尊厳死、安楽死、人として下せない決断

人である以上、生死を決断すべきではない。それを決めるのは、人間ではないから。

昔は、私自身安楽死を肯定していた。むしろ、とても強く肯定した。

理由は、死よりも辛い苦痛が存在し、それを取り除く術がありながら提供せずに傍観するのは、苦痛を肯定する行為だと思ったから。

同時に、緩和可能なのに、敢えてそれを選ばないのは、苦しみを選択するのと同じだと考えた。

今は安楽死を否定する立場にある。その理由はザクッと3つある。

1) 本人が安楽死を願ったとしても、今後その意見が不変とは限らないから

2)安楽死の名の下、死にたくないと思っている声無き人々の命を奪う行為が広まる可能性が否定できないから

3)生死を決断するのは、人間ではないから

まず、(1)本人が安楽死を願ったとしても、今後その意見が不変とは限らないから

鬱病の患者さんで、自殺を願った人がいるとしよう。いや、自殺企図…… 目の前で自殺をしようとしたとしよう。

しかし、それを勇敢な看護師が止めに入った(海外のTED talk での話し)後日、鬱病が寛解して退院したその患者は、看護師に泣いて御礼を言ったそう。「私はどうにかしていた」止めてくれてありがとう、と。でも、その瞬間は「心底死にたいと思った」、今生きていることに感謝してもしきれない、と。

こういう場合には、本人の意思に関わらずたどのような背景であろうとも、患者の命を助けようと医療を提供する義務がある。

肉体的に末期の患者だけは、一過性に投げやりにならないなんてことはない。

もう一つの例は、治療の分岐点。移植をしないと、死んでしまう白血病患者がいるとしよう。一過性に辛い治療が嫌で、自分らしく生きたいと願った結果、自分らしく無治療で死ぬことも検討した。あるいは、一過性に自暴自棄になることもある。それで、移植をしなければ、余命を全うすることになる。そう。ある意味、自分で確実に死んでしまう道を選択することになる。しかし、皆が治療をして欲しいと願い、本人もそのフェーズが過ぎれば、前向きに移植に取り組む。退院する時は、満面の笑みで命があることに感謝しているかもしれない。(治療の選択の是非ではなく、心変わりする可能性に焦点を当てている。)

また別の例を上げよう。末期で床に臥している患者が、強く死を意識し、死を受け入れ始めるかもしれない。しかし、外泊して家族に会ったら、生きる希望と活力に溢れて、闘病を頑張るかもしれない。その結果、食欲が増し、体力が増し、予想を遥かに超えた期間生きれるかもしれない。

あるいは、老人ホームで「もう、私はいつ死んでもいいの」と陰鬱になり、持病の治療薬の内服を拒む人がいる。しかし、孫との面会後には前向きになり、内服薬を服用するようになることなど、珍しくはない。

仮に、肉体的に死を免れない状況にあろうと、感情も思考も変動し得る。すると、どんなに前もってカウンセリングなどで入念に考えを確かめていたとしても、その「確固たる決意」が揺らがないとは限らない。

だって、実際に自殺を図った人間が、血反吐を吐きながら運び込まれて、「死にたくない! 助けて!」と懇願することだって、稀ではないのだから。

安楽死をいざ決行した瞬間、言葉も発せない心停止寸前に、「やっぱり死にたくない」と思う人がいたとしても、誰も知る由がないかもしれない。身動き一つ取れずに、誰もが意識がないと思う状態でも、実は意識があり、思考もしっかりしており、感覚もはっきり分かる場合がある。私も超重症の時に、意識がないとか、寝ているとか思われていても、実は周囲の言うことが聞こえており、思考もハッキリしていたことがある。ただ、側から見たら、寝ていたり、意識がないように見えたりしただけ。そして、そういう状態で急に決意が180度反転し、「生きたい! 助けて!」と思ったところで、周囲にそれは伝わらず、故意に早めたその死の瞬間を誰も回避する術を持ち合わせていない。

2) 死にたくない人が命を縮められてしまう可能性。

……「俺は患者を何人も殺した」と胸を張る人が時たまいる。それは、術中死に心が耐えきれず、いずれ笑い話にするほどの精神の窮地に至っただけなのだろうか?

でも、地位がある人間が、自分のミスを当直医に押し付けるとか……

教授の指示に従うため、患者に不利益? 少なくとも、最善ではない治療を施すとか? 

歴史的には、大量虐殺ですら、「本人のため」とか「社会のため」という理由で正当化されていた。

想像してみて欲しい。自分の息子が心臓移植をしなければ死んでしまう時に、適合しそうな事故患児が運び込まれた。一瞬たりとも、自分の子供を思い出さずにいられるだろうか?

逆に、健康な自分の子供と同い年くらいの患児に対する思い入れが強くなり、勝手ながら、絶対助かって欲しいと願うことがある。ならば、他の感情は絶対に生まれないという保証はどこにあろうか。

ましてや、人工呼吸器を装着していたら、やりとりは患者と直接意思疎通を図る人一人だけだ。

もし、「あ、い、う、え、お」と五十音が書かれた文字盤を動かす手が、読み手の意思で歪められたら、「死にたくない」が「死にたい」につい、うっかり変わってしまうことはあるのだろうか?

上司と患者の唇を一緒に読んで意思疎通を図ったとして、上司が読み取った言葉と、自分が読み取った言葉がもし万が一違った場合に、自分の見間違いだと考えずに意見できるだろうか?

これを予防するためには、読み手の交換をして、何度も入念に意志を確認し、そこにミスや人為的錯誤が存在しないことを確認しなければいけない。

人は疑わなければ、本来は罪など犯さない。

人間は心が清い。

確かに、そういうことが多いだろう。

とはいえ、疲れている時に、うっかり、一文字読み違いを……本当にしないと言い切れるか?

実際問題、かなり色々なところで予防線を張りつつ、それがスタッフを疑わない形で施されていないと、どうなんだろう?

「脳死は死ではない」と本で読んだことがある。それまで、脳死は死であり、それを否定するのは、受け入れられないからだろうと思っていた。

しかし、今では、私個人は脳死は死であると思いつつも、検査機器や診察する医師を変えて、何度も検証したいと思う気持ちも理解できる。

加えて、それが大切な家族の「脳死」であれば、やはり間違いで、実は植物状態なのではないかと思う気持ちも分からないではない。

この辺のことは、第三者が介入しづらい上、後で「間違いでした」などと発覚しても、患者が亡くなった後では、それはもう取り返しがつかない。

終末期の一日は、健康な時の一日とは比べ物にならないくらい貴重だとよくいうが、ならば、終末期こそ安楽死で一日でも意図的に時間を縮めるのは……

結局のところ、結論など出ない。

しかし、私は「そもそも、人間が結論など出せない問題だ」という結論で締めたい。

3) 生死を選ぶのは人間ではない。

絶対に助かると予想された人が亡くなってしまうことがある。

逆に、絶対に助からないと予想された人が生きることもある。

生きたくても生きれない人もいれば、何度死のうとしても生きている人もいる。

最近では、心肺蘇生を止めてから数時間した「遺体」のはずの新生児が、アルジェンティーナで実際に息を吹き返したという症例報告すら存在する。

すると、やはり、命は人間の左右できることではないのではないか、と思えてくる。

医療ができるのは、生きようとする人の手助けであって、命を吹き込むことではないのかもしれない。

ならば、命を奪う権限など、本人にもなければ、医療者にもない。

もちろん、それは法律にもないのではないだろうか?(所詮、法律は人間が書き上げたルールなのだから、その時その時で都合のいいルールを作っている。人間が作ったものである以上、絶対というわけではないだろう。罪を犯し、法律を破ることには反対だ。あくまで、法律には、医師にも、患者家族にも、患者本人にすらないのと同じように、命の重さや長さを決める権限は無いとだけ言いたい。)

だから、やはり命、生死、というのは、人間がその時の考えや気分で奪っていいものでもないと思う。

なので、昔は強く肯定していた安楽死を、今は合法にすべきではないという立場を取りたい。

そして、私はスイスやオランダでは合法だから、日本でもという理由ならば、尚のこと日本では違法のままが良いと思っている。

元々切腹が肯定され、自殺ですらどこか美化する傾向がある日本の文化では、そのような文化がない国よりも慎重な議論がなされる必要があろう。

人間が自分でも他人でも、命の重さや長さを決めず、謙虚な気持ちでいるのは非常に大切だと思う。

正論とか、美化していると思う者もいるかもしれない。

だからこそ、議論が非常に大切だと思う。

今を大切に生きよう!

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KG
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