記事一覧
初期西田哲学に於ける「無」の意義の変遷
西田幾多郎の長編論文の第一作目『善の研究』と第二作目『自覚に於ける直観と反省』(以下、『自覚に於ける〜』)では「無」の意義が大きく異なっている。
『善の研究』によると、我々の意識現象こそが唯一の実在である。そして、この書に於いて、「無」とは、あくまで意識の上の事実であり、意識としてある。
「普通の意味において物がないといっても、主客の別を打破したる直覚の上より見れば、やはり無の意識が実在して
『善の研究』の自由意志論の欠陥 ―なぜ、西田は後に「絶対自由の意志」を認めたのか―
緒言
本稿の試みるのは、西田幾多郎の『善の研究』から『自覚に於ける直観と反省』へ至る上での自由意志論の変遷の理由を探ることである。『善の研究』では、「絶対自由の意志」(「絶対的自由意志」)は、自由意志のありかたとして認められていない((1)第四編第三章p231)。本稿第一章で詳述するが、『善の研究』では、意志の自由とはあくまで「必然的自由」である。対して、西田の次の長編論文である『自覚に於ける
初期西田哲学に於ける自由意志論変遷の理由について ―『善の研究』から『自覚に於ける直観と反省』へ―
(下のリンク先が完全版ですが、本稿も記念に残しておきます。)
緒言
本稿の試みるのは、西田幾多郎の『善の研究』から『自覚に於ける直観と反省』へ至る上での自由意志論の変遷の理由を探ることである。『善の研究』では、「絶対自由の意志」(「絶対的自由意志」)は、自由意志のありかたとして認められていない((1)第四編第三章p231)。本稿第一節で詳述するが、『善の研究』では、意志の自由とはあくまで「必