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小説 メダカ

 牛嶋神社の横に、ひょうたん池と呼ばれる場所がある。それは名前の通りひょうたんのような形の池だった。
 
幼い頃、その池でメダカをよく取った。水面を覗くと、すいすい泳ぐメダカがいた。
 小さい頃、その池はとても大きく見えた。幼い頃の記憶は曖昧だが、あのひょうたん池の様子はしっかりと脳裏に刻み込まれている。

 ペットボトルに入れて、家に持ち帰った。母は怒ったが、父は興味を持った。父と私は近所の熱帯魚ショップに行って、水槽、水草、ポンプなど必要なものを買ってきた。
「小さいころ、お父さんもメダカを飼おうとして、母さんに止められたんだよな」
 父はそう言った。父の悔恨を息子にもあわせたくない。そのような思いがあったのかもしれない。
 

 
 水槽の中で、メダカは元気に泳いでいた。僕よりも父親の方が張り切って、メダカの世話をしていた。
 
 次第に僕のメダカへの興味は完全になくなってしまった。子どもなんてそんなものだろう。でも、父は飽きずにずっとメダカの世話をしていた。 

 父は水槽にもこだわって、高価なものを購入をした。電源を入れると、ライトアップされて、夜でもメダカを鑑賞することができた。光の世界を悠々と泳ぐメダカはいつもとは違う生物のように見えた。

 あまりにメダカに熱中するので、母が注意した。
「一度こり出すと止まらないタイプなんだ」
 と返答した。母はあきれて何も言わなくなった。


 父がうつ病と診断されたのは、それから一月以上経ってからだ。
 様子が変だと気づいたのは母だった。一日中、呆然とメダカを眺めている。それ以外のことは何もしない。疑惑を抱いた母が、父を病院へと連れていった。
  
 父は4月に新しい部署に移動し、営業を担当することになった。そこで上司とウマが合わず、次第にふせぎ込むようになっていった。
 
 メダカにこだわっていたのも、仕事を忘れるためではなかったか。
 今振り返ると、そう思う。
 無理がたたり、病気になった。まだうつ病という言葉が浸透する前の話だった。家族もどうすればいいのかわからなかった。


 父は休職し、療養することになった。たまに、父はメダカに話しかける。メダカは反応しない。ただ、悠然と泳ぐだけである。
 
 僕も休みの日に、メダカを見た。
 メダカは、何もなかったかのようにそこにいるだけである。
 メダカは世界のどんな喧騒も気にしない。
 
 メダカのように生きる。
 父は、そんなことを時折口走る。
 窒息しない、体があれば、水の中はどんなに気持ちがいいだろう、と。
 
 ある日、父とひょうたん池に行った。
 父は、僕よりも張り切ってメダカを捕まえた。
 水槽に新しいメダカが増えた。父は楽しそうにそれを見ていた。
「メダカも、大変だな」
 父は言った。
「どうして?」
 と僕は聞いた。
「人間に、捕まって、こんな水槽の中に入れられてしまうんなんて」
 メダカを見る父の目は冷たかった。
「俺は、何に捕まっているんだろう」
 互いに言葉を持たなかった。ポンプが水を循環させる音だけが鳴った。
 
 それから二ヶ月後、父は復職した。
 メダカのままではいられない。
 父は家を出る時にそう言った。
  
 今日も水槽で、メダカは泳ぐ。
 そのメダカは、それから2年ほど生きて、ある日突然動かなくなった。
 突然の死だった。
  

 父は、動かなくなったメダカをしばらく見ていた。
 そして誰にも聞こえない小さな声で、ありがとう、と言った。

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