2018年2月 プエルトリコ旅行記④ 常夏から極寒へ ミネアポリスで「アメリカ」を楽しむ
2018年の記憶をたどりながらまとめているプエルトリコの旅行記もこれで最終回。
今回は飛行機の乗り換えで1泊したアメリカ、ミネアポリスの話、そしてソマリア難民の方との会話の話も。
5泊したプエルトリコ、サンファンの旅もついに終盤に差し掛かったが、旅行になると異常なほど楽しむことへの貪欲さを出す私、最終日の朝は思い残すことがないよう、お気に入りの場所の散歩からスタート。
プエルトリコから日本へは色んなルートで帰国できたが、面白そうと思ったこの帰路を選んだ私。
ミネアポリスは真冬には-20度にもなるという極寒の地、私が行った2月下旬の平均気温は-6度くらい。一方で常夏のプエルトリコは30度前後。
気温差が楽しそうと本気で思ってしまう私、やはりどこかおかしい。
プエルトリコのサンファンからアメリカのアトランタ、そこから更にミネアポリスへ。
ミネアポリスに着くのは夜遅く、東京へ行く便は翌朝だったが、長時間シャワーを浴びられないのが苦手なので、ホテルを取ることにした。
グーグルマップを拡大して、空港へのアクセスが良く、しかも徒歩圏内に朝から開いてるなにか面白そうなものがあるホテルを探す。
おぉぉぉぉ!!すぐ近くに朝8時から開いているスーパーがあるホテル発見!!出発前に行ける!!!すぐにホテルのホームページから予約。
こういうどうでもいいことに関して異常な才能を発揮してしまう私。
空港からホテルまではタクシーで移動。
タクシーのドライバーさんは社交的な方が多く、いつも強制的に英会話タイムがスタートする。
今回の運転手さんは黒人の男性だったが、話し方が一般的なアメリカ人っぽくないなと思っていたら、アフリカのソマリアから来た難民の方だった。
身の上話を語り、今はアメリカで暮らすことができて幸せと言っていた。
それからその運転手の男性は私に、
なんで1人なの?家族はどうしたの?
夫はどこ?なぜ子どもがいないの?
といった質問を矢継ぎ早に投げかけた。
日本から地球の反対側の常夏の楽園でのびのびと休暇を楽しんでご機嫌だったが、なんだか家出した高校生が警察に補導されたみたいな気持ちになった。
ソマリアから命からがら逃げて来た難民の方から見れば、アジア人の女が1人で休暇のために小金を使って地球を半周するなんて思いもよらないのだろう。
私がこの1週間で使った航空券代やホテル代、食費や観光、お土産に使った金額を合わせればこの難民の方の家族や親戚がアフリカで何日生きていくお金になるのだろう。
大切な家族を抱えて生きるか死ぬかの瀬戸際から逃れてきた難民の方から見れば、私のしていること、私の生き方は意味不明だろう。
そして、そんな彼から見れば私は1人ぼっちで家族も子どももおらず、「どうしたの?」と言われてしまうくらい、みじめな女なのだ。
そして、1人で旅行なんてしちゃダメだ。1人でいるのは良くない。
早くたくさん子どもを産んで、次にアメリカに来る時はみんな一緒に来い。
と力説されてホテルに到着した。
ホテルの従業員の若い白人の男性は、にこやかでフレンドリーなアメリカの好青年という雰囲気で、朝食のことや、翌朝行こうと思っているスーパーマーケットへの道を親切に教えてくれ、私は難民の運転手さんに言われたことをすぐに忘れてシャワーを浴びて寝た。
別に目当ての買いたい物があったわけでもないし、何を買ったのか本当に覚えていない(たぶん、The アメリカンな味の日本にないお菓子とか?)けれど、このスーパーへの買い物がとても楽しかった記憶がある。
10代前半から洋楽、ドラマ、映画などのアメリカ文化にどっぷり影響され、
それが英語学習のモチベーションになり、大人になってから生計を立てる手段になり、私の自立と自由を叶えてくれた。
なんだかんだ色んな問題はあるが、今でも憧れの国であるアメリカ。
21歳の時に1か月ほどかけてわざわざ鉄道に乗り、ボストン→ニューヨーク→ワシントンDC→アトランタ→ニューオーリンズ→メンフィス、と1人で好きなアートと音楽を辿る旅をした。
私の見たアメリカはほんの一部であるし、とても偏った場所にしか行っていないけれど、映画やドラマで見た世界観と同じ部分もあれば違う部分もあり、結論として私が住むイメージは出来なかったが、たまに旅行で行きたい場所、と分かった。
なので、今回のようなちょっとしたチャンスはとても嬉しい。
ウォールマートで買った戦利品を詰めこみ、また出発の準備をする。
今回も空港まで乗せて行ってくれた運転手さんはソマリア出身の方だった。
もちろん昨夜とは違う人物だったけれど、同じように身の上話を語り、同じように私が1人でふらふらしていることを心配し、同じように子どもを産み家庭を持つべきだと力説していた。
日本でわけのわからない年長者に言われたならともかく、アフリカの難民の方に2日連続で言われると痺れる。
単に価値観が保守的だとか、伝統的な家族観が大切だとか、そのレベルではなく、生死の境をさまよって自分の力で生き延びた人たちにまったく同じことを言われたから、その主張の重みに関して信憑性があるように思えた。
最後の最後で生き方をあらためて問われる難題を突き付けられたなと思いながら、東京行きの飛行機に乗った。
帰国すると、プエルトリコではまったく必要なく、ミネアポリスでは厚みが足りなかった長袖のパーカーがちょうど良い気候だった。
スーパーでお寿司を買って家で食べながら、やっぱり日本も良いなと都合の良いことを思った。
あれから6年半経つが、いまだに私は子どもを産まず、海外1人旅を楽しんでいる。
いろんな人生があって良いのだ。
~完~