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友達という概念が存在しない

そう、私には友達と呼べる人が一人もいない。

いないというよりカテゴリーが存在しない、と言った方が正しいかもしれない。

存在するのは「知人」「同志」「信頼(尊敬)する人」の3つだ。

これらに振り分けて、相応の距離感で接することを心掛けている。

いまや、SNSの普及で人間関係が可視化されている現代社会である。

「人とのつながり」や、「本当の友達」の存在を重要視する人も多いだろう。しかし、その一方で、いつか裏切られて辛い思いをするくらいなら、友達なんかいらないという人もいるはずだ。

なんとも難しいのが「友達」というわけだが、そもそも人々は、「友達」をどんな存在だと思い、何を求めているのだろうか。

とある雑誌で50代から70代の男女300人に「あなたが友達に求めるものは何ですか?」というアンケート調査が実施された。


最も多い回答は「日々の話し相手」。次に「一緒に趣味を楽しみたい」、そして「飲み友達」と続いた。

 心理学者の植木理恵氏は、オーストリアの精神分析的自己心理学の提唱者、ハインツ・コフートの考えを引き合いに、「人は3つの条件に見合う人と過ごせれば、幸せ」と語る。

まず『鏡』。
これは赤ちゃんがハイハイしたら“よくできたね”とか、咳をしたら“風邪ひいたの?”と反応してくれる、お母さんみたいな存在。SNSの、いわゆる“いいね!”と同じです。

次に『野心』。
ああいう風になりたい、この人を超えたいとジェラシーを持たせてくれるような存在です。父親の場合が多いんですが、そういう人も人生で必要だということです。

そして『双子』。
たとえば震災などで家族を失ったかたに、私の家もそうだった、と寄り添える存在。被災者など、同じ体験をした人がそれにあたります


 植木氏に言わせると、実は家族や職場や趣味の場などで、すでにその3つの条件が満たされている人は多い。それなのに多くの人は、満たされていることに気づかず、新たな友達づくりに一生懸命だと指摘する。

「しかもその友達がどの要素も当てはまらないどころか、足を引っ張る存在になっていることがほとんどですから。そんな人とはつきあわなくてもよろしい、というのが私の持論です。私ですか? はい、友達はいません(笑い)」(植木氏)

髪形を変えると「なんで切っちゃったの、前の方がよかったのに~」と否定する人。


悩んでいる時に「私だったらそれはしない」と突き放す人…ああ、いるいる。あなたにも思い当たる節があるのではないだろうか。


こんなの友達じゃない。本当の友達がほしい──。
しかし一方で、安易に友達の数を増やし、そのことで安心を覚える人もいる。

大学生など若い世代を中心に広がるのが、SNS上の「いいね」や「フォロワー数」偏重主義だ。


数字として何人とつながっているか、何人が肯定してくれたかが映し出されるその数が、そのまま友達の数=リア充ととらえられている。

そう考えると、世代によっても、友達の定義はずいぶん違っている。


裏切られて悲しい思いをするくらいならこちらから切るという人もいれば、一度飲み会で会って連絡先を交換し、あとはLINEでつながっているだけの人を友達と呼んだりもするわけだから。

最近は友達不要論をテーマにした書籍も多い。

例えば、下重暁子氏の著書『極上の孤独』(幻冬舎新書)には「友だちや知人は少ないにこしたことはないと思います」という一説がある。また、ドイツの哲学者ニーチェが残した言葉「愛せない場合は通り過ぎよ」を紹介し、「ちょっとドライな人間関係」が絶妙な距離感だと説明した。


林修氏は番組で、

「『孤独は嫌だ』という人の共通点として、本をあんまり読まない」

と指摘した。

「考えるという作業は絶対一人じゃなきゃできないんですよ。(中略)人間は、考えると一人になるんです。そして一人になって自分を見つめ直す。その中で他人との繋がり方を見出していく。それを唯一可能にしてくれる孤独が、寂しいんですか?」


話題になったタモリさんの友達不要論 ■11:00〜


私はクラスにいる人全員が「友達」となり運命共同体にならざるを得ない日本の教育現場に対して批判的だ。


教育課程において、友情関係を育むための努力を学生時代に積むことは非常に重要なことと考えられている。


しかし、一方でそれが問い直されることなく、自明のものとして長年人間教育の柱として、子どもたちを苦しめ、いじめ等の社会問題を引き起こしてきたともいえる。

他者の異質性について、私たちは実感を伴う形で改めて認識することが不可欠だ。他人は自分ではない。


ありのままの自分がまるごと受容される「幻想」を私たちはそろそろ捨て、真に他者との関わり方について学んでいく必要があるのではなかろうか。

私たちの社会は、「同質的共同性」だけでは生きていくことができない。


自分とは異なる他者の存在を認め、共に並存していける在り方を模索していくことが、現代を生きる私たちには必要なのではなかろうか。

人によって適切な距離は違う。


無理に深く関わることを志向し、傷つき傷つけあう関係を再考していくことも重要である。


社会の中で生きていくための必要最小限の「ルール」を遂行することで、フィーリングが共有できる関係を無理やり築いていこうと悩むことはない。


「話せばわかる、つながりあえる」ことを前提として人間関係は私たちの心を歪める。自分ではない他人に、過度な期待をかけ、価値観を全て同じすることを理想と掲げずに、他者であるということを意識した上での信頼関係を構築していくことが最も重要なことであると考えられる。


つまるところ、「信頼できる他者」と自身で思える人を見つけていくことが求められるだろう。


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