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小説 赤鉛筆

 ノートに大きく花丸が書かれた。
 「素晴らしい!」

 先生は大きな声でそう言った。
 小学校が終わったあと、私はすぐに塾へと向かった。塾に行って、その日の宿題をするのだ。

 勉強が好きだったのか。決してそういうわけではない。ただ、私は先生に褒められたかったのだ。

 先生の名前は知らない。当時、塾に行っていた人みんなに聞いても、先生の名前を憶えている人は誰もいなかった。

 その塾は小さい塾で、先生の人数も多くはなかった。だからみんな仲が良かった。

 小テストをやって、先生が丸付けをしてくれる。先生はいつも赤鉛筆を使っていた。しかも、小さい小さいやつだ。補助用のホルダーを使って、やって使えるようになるくらいの。

 他の先生はみんな赤いボールペンを使っていた。先生だけじゃなくて、生徒だってみんな赤いボールペンを使っていた。

 授業前になると、先生が赤鉛筆を削っていた。短くなって、鉛筆削りに入らないので、カッターで丁寧に削っていた。
 生徒からは「赤鉛筆」と呼ばれてからかわれていた。みんなから好かれていた。

 でも、いざ赤鉛筆で丸をつけてもらうと嬉しかった。ボールペンの字は、線が鋭い。シャープな輪郭の筆跡で、文字の骨格が露骨に出る。先生の赤鉛筆の筆跡は、マイルドな輪郭を持っていた。ふわりと色が伸びて、とらえどころのない曖昧な表情がその線から見てとれた。

 私はその柔らかい線が好きだった。雑味が多くて、ややこしい線。

 ある日、私は文房具屋で赤鉛筆と、小さい鉛筆削りを買った。

 芯をとがらせて、ノートに自分の名前を書いた。先生の文字とは違う線が出た。こんな感じではないんだけどな。そう思って、何度か書いた。 

 しばらく書くうちに、丸っこい線が書けるようになった。必ずしも書きやすい状態ではないように思った。でも、その不器用な線の厚みが、かえって鋭利な線よりも、愛らしく映った。
 
 「赤鉛筆使うなんて、時代遅れだよ」

 先生は生徒にそうからかわれていた。私は、なんとなく恥ずかしくて買った赤鉛筆を使えずにいた。
 「先生、私も赤鉛筆買ったんだよ」
 そう素直に言えればよかった。でも、言えなかった。
 
 私の筆箱の中に入っていた赤鉛筆を一人の男子がめざとく見つけた。
「お前、赤鉛筆じゃん。時代遅れだなあ」
 といって赤鉛筆を持って、塾生全員に見せた。私は恥ずかしかった。
 
 私が赤鉛筆を持っているという事実が、塾生に知られるのがとても恥ずかしかった。自分の内面を見透かされたように思えた。
「ちょっと、やめてよ」
 私は男子生徒に詰め寄った。男子生徒はなおも、時代遅れと言ってからかった。
 
「そんなもの私が使うわけないでしょ。お母さんに無理やり持たされたのよ。そんな時代遅れのもの使うわけないじゃない」
 私は大声で叫んだ。塾生みんながこちらを見た。

 ふと、私は先生と目が合った。先生は、何も言わなかった。
 私は、怒ってほしかった。
 いっそのこと、怒鳴ってほしかった。でも、先生は何も言わなかった。

 小テストがあった。
 先生はまた赤鉛筆で丸をつけてくれた。大きな、大きな花丸だった。
 私はなんとなく、先生の顔を見られなくなってしまった。
 下を向いて、目を合わせないようにした。

 それからしばらくして先生は塾をやめることになった。
 教員採用試験に受かったとのことで、塾をやめることになった。後で、そう聞いた。

 私の心は、とがった赤鉛筆だった。
 何も知らないままに、鋭利な線で相手を傷つけたのだ。
 私はノートを赤鉛筆でぐちゃぐちゃにした。
 私の心を、誰にも読んでもらいたくなかった。

 

 塾生全員で寄せ書きをすることになった。
 みんな、色紙に思い思いの言葉を書いた。

 私は先端が丸まって、書きづらくなった赤鉛筆で、一言書いた。 

 『ありがとうございました』
 なんて読みにくい字だ。私はそう思った。

 最後の授業、寄せ書きをみんなで渡した。みんなはカラフルな色ペンを使っていて、私だけ赤鉛筆で書いたものだから、変に目立っていた。
 先生は、ありがとう、と笑顔で言った。
 
 それ以来、先生には会っていない。

 

 昨年、実家を片付けていたら、昔のプリントが沢山でてきた。
 先生の花丸がついたプリント。
 花丸だけではなく、がんばれ、と先生のメッセージが書いてあった。
 がんばれ、よくやった、すごいぞ。
 言葉が、溢れる。

 記憶が遠くからやってきた。十年前の記憶が、鮮明に蘇ってきた。

 私は、丸くなったのだろうか。
 とがった赤鉛筆のような自分から抜け出せたのだろうか。
  
 今も、先生は私に花丸をくれるだろうか。
 
 私はペンケースから赤鉛筆を取り出し、補助用のホルダーを抜いた。
 小さい、小さい赤鉛筆だ。

 「私も、時代遅れだ」 

 近くにあった、メモ用紙に私は花丸を書いた。大きな、大きな花丸だ。
先生の代わりに、今の私に花丸を書いた。
 
 「素晴らしい!」

  先生の声が聞こえたような気がした。

 昔塾があった場所は、空き地になっていた。
 思い出だけ残して、建物は消えた。

 私はかつて塾があった場所に向かって、短くなった赤鉛筆を投げた。
 ころんと赤鉛筆が地面に転がった。

 私は誰にも聞こえないように、ありがとう、と呟き、その場を去った。

 
  
 

 
 

 

 

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