『善の研究』の自由意志論の欠陥   ―なぜ、西田は後に「絶対自由の意志」を認めたのか―

緒言

 本稿の試みるのは、西田幾多郎の『善の研究』から『自覚に於ける直観と反省』へ至る上での自由意志論の変遷の理由を探ることである。『善の研究』では、「絶対自由の意志」(「絶対的自由意志」)は、自由意志のありかたとして認められていない((1)第四編第三章p231)。本稿第一章で詳述するが、『善の研究』では、意志の自由とはあくまで「必然的自由」である。対して、西田の次の長編論文である『自覚に於ける直観と反省』では、我々の自由意志は絶対自由の意志の中に於いてあるとされる((2)「四十一」p296)。このような、偶然を認めぬ必然的自由意志論((1)第三編第三章p143)から偶然を認める絶対的自由意志論((2)「四十一」p298)への変遷は、何故西田の内で起こらねばならなかったのか。私の出した結論によると、それは『善の研究』の自由意志論は自家撞着に陥っていたからである。この書の自由意志論は、丁寧に追っていけば、実は意志の自由を実質的には全く認めていないものだと言わざるを得ない。また、この書の自由意志論について言及している先行研究は、その自家撞着のことや、『善の研究』から『自覚に於ける直観と反省』へ至る上で自由意志論の内容が真逆に転じたことを指摘していない((3)p80,p81)((4)p88~90)((5)p108,118)。因みに、ここに挙げた先行研究は、J-STAGEの日本語論文の内、本稿の内容に関連するものを集めたものである。

第一章

 『善の研究』に於ける意志の自由の定義を示す。まず、この書の序盤の記述から。

「また我々は普通に意志は自由であるといっている。しかしいわゆる自由とは如何なることをいうのであろうか。元来我々の欲求は我々に与えられた者であって、自由にこれを生ずることはできない。ただ或与えられた最深の動機に従うて働いた時には、自己が能動であって自由であったと感ぜられるのである、これに反し、かかる動機に反して働いた時は強迫を感ずるのである、これが自由の真意義である。」((1)第一編第三章p44)

中盤、終盤にも自由の意義についての記述がある。

「自由には二つの意義がある。一は全く原因がない即ち偶然ということと同意義の自由であって、一は自分が外の束縛を受けない、己自らにて働く意味の自由である。即ち必然的自由の意義である。」((1)第三編第三章p143)

「次に意志の自由ということにも色々の意味はあるが、真の自由とは自己の内面的性質より働くといういわゆる必然的自由の意味でなければならぬ。全く原因のない意志というようのことは啻に不合理であるばかりでなく、此の如きものは自己においても全く偶然の出来事であって、自己の自由的行為とは感ぜられぬであろう。」((1)第四編第三章p227,228)

これらがこの書に於ける自由の定義だ。要するに、意志の自由とは必然的なもので、「或与えられた最深の動機に従って働」くことが自由とされる。無原因の偶然的自由、即ち緒言で触れた「絶対自由の意志」は真の意志の自由でないという立場だ。
 ここで、本稿での議論のため、この二種類の「自由」にそれぞれ私がここで名前を付ける。一つ目は、ここでの西田にとって真の意志の自由でないもの、即ち、「全く原因がない」自由である。これを「自由A」と名づける。二つ目は、ここでの西田にとっての真の意志の自由、即ち、動機に従って働く上での自由の感である。これを「自由B」と名付ける。

 また、補足すると、ここで西田の言う「必然的自由」の「原因」とは、機械論的原因ではない。

「つまり動機の原因が自己の最深なる内面的性質より出でた時、最も自由と感ずるのである。しかしそのいわゆる意志の理由なる者は必然論者のいうような機械的原因ではない。我々の精神には精神活動の法則がある。精神がこの己自身の法則に従うて働いた時が真に自由であるのである。」((1)第三編第三章p142)

この書は、「真実在」とは自然科学で言う物質でなく意識現象であるという立場だから、当然、意志の原因(理由)も自然科学的因果の上の話ではない。
 

第二章

 前章では『善の研究』での意志の自由の何たるかと私による用語の定義を紹介したが、本章ではこの書の自由意志論の問題点を指摘する。緒言の終盤でも述べたが、この書での西田は、自由とは「必然的自由」だと定義した故に、実質的には我々の意志の自由を全く認めていない。
 この西田の自由意志論の矛盾の論証のため、ここで「選択の自由」について取り上げる。選択の自由が如何なるものかについては、以下の記述がある。

「ただ観念成立の先在的法則の範囲内において、而も観念結合に二つ以上の途があり、これらの結合の強度が強迫的ならざる場合においてのみ、全然選択の自由を有するのである。」((1)第三編第三章p139)
 
要するに、外界や肉体の現象とされるものどころか内界の現象とされることの大半(新たな観念の創造、経験の想起など)でさえ思い通りに操作することは我々には不可能であり、ただ観念の結合についてのみ限定された局面で選択の自由があるということだ。ここで問題になるのが、この選択の自由についての記述が、西田が肯定する為に書いたのか否定する為に書いたのか曖昧である点だ。上に引用した箇所のある段落を読む限りでは、選択の自由のあることは肯定的に論証されているように取れる。しかし、その直後の段落ではこう言っている。

「自由意志論を主張する人は、多くこの内界経験の事実を根拠として立論するのである。右の範囲内において動機を選択決定するのは全く我々の自由に属し、我々の他に理由はない、この決定は外界の事情または内界の気質、習慣、性格より独立せる意志という一の神秘力に由るものと考えている。即ち観念の結合の外にこれを支配する一の力があると考えている。」((1)第三編第三章p139)

「この内界経験の事実」とは、前述の観念結合での選択の自由である。そして、この「自由意志論を主張する人」を、同じく第三編第三章内で西田は「自由意志論者のいうような全く原因も理由もない意志はどこにもない」と批判している。よって、本稿では、念の為、この「選択の自由」を西田が認めたとした場合と、西田が認めなかったとした場合とを両方吟味していく。
 まず、西田が選択の自由を認めたと我々がみなした場合について考える。この場合、観念結合に於ける選択の自由の範囲内で最深の動機に従うと自由Bが得られるということになる。そして、この書で西田の言う自由とは必然的自由であり、この選択の自由もまた自由であるからには最深の動機に従う上での必然的なものである。しかし、その動機に従うか否かに於いて、また選択の自由がある。その選択の自由がまた必然的なものだから、その元にまた動機というものがあり、動機に従うか否かに於いてまた自由がある。この動機と選択の無限降下を、図1に示す。図から分かる通り、例え選択の自由を認め、その元にもまた選択の自由を認めたとしても自由Aをその要素として認めない限り、「選択の自由」は完全に必然的となる。つまり、決定論的なものとなる。選択すら決定論的ならば、実質に於いてはなんら選択の自由があるとはいえない。よって、実質的な真の「選択の自由」は、何らかの必然的なものを要素として持つとしても、必然を脱した偶然的自由からも成っていなければならないと論理的に導かれる。つまり、選択の自由とは、本来、自由Aを要素として持つもの又は自由Aそのものである。しかし、西田は自由Aを少なくとも『善の研究』では否定している。よって、選択の自由を認めた場合は、自由Aのあることを我々は認めざるを得ないので『善の研究』の自由意志論は自家撞着に陥っている。

図1

 次に、西田が選択の自由を認めていないと我々がみなした場合を考える。この場合、選択の自由がないので、我々の行為は完全に決定論の内に考えられる。しかし、西田は、我々が自由であること又は自由であると信じることの故に、「責任、無責任、自負、後悔、賞讃、非難等の念が起ってくる」としている((1)第三篇第三章p138)。選択の自由がなければ、行為への我々の責任は虚妄となる。これでは、必然的自由(自由B)というのは責任と無縁のものであり、常識的な倫理にあまりにも反する。また、前段落より、真の「選択の自由」とは自由Aを要素として持つもの又は自由Aそのものだから、選択の自由の否定は自由Aの否定である。  選択の自由についての二つの場合をまとめると、どちらにせよこの書の自由意志論は、自由Aを否定し自由Bのみを真の自由と定義した故に、実質において意志の自由を認めていない。ここに、その自家撞着が論証された。必然的自由とはあくまで「自由の感」なのであり、自由たることではない。『自覚に於ける直観と反省』で、西田が自由Aと同一又は類似の「絶対自由の意志」を認めた理由の一つは、この自家撞着だろう。『善の研究』での西田は、意志の原因・動機は機械論的(自然科学的)原因でないと言って消極的に意志の自由を示そうとした一方で、如何にして意志は自由であるかを積極的に示し得なかったのだ。

第三章

必然的自由意志論の矛盾の論証、そして自由意志論変遷の理由の考察については前章にて述べた。本稿の主目的は前章にて果たされたと言えるのだが、本章では、前章で私が示したことを踏まえつつ、『善の研究』中のソクラテスとパスカルの話について考察する。これを通してこそ、西田が『善の研究』の自由意志論を通して伝えたかったであろう事を我々はより完全な形で理解できる。
 『善の研究の第三編第三章「意志の自由」の中で最も教訓的な箇所は以下の段落だろう。

「人は他より制せられ圧せられてもこれを知るが故に、この抑圧以外に脱しているのである。更に進んでよくその已むを得ざる所以を自得すれば、抑圧がかえって自己の自由となる。ソクラテースを毒殺せしアゼンス人よりも、ソクラテースの方が自由の人である。パスカルも、「人は葦の如き弱き者である、しかし人は考える葦である、全世界が彼を滅さんとするも彼は彼が死することを、自知するが故に殺す者より尚し」といっている。」((1)第三編第三章p144)

一見すると、「人生の絶望的場面に於いてもその理由を知っていれば、人は自由である」という深い人生観を示した名文の連なりである。実際、西田の伝えたかった人生観はそうであろうし、その人生観・倫理観自体には私自身も賛同している。しかし、この箇所も注意深く読み解けば、自由意志論として欠陥がある。
 まず、必然的自由意志論か絶対的自由意志論か否かということ以前の問題だが、単に抑圧の理由を「知る」だけで人は自由になるのだとしていることである。実際に我々が何か抑圧を受けている場面を想像するとして、抑圧の理由をただ知っているだけで、動機に従って得られる必然的自由(自由B)を得られるだろうか。理由を知るのみでなく、知った上で納得せねば「自由の感」は得られまい。確かに理由を知る程に抑圧に納得しやすくなるが、それでも依然として理由を知るのみで不満を垂れるという選択肢もあるのだ。つまり、自由Bのためには、抑圧の理由を知った上で、更に「抑圧という現状に納得する」という意志の決断が必要なのだ。この納得の意志の決断がなければ、最深の動機に従うということさえ完全に決定論的となる。この意志の決断について西田は上の引用箇所で触れていない。「意志なき自由」なるものは、例え有り得るとしても、文字通り当然ながら「意志の自由」ではないのだ。
 次に問題となって来るのが、抑圧の現状に納得するか否かという意志の決断での選択の自由を認めたとしても、前章で私が示したように、『善の研究』に於いてはその選択の自由が完全に必然的であることである。これでは、深い倫理観も単なる決定論に内包されることとなってしまう。如何に厳しい身体的不自由の下にあるとしても、最低限の自由A(偶然的自由)すらないのでは、自由の感を得るか否かすら決定論的となる。よって、上で引用したソクラテスとパスカルの話が意味ある人生観として成り立つためにも、必然を脱した自由(自由A)を認める必要がある。
 引用したソクラテスとパスカルの話の自由意志論の欠陥を示したが、ここからは、件の箇所で言う「知る」ということの意味を考えてみたい。これを考え直してこそ、『善の研究』で語られた人生観をより深く理解できるだろう。自由の感(自由B)のために抑圧の理由を「知る」ということは、抑圧の科学的な原因や抑圧する権力の構造を理解することなどに限らない。科学的理由や政治的理由などの理屈を理解できずとも、抑圧を例えば「神の啓示、試練」として捉えて敬虔さを以て納得するということもあり得る。そもそも、他ならぬ『善の研究』によれば、「知る」ということは全て、信仰と無縁でない。科学的営みもまた信仰と完全に没交渉ではない。

「以上少しく知と愛との関係を述べた所で、今これを宗教上の事に当てはめて考えて見よう。主観は自力である、客観は他力である。我々が物を知り物を愛すというのは自力をすてて他力の信心に入る謂である。」((1)第四編第五章p245)

ならば、(形式的な論理の上では不自然な結論の導出になるが)、普通に言われる知識の類がなくとも、敬虔な態度で抑圧を受け入れるという意味で「物を知り」そして納得の意志の決断を下せば、人は抑圧の元で自由の感(自由B)を得られると言えまいか。

参考文献

(1)「善の研究」西田幾多郎著、岩波書店(岩波文庫、青124-1)、1979年改版

(2)「西田幾多郎全集」第二巻(全十九巻)『自覚に於ける直観と反省』、岩波書店、1950年

(3)「私と汝 西田哲学における自由意志の問題を中心に」、 石井 砂母亜、2009

(4)「西田幾多郎の自由意志論 自由と悪の問題をめぐって」、田口招、2006年

(5)「『善の研究』における純粋経験の究極相 平常性とは何か」、佐野 之人、2020年 
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jnpa/17/0/17_106/_article/-char/ja


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?