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最近の記事

永劫回帰は死んだ  ~永劫回帰(永遠回帰)は本当に生の肯定を促すのか~

はじめに  本稿の目的は、ニーチェ(1844~1900)の言う永劫回帰(永遠回帰)のその生起の仕組みに対して科学などの観点から不可能だと示すことではなく、「永劫回帰は実際に起こる」ということを一旦認めた上でその思想上の問題を明らかにすることである。言うなれば、背理法の形式の検証である。では、その「思想上の問題」とは何かと言えば、私の達した結論によると「永劫回帰の何たるかをよく検証すれば、実は、永劫回帰には各人に自身の人生を肯定させるインセンティブはない」ということだ。  ま

    • 弱者の保守主義のすすめ

       本稿は、題にある通り、社会的にまたは健康面で弱い立場にある人たちの政治や人生に関して考える際の助けになればとの目的で書いた。(私自身もお世辞にも強者とは言えない人間である。) また、本稿はついでながら「本来の保守主義を踏み外した世の自称保守派」への批判でもあり、また、「彼ら自称保守派のせいで保守嫌いになった人達」への保守主義の有用性に関する弁明でもある。 本来の保守主義とは 本来の保守主義のなんたるかだが、これは「富裕層や大企業などの強者の利益を守ることにかまけて一般市民

      • 初期西田哲学に於ける「無」の意義の変遷

         西田幾多郎の長編論文の第一作目『善の研究』と第二作目『自覚に於ける直観と反省』(以下、『自覚に於ける〜』)では「無」の意義が大きく異なっている。  『善の研究』によると、我々の意識現象こそが唯一の実在である。そして、この書に於いて、「無」とは、あくまで意識の上の事実であり、意識としてある。 「普通の意味において物がないといっても、主客の別を打破したる直覚の上より見れば、やはり無の意識が実在しているのである。無というのを単に語でなくこれに何か具体的の意味を与えて見ると、一方

        • 『善の研究』の自由意志論の欠陥   ―なぜ、西田は後に「絶対自由の意志」を認めたのか―

          緒言  本稿の試みるのは、西田幾多郎の『善の研究』から『自覚に於ける直観と反省』へ至る上での自由意志論の変遷の理由を探ることである。『善の研究』では、「絶対自由の意志」(「絶対的自由意志」)は、自由意志のありかたとして認められていない((1)第四編第三章p231)。本稿第一章で詳述するが、『善の研究』では、意志の自由とはあくまで「必然的自由」である。対して、西田の次の長編論文である『自覚に於ける直観と反省』では、我々の自由意志は絶対自由の意志の中に於いてあるとされる((2)

        永劫回帰は死んだ  ~永劫回帰(永遠回帰)は本当に生の肯定を促すのか~

          初期西田哲学に於ける自由意志論変遷の理由について  ―『善の研究』から『自覚に於ける直観と反省』へ―

          (下のリンク先が完全版ですが、本稿も記念に残しておきます。) 緒言  本稿の試みるのは、西田幾多郎の『善の研究』から『自覚に於ける直観と反省』へ至る上での自由意志論の変遷の理由を探ることである。『善の研究』では、「絶対自由の意志」(「絶対的自由意志」)は、自由意志のありかたとして認められていない((1)第四編第三章p231)。本稿第一節で詳述するが、『善の研究』では、意志の自由とはあくまで「必然的自由」である。対して、西田の次の長編論文である『自覚に於ける直観と反省』では

          初期西田哲学に於ける自由意志論変遷の理由について  ―『善の研究』から『自覚に於ける直観と反省』へ―

          村上重良氏の象徴天皇観をめぐって  ー 伝統との融和か、妥協なき理論主義か ー

          1,序  私自身日本人として天皇陛下や皇族の方々に自然な敬愛の念を抱いており、皇室について学んで考え自分の意見を持ちたいと思い、保守派のみならず批判的論客の皇室論も読もうとするに至った。天皇のあり方への批判というのが如何なるものかを知っておき、さらに自分でその批判への批判を考える事で、この分野についての私の意見をより深みあるものにしようと思ったのである。そこで、村上重良氏の「日本史の中の天皇(講談社学術文庫)」(原本は同氏の「天皇と日本文化」)という著書を選んだ。この書が私の

          村上重良氏の象徴天皇観をめぐって  ー 伝統との融和か、妥協なき理論主義か ー

          ジャンル分け論 文学とかメタルとか

           大抵のジャンルに於いて、初期のものは、後代のものを特に愛好する者にとっては退屈だったり欠陥が多かったりする。一方で、初期のものには後代のものにはない味がある。何故このような事が起こるかと言えば、一般にジャンル分けとは、後代のものを知る人間による後付け的抽象化だからだ。そして、特定の成分の抽出である故に、ジャンル内での発展とは先鋭化の歴史である。影響を受けた者が開祖や先代の作品の「余計な部分」を削ぎ落としてジャンルの成分の凝縮される方向に先鋭化していく。ジャンルの発展とは何か

          ジャンル分け論 文学とかメタルとか

          その本、あなたに向けて書かれたものですか?

           人は本を読み、賢い人の考えを盗む。これは自分に適した本なら良いことだ。そのような読書体験はその人に生き方の善き指針を与えてくれる。対して、自分に適していない本の内容を字面通り受け取るならば、その人は自分自身に必要な筈の助言とは全く異なる助言に突き動かされる危険性がある。その本が直接的な人生の指針を説いた本である程、その指針が極論である程、その危険性は増す。  例えば、とある成功した投資家の書いた自己啓発本をA君が読むとする。その本には、「貯金なんかしなくても有り金全てを使

          その本、あなたに向けて書かれたものですか?