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masa
2020年5月13日 12:02
母はよく冷やし中華を作った。一年中、いつでも。母は季節感を忘れたように、冷やし中華を作った。季節を忘れてしまったかのようだった。「好きなものを、好きなときに食べる。これが一番の幸せでしょ」 母はそう言った。 僕はテーブルの上に置かれた皿を見た。そこには色鮮やかな冷やし中華があった。 冷やし中華って、なんで冷やし中華なんだろう。ふと、母に尋ねた。小学生の頃だったように思う。母はもちろん
2020年5月12日 18:09
私は、知らないのよ。本当に、そんなこと。だってそうでしょ? あの子があんなことしているなんて思いもよらなかったのよ。 たまたま、たまたま見たの。お金を盗んで、そう。だから、私はそれを、伝えたの。知り合いの人に、ね。直接言ったわけではなくて、ただ、ふっと漏らしてしまったの。そしたら、めぐりめぐって、彼女が、やったってばれたの。 私は、悪意があったわけではなくて、ほんとに、ぽろりと。そうな
2020年5月11日 16:59
「眠れなくなるよ」 礼美が言った。 僕はコーヒーを飲んでいた。時間は午後10時を回っていた。「大丈夫。カフェインが効かない体質なんだ」「私なんて、3時以降に飲んだらもうアウトだけどね」 彼女はコーヒーをあまり飲まない。飲まないのに、食事が終わるとコーヒーを入れてくれる。カップの横にはミルクが一つ置いてある。彼女は僕の好みを知っているのだ。 夕食後に飲み、あまったコーヒーを風呂上
2020年5月9日 18:54
光が追いついてくる。闇夜を厳かに照らそうとする。影は、ビルの隙間に隠れた。 肉体がほどけていく。実体が欠けていく。 もとから実体なんてないじゃないか。影は小さく呟く。 俺は死んで、影になった。影でも生きていたかったのだ。世界への未練、残された、君。 「あなたは、いつも遠くを見すぎるのよ。未来を見るのはいいと思う。大切なこと。でも、足元をもうちょっと見てもいいのかなってそう
2020年5月8日 20:54
シーラカンスは、古生代のデボン紀に出現してから現在まで、それほど体の形を変えていない。正雄はそう聞いた。 化石で見つかるシーラカンスが、現在の姿とまったく同じであるわけではないが、それでも形の変化はわずかであり、少しずつゆっくり進化を遂げたのだという。 生きた化石。シーラカンス。検索すると画像はたくさん出てきた。パソコンのディスプレイには古代の形をとどめる魚の姿があった。 いつだった
2020年4月25日 09:21
灯台が立っている。力強く、岬の上に。 僕と真也子は灯台を見上げていた。 コンクリートの土手に波が打ち付け、しぶきを上げた。 昔、ここに美しい浜辺があった。海の家がいくつも並び、海水浴を楽しむ人々で溢れていた。幼い頃を思い返すと、蘇るのは浜辺に連なる海の家であり、そこを行き交う人々の笑顔ばかりである。 小さい頃、あの灯台へ行った。小学生の頃だ。 真也子も一緒だったと記憶している。彼
2020年4月24日 09:20
雄介の作った紙飛行機は、校舎の向こうまで飛んだ。クラスの誰もそんな飛距離を想像していなかった。先生も想像していなかった。 結局、紙飛行機は校舎に隣接する家の敷地に落ちた。 後で、担任の先生と雄介が飛行機を回収に行った。 康太は、その様子を教室からじっと見ていた。 『紙飛行機をどうやったら遠くまで飛ばせるのか』 ある日、そんなテーマの授業があった。紙飛行機を作って飛ばす。単純
2020年4月23日 13:38
牛嶋神社の横に、ひょうたん池と呼ばれる場所がある。それは名前の通りひょうたんのような形の池だった。 幼い頃、その池でメダカをよく取った。水面を覗くと、すいすい泳ぐメダカがいた。 小さい頃、その池はとても大きく見えた。幼い頃の記憶は曖昧だが、あのひょうたん池の様子はしっかりと脳裏に刻み込まれている。 ペットボトルに入れて、家に持ち帰った。母は怒ったが、父は興味を持った。父と私は近所の熱帯
2020年4月22日 12:21
目玉焼きは、完熟がいい。私は完熟が好きだ。固い方がいい。固い身をぐっと噛んで、崩れていく黄身の感覚が好き。 でも、彼は半熟が好きだ。 私が目玉焼きを作ると、彼はいつも文句を言う。もっと、柔らかい方が好きだと。 でも、私は完熟にする。 彼の好みとは違うものを作る。それは私のささやかな抵抗。 なんでも、彼に合わせては面白くない。 静かな朝食の時間、彼は目玉焼きを見ていつもと同じ文
2020年4月21日 11:45
僕らは、幼馴染だった。 陽菜、正樹、僕。僕らはいつも一緒にいた。 正樹は地図が好きで、将来は地図を作る人になりたいと言った。陽菜は、おとなしい子だったが、芯が強く、一度こうと決めたらなんでも最後までやりきった。 三人で、よく地図を作って遊んだ。画用紙に架空の町の地図を描き、自分たちだけの町を作る。そこは僕らの町だった。僕らしか入ることのできない特別な町だったのだ。 出来上がった地図
2020年4月19日 09:05
チク、タク、チク、タク、 チク、タク、チク、タク、 メトロノームは冷静に時を刻み続けた。この時がいつか終わるのではないか。そんな気がしていた。 彼女はメトロノームの音の振幅数を一分間60に設定した。 チク、タク、チク、タク、「なんだか、心臓みたい。とくんとくんって」 と彼女は言った。 彼女がピアノを習うと言いはじめたのは、大学2年生の時だった。幼稚園の先生になるから、という
2020年4月18日 08:43
美咲は、鶴を折っていた。 とても小さな手で、驚くほど綺麗な鶴を折った。 その鶴はいまにも、飛び出しそうに思えた。「鶴って、渡り鳥なの、知ってる?」 と彼女は言った。 渡り鳥。 そうだ。鶴は日本の鳥ではない。 ある季節だけ日本にやってきて、また次の季節には次の国へと旅立つのだ。 「同じ場所に戻ってくるって、どういう気持ちなんだろう。故郷みたいな感じかな」 彼女は笑った。しか
2020年4月17日 16:51
ノートに大きく花丸が書かれた。 「素晴らしい!」 先生は大きな声でそう言った。 小学校が終わったあと、私はすぐに塾へと向かった。塾に行って、その日の宿題をするのだ。 勉強が好きだったのか。決してそういうわけではない。ただ、私は先生に褒められたかったのだ。 先生の名前は知らない。当時、塾に行っていた人みんなに聞いても、先生の名前を憶えている人は誰もいなかった。 その塾は小さい塾
2020年4月16日 17:52
彼女は、よく辞書を読んでいた。 休み時間になると、辞書をめくっては視線を落とし、新しい言葉を探していた。 僕にとって辞書とは「読み物」ではなく「道具」だった。言葉を探す道具。そう思っていた。「例えばね、新しいクラスになって、新しい友達と会うって楽しいでしょ? そういう感じなの。ぱらぱらってめくって、素敵な友達と会えたらって思うと楽しく読めるでしょ」 彼女は、そう言っていた。彼女にとって