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香水と皇帝と、二人の作家

「EAU D'HADRIEN オーダドリアン」から始まる旅

ここ数年、夏用のフレグランスとして使っている、フランスのブランド「GOUTAL グタール」のこの香水を購入しようと販売サイトにアクセスすると、ブランドの創業者でありパヒューマーでもあったアニックが、小説『ハドリアヌス帝の回想』に触発されて、ローマ皇帝ハドリアヌスをイメージしてつくった香りという解説を見つけた。

いつもは銀座のバーニーズ・ニューヨークか、もしくは百貨店で購入しているのだけれど、お店の人からそんな解説を聞いたことは一度もなかったので、『ハドリアヌス帝の回想』の名前を見て、テンションが上がった。

フランス語ができない私は、カタカナ読みの「オーダドリアン」ではそれと気がつくことはできなかったが、改めてのフランス語の綴りをみると、「EAU D'HADRIEN」(ハドリアヌスの水)とあり、アニックが『ハドリアヌス帝の回想』に並々ならぬ思い入れを持って、この香水を作ったことがわかる。

たしかにあの乾いたシトラスの香りは、シチリア地方の柑橘類を彷彿とさせ、一見とても爽やかだけれど、映画「ゴッド・ファーザー」にも通じる南イタリア特有の暗さと寂寥な感じが、香りの奥からしてきたことを思い出すと、ユルスナールの描いたハドリアヌス帝のイメージに重なるような気がした。

『ハドリアヌス帝の回想』とは、フランス系ベルギー生まれの作家、マルグリット・ユルスナールによって書かれた、第14代ローマ皇帝ハドリアヌスの生涯。残された命がそう長くないことを悟ったハドリアヌスが、次の世代の後継者に、自らの治世と生涯を書簡形式で語り出すところから始まる。

私は作家須賀敦子の『ユルスナールの靴』という作品を通して、『ハドリアヌス帝の回想』を知った。この作品の中で、ハドリアヌスの横顔をなんとかつかもうと格闘するユルスナール、その四半世紀の足跡を追う須賀敦子、「霊魂の闇」をキーワードに、三人の人生が交響する。


ハドリアヌス帝とユルスナール

ローマの属州であったスペインに生まれ、トライアヌス帝に引き取られ、ローマで教育を受けたハドリアヌス。即位後は、領土内の視察で、ヨーロッパ各地やエジプト、アフリカ、果ては小アジア(現在のアナトリア)を訪れ、旅に飽きること知らなかったと言われている。

ギリシアの文明を愛し、じぶんでも詩をつくり、狩猟にも軍事にも長じ、文学を、建築を愛した、それでいて、あるいはそのために、偉大だが孤独でどこか偏狭な皇帝として歴史に残るハドリアヌス。晩年には、遠い遠征地で出会った少年アンティノウスを溺愛したと伝えられる。
『ユルスナールの靴』(河出書房新社 1998年)121ページ

ユルスナールは20代のころから、何度もこの皇帝について書こうとしたもののうまくいかず、原稿を書いては破り捨て、薪にくべた。第二次世界大戦の不穏な空気がパリを包みだしたころ、生涯の伴侶となるアメリカ人女性に誘われて、アメリカに渡る。

北フランス、フランドルのベルギー旧家に生まれながら、父親の仕事や生き方の関係で、ところ定めぬ旅人のような暮らしをしてきたユルスナールだったが、フランス語でヨーロッパ文化あるいはヨーロッパ的な考え方を極めた知識人の彼女にとって、アメリカという異郷の地での暮らしは、自身の考えていることを自身の言語で表現できない、他者と共有できない、作家としては絶望的であり、孤独なものであった。

ユルスナールがアメリカに渡ってから10年ほどのときが流れ、スイスから届いたトランクの中に、昔書いた原稿と資料を見つけた。それをきっかけに、彼女は熱に浮かされたように原稿をかきはじめ、遂に完成させた。45歳のときだった。四半世紀におよんだ格闘を次のように記した。

それは重要ではない。わたしをハドリアヌスから隔てる距離だけでなく、何よりもまずわたしをわたし自身から隔てる距離、わたしをしてそれを埋めさせるためには、おそらくこの間隙、この断絶、われわれの多くがあの当時、おのおののやり方で、そしてあまりに多くの場合、わたしよりもはるかに悲劇的かつ決定的な形で体験したあの霊魂の闇が必要であった。
『ハドリアヌス帝の回想』「作者による覚書」(白水社 2002年)319ページ


ユルスナールと須賀敦子

キリスト教(カトリック)を信仰していた須賀敦子は、聖女たちのように「神様に導かれるように」、自分がこうと思った生き方を貫きたいと日本を飛び出し、フランス、イタリアに赴いた。しかし、かの地に渡った当時は、「神様に導かれるように」「よりよく生きる」ために、そこで具体的に何をすればいいのか分からず迷っている時間が長かった。

また、英語、フランス語、イタリア語に堪能で、イタリアの文学を日本語に訳すだけでなく、日本の文学をイタリア語に訳すことができた須賀にとっても、何かを強く主張しなければ生きていけないヨーロッパを「一枚岩的な文化」と表現し、異郷での生活と孤独感に身を固くしていたということが、いくつかの作品で語られている。

須賀は、ユルスナールの中に「霊魂の闇」という言葉を見つけたとき、そのような自身の若き日々を重ねた。

自分もそんな闇を通ったのだとユルスナールが語っているのは、当然とは思っても、やはり衝撃だった。私にとっては、揺るぎない自負と確信に満ちているはずの、あの偉大な『ハドリアヌス帝の回想』の作者が。意外さ、そして、むかし慣れ親しんだ言葉に出会ったなつかしさに、私は声をあげそうだった。
『ユルスナールの靴』(河出書房新社 1998年)126ページ

しかし須賀は作家として、「霊魂の闇」がもたらしたユルスナールの成熟と、それによって鍛えられた作品の発展と陰影を見出す。

ユルスナールもまた、彼女が背負っている文化から余儀なく切り離されてアメリカにとどまったことによって、じぶんのヨーロッパをより明確に自覚したにちがいない。その自覚が『ハドリアヌス帝の回想』を、彼女がずっと以前、考えていた作品とは異質なものに発展させてゆく。霊魂の闇の通過が作品を皇帝の私的な物語から、ひとつの文化の物語に移行させ、それまでの彼女の作品には種子としてしか存在しなかった、歴史の重さへの普遍的な自覚が加わったのではなかったか。
『ユルスナールの靴』(河出書房新社 1998年)133ページ


『ハドリアヌス帝の回想』を読むということ

そして私自身も、20代の後半から30代の前半にかけて生き方に迷っていたとき、この作家の本と出逢い、人生の羅針盤のように思っていた。須賀がユルスナールの「霊魂の闇」に自身を重ねたように、私も須賀の生き方に自身を重ねた。

そんな須賀の筆致に魅せられて、日本語訳の『ハドリアヌス帝の回想』を手に入れたのだが、ところがいざ読み始めてみると、古典的な韻文にも近い文体がなかなか頭に入ってこない。なんど読んでみても10ページ以上進むことはなかった。

ユルスナールが書き手として40歳以前に着手してはならないテーマがあるといっていたが、当時30を少し超えたくらいの年齢だった私には、読み手にも同じことが言えるような気がした。

それが数年前、あるコメディ映画の中にハドリアヌス帝がいた。それまでハドリアヌス帝は、世界史の教科書に出てくる彫刻のようなイメージしかなかったが、その俳優が演じるハドリアヌス帝は、先に引用した陰影のある複雑な人柄を体現しているようにも思えた。

それからもう一度、分厚い『ハドリアヌス帝の回想』を開くと、俳優の顔をしたハドリアヌスが生き生きと私の中で立ち上がり、なんとなか最後まで読むことができた。完読したのは、私が41歳になろうという年だった。


EAU D'HADRIENを身につけるということ

今、私はユルスナールがこの小説を書き上げた年を少し上回っているが、ほぼ同世代と考えたとき、一つの問いと向き合うことになる。

ユルスナールのように、長い年月、何度チャレンジしてもうまくいかないことがありながらも、時や機が熟すのを待ち、遂に自分が成すべきこととしてそれを成してきただろうか?と。

目の前の生活上のしなければならないことをするのは当然だとしても、それをこなすのが精一杯だという言い訳をして、何にも着手してこなかった時間が長く続いたのもたしかだ。ユルスナールが、そして須賀敦子が通り過ぎてきた「霊魂の闇」と、真の意味で向き合いことが怖かったのだ。

EAU D'HADRIEN。毎朝、この香りを身に着けつづける限り、私はこの問いと向き合っていくのだろう。慣れ親しんだ香りに思いがけない覚悟をした瞬間だった。








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