小説 辞書
彼女は、よく辞書を読んでいた。
休み時間になると、辞書をめくっては視線を落とし、新しい言葉を探していた。
僕にとって辞書とは「読み物」ではなく「道具」だった。言葉を探す道具。そう思っていた。
「例えばね、新しいクラスになって、新しい友達と会うって楽しいでしょ? そういう感じなの。ぱらぱらってめくって、素敵な友達と会えたらって思うと楽しく読めるでしょ」
彼女は、そう言っていた。彼女にとっては辞書とは読み物でも、道具でもなかった。彼女にとってそれは出会い。新しい言葉との「出会い」だった。
彼女はとても頭が良くて、学校のテストではいつも上位にいた。でも、彼女はそんなことにはあまり興味がないようだった。物静かで、控えめで、眼鏡の奥の柔和な視線は、いつも文字に向かって進んでいた。
僕は彼女が気になってしょうがなかった。どんな辞書を引いても、この感情を捕まえることはできないだろうと思った。僕は彼女に、恋をしていた。
彼女は誰にでも優しかった。じっくりと集めた言葉を、赤ん坊の頭を撫でるように繊細に扱った。言葉が彼女を待っているように思えた。
学校裏サイトに彼女の悪口が書かれているのを見つけたのはそれからしばらくしてからだった。誰が書いたか。犯人はわからなかった。誰もが、表情を殺した。仮面をかぶって、教室に来て、終わりのチャイムが鳴るのを待った。
彼女は何事もなかったかのように、毎日を紡いでいった。ありもしない噂が、彼女から離れた場所で一人歩きしていった。虚構の中の彼女は、乱暴で、狡猾だった。
憎しみが、彼女へと落ちていく。誰も助けることができなかった。
みんな、自分を守りたかった。
僕も、何もできなかった。
彼女は言葉を探し続けた。自分を、支えてくれる言葉を。
ある日、彼女の辞書はカッターで切られた状態で発見された。
彼女はそれを見て、口を固く結び、表情を殺した。
それから彼女は学校に顔を見せなくなった。
そのまま、彼女は学校をやめた。
彼女は、まだ言葉を探しているのだろうか。
僕は彼女を探した。しかし、見つけることはできなかった。
どの辞書を引けば、彼女にたどりつけるのだろう。
彼女が記憶されている辞書なんて世界にはないように思えた。彼女は幻だったのではないか。
彼女があの日、見つけたのは、人の弱さそのものなんだ。
どうして、あの時何もできなかったのだろう。
「大丈夫だ」「気にするな」「僕がいる」。なぜ、彼女のための言葉を引き出すことができなかったのだろう。
後悔が、雪のように心に積もる。
時間だけが過ぎていった。
大学2年生の時、地元の図書館前でばったり彼女と再会した。
お互い、言葉を持たなかった。彼女の視線はまっすぐで、あの日、辞書から言葉を掬いあげていた頃のままだ。
彼女は、小さく会釈をして、去っていった。
伝えたいことが、あった。おそらく、たくさん。
でも、言葉が渋滞して、出てこない。雑巾をしぼるように、僕は乾いた喉から言葉をひねりだした。
「あの」
言葉にした時に、時間が止まったような気がした。
彼女が立ち止まり、振り返る。
伝えたいことが、あるんだ。後悔の辞書の中に、書き込んだ言葉。
青春の中に置き忘れた感情。
伝えなければいけないことが、あるんだ。
「この前、新しい辞書、買ったんだ」
翻訳し損ねた感情が、あいまいな言葉になって出た。どんな辞書を用いても、一番大切な感情を言葉にすることは難しいのだ。
彼女は呆気に取られていたが、すぐにその唇を緩めて笑みを浮かべた。
「新しい友達と会えた?」
彼女はそう言った。あの頃の、彼女がそこにいた。
青春の刹那に交わした言葉を彼女は大切に持っていたのだ。
瞬間、力が抜けた。後悔と共に体にため込んだ言葉が体から離れていった。
体が軽くなったような気がした。僕は自分の中に残されたわずかな言葉を彼女に伝えた。
「会いたかった」
「え?」
「君に会いたかったんだ」
彼女は虚をつかれたように、視線をそらした。少しの間、沈黙を彷徨って言った。
「なんだろう、うまく言葉が見つからないね」
彼女は小さく笑いながら言った。
「大切なことは、辞書には、書かれていないんだよ。きっと」
僕はそう答えた。
「あの時、不安を打ち消すためにたくさんの言葉を探した。でも、見つからなかった」
彼女は過去を飲み込みながら、言葉を紡いだ。
「随分、時間かかったけど、今見つかった気がする」
彼女は今まで見たことのないような満面の笑みを浮かべた。
彼女はよく、辞書を読んでいた。
そんな彼女に僕は恋をしていたのだ。
分厚い世界の辞書から、彼女を見つけた。
人はきっとそれを運命と名付けるのだと思う。
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