のうえのミッションスクールで、小学校からの同級生だった。・・・中略・・・
 しげちゃんは私たち一家が住んでいた阪急沿線の夙川(しゅくがわ)駅からふたつ神戸寄りの岡本から通っていた。

『遠い朝の本たち』(筑摩書房 1999年)「しげちゃんの昇天」8、15ページ

「しげちゃん」とは、須賀がカトリックの信仰を考えるきっかけとなった小林聖心女子学院時代からの友人。本が好きで、大人びていて、なんでもわかっているような人柄にときにいらいらし、ときに尊敬しながら、須賀は影響されていく。

「しげちゃん」は、別の作品では「ようちゃん」という名前で登場し、戦争のさなか、学校からの帰り道で、カトリックの教理の勉強をしていて、春には洗礼を受けるという告白をして、須賀を動揺させるシーンが描かれる。すこし長いが引用してみる。

・・・中略・・・みんなにすこし遅れて坂を降りていた。はやくしないと駅に着くまでに日が暮れる。<こわい男>が出るという、そんなうわさがよくひろまった淋しい坂道で、私たちは足早でつまさきだって歩いていた。そのとき、なんのまえぶれもなく、彼女が私に宣言をした。わたし、と彼女は話しはじめて、ちょっと息をついた、その息のつき方がいつもとちがったから、彼女の顔を見ると、なにか目がしんとしているような、ふしぎな表情をしていた。こちらのそんな気持ちにはおかまいなく、ようちゃんはつづけた。わたし、K先生について、カトリックの教理を勉強しているの。だれにもいわないでね。でも春になったら洗礼を受けるつもり。へええ、と私は呆気にとられ、おもわず足をとめて彼女の顔をもういちど見つめた。
・・・中略・・・じぶんにとって大切な友人のようちゃんが、K先生と教理の勉強をしているばかりか、春には洗礼を受けてカトリックになると聞いて、胸の底がどきんとした。どうしてまた、いまこんな時代に、ようちゃん、そんなこと考えたの?
 時代とは関係ないよ。そういって、彼女は老人みたいにしわっと目をつぶった。自分の考えに自信があるときの、それは、彼女のくせだった。だいじなのは、じぶんがどう生きたいか、なんだから。いろんな本を読んでいるうちに、やっぱり洗礼をうけようと思ったのよ。へええ、私はもういちど、うなった。よくわからないけれど、すごいねえ。ようちゃんは茶色い目をきらきらさせて、息をぐっとすいこんでから、うれしそうに笑った。

『ユルスナールの靴』(河出書房社)「一九二九年」59、60ページ

二人が通った小林聖心女学院は、私が向かっている甲山墓園を宝塚方面に抜けたところにあるのだが、この夙川、小林界隈は須賀にとって、カトリックへの信仰と自分がどう生きたいかを考えるきっかけとなった場所でもあったことを思い出しながら、タクシーは緩やかな坂をずっと登り続けて、甲山墓園に到着した。

開けた門のなかを入っていくと、うっすらと霧が出ていた。須賀の代表作『ミラノ 霧の風景』にもあるように、須賀の行くところ、いるところには、たえず霧の風景があるような気がして、この霧の向こうから夫と暮らしたミラノを思い出しているのだろうかと思った。

この墓園は西宮市市営の宗教宗派は問わない墓地らしく、仏教用の区画もあれば、キリスト教用の区画もあったと記憶している。須賀のお墓は、カトリック墓地という区画にあるというところまではわかっていたのだが、墓石の地図があるわけではないので、カトリック墓地内の墓石銘を一つひとつみていくしかないと覚悟をきめた。

途中、霊園によくある花屋でお供え用の花を買った。どういう経路でたどり着いたのかあまり覚えていないのだが、思ったよりも簡単に、須賀家の一画を見つけることができた。

よくある仏教用の角柱型の墓石とは違い、須賀家のお墓は地面から2段ほど高くなったところに、長方形の黒の御影石が埋まっており、その長方形の長辺から垂直に立っている御影石との2枚でできていた。

墓石には、須賀の影響でカトリックの洗礼を受けた両親の名前とともに、本人の名が刻まれていた。

夙川、東京、フランス、イタリア、東京と暮らした須賀が、最期に戻ってきたのがこの地であり、一緒に眠っているのが、イタリア人の夫とその家族でもないことが、不思議に感じられた。

カトリックへの信仰を考えるきっかけとなった「しげちゃん(ようちゃん)」と過ごしたこの地こそが、須賀の原点であり、信仰者として戻ってくるべき地であったのかもしれない、とも思った。

本を読んだだけで面識がないものが突然押しかけて、家族も眠るお墓の前で長居するのはどうかと思い、花を供えて黙祷したのち、引き上げた。

墓園を出るとちょうどバスが来たので、それに乗って霧の坂道をくだっていった。

このとき、須賀の本を読み始めて5年。本と想像のなかの人物だった須賀が、この旅をとおして初めてその存在を直に感じることができた。

そして、「しげちゃん(ようちゃん)」がいったように、自分がどう生きたいかを改めて考えたとき、やはり須賀のように生きたい、須賀のようなものを書きたいと願うことはあるかもしれないと思った。

しかし、須賀自身がイタリアから戻り、日本での生活を確立しようと様々な仕事をしながら作品を生み出していったことを思うとき、私もまずは自分の人生を確立することが先であるような気がした。

墓石に刻まれた太くおおらかな「須賀敦子」という銘をみたとき、きっとその果てになら、何か書けるはずだという思いが湧いてきた。

阪急線の甲陽園駅でバスを降り、そのまま阪急線で梅田まで出た。梅田で少し遅い昼食をとった後、職場へのお土産を買った。新大阪駅から新幹線が発車するころ、前日やりとりした友人からメールがあった。

「作家の墓参りはどうだった?」

「うーん、気持ちの整理くらいはついたかな」

「そう、じゃあ、いい旅だったんだね」





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