親の記憶〜車内で勝負〜

家は父がボロっちい車を、母がトヨタを運転していた。(海外では、トヨタは外車だから、日本で言うベンツみたいな感じ。)何故、父がオンボロ車だったかというと、よく事故を起こしたから。大きな人身事故などはないんだけど、とにかくいっつもどっかぶつけたり、擦ったりしていた。我が家のジョークに「お父さんは愛車を自分でデザインし直す🤣 ぶつけて丸めて、好みの形に変える。」というやつがある。(父は昔トラックの運転手の居眠り運転が原因で、バイク事故を起こしている。トラックが急に反対車線から突っ込み、父は2m弱吹っ飛び、頭から路上に激突した。父は助からないと言われた状態から、奇跡の生還を果たしている。相乗りの友人は腹部で真っ二つで即死だったので、父は自分は運が良かったとよく言っていた。この事故の後遺症で、実は診断がつかないレベルで頭頂葉やられた時の半側空間無視まではいかずとも、軽度の部分的空間失認(私の造語的要素あり)はあったのではないかというのが我が家の現在の推察。普通に日常生活を送り、普通に仕事をしていたから、MRIで萎縮はあっても、これ本当に本人の画像?という感じで、高次脳機能障害の概念が広まる前はちょっと物忘れが多いお父さんくらいの感じだった。)


なので、家族3人で同じ車で移動する時は、必ず母が運転していた。父と母が各々自家用車を出す際には、私は決まって母の車に乗った。(当然よね。今まで、生まれてこの方一度も事故を起こしたことがなく、後ろから衝突されたことすらない母の車の方が安全なのは当たり前。けど、父だけと移動する時は、父の車に乗った。幸い、私が乗ってる時に大きな事故にあったことはない。ニアミスは一回:アセアセ💦)


そして、父は英語を喋り、母は日本語。家族全員の時は英語だった。だから、私が日本語を喋るのは、母と二人きりの時だけだった。(お父さんも一応日本語喋れてたし、理解もできるんだけど、色々な理由から英語となった。)


ここで、前置きの車情報が重要になってくる。私が母の車に二人きりの時には、シリトリをしていた。


このシリトリが、永遠と続く。そして、どちらも一歩も引かない。運転中だけだから、ある種の時間制限があるともいえよう。それでも、どちらかが負けたことも、言葉に詰まったこともなかった。


私はシリトリが強いよ。自分でいうのも〜ってあるだろうし、高校生くらいの頭キレキレの年齢よりは衰えているけど、まだシリトリでは負け知らず。(ちなみに、日本語はどちらかというと弱いです。けど、シリトリだけは特別😄)

私は初めて言葉を発したのは6ヶ月の頃だそう。同日母に「おっぱい」と言い、父には「more」(もっと)と食べ物をねだった。私が幼い頃から、父は私が英語を最初に喋ったことを誇り、母は日本語だったけどと言いながら、言語よりも私がとっても幼くして言葉を発し始めたことを自慢した。(けど、二人とも私に私のことを自慢するんだよね🤣)言葉を喋り、大人と普通に会話ができるようになったのが8ヶ月くらいの時だったそう。すると、おそらくは生後8ヶ月頃から母とシリトリをしていることとなろう。


何処ヘ行っても、その行き帰りは母と車内でシリトリをしていた。母も子供に手加減をするような人ではない。(これは長所)なので、お互いに本気の勝負となる。


私は子供の頃、何気に漢字辞典が好きだった。普通に、百科事典も好きだったけれども、日本語(国語)のテストで漢字が一番嫌いだった私が、漢字辞典を好きだったことは自分でも驚いた。ウ冠とかの部首、漢字の成り立ちといった、現代書かれている文字としての漢字以外のところが好きだった。(ちーん)


母は結構、あからさまじゃない感じのイキな図らいをしてくれていた。漢字嫌いな私に興味を持たせようと、漢字辞典で部首や成り立ちの面白さを見せてくれた。(それでも、漢字を毎日コツコツ勉強するまでには至らず、漢字大会では泣きながら前日帰宅後から就寝前まで泣きながら勉強していた。大体は、満点は取ってたよ…… けれどもいつも、「普段から勉強できる、努力できる人になりたい」とこの時期いつも祈っていた。けど、毎回漢字大会は付け焼き刃で、毎シーズン「努力できる人になれますように」と神様に祈った。(おいおい)睡眠時間を削って勉強をしたことは、生まれてこの方一度もない。テスト前は早寝でパフォーマンスを最大限に上げるのが一番だと思っている。第一、付け焼き刃などたかが知れている。試験前は早寝がベスト👍ただでさえ、知識が微妙なのに、睡眠削ってパフォーマンス落ちたら、120%の実力が必要な場面で70%とかで涙するだろうという考え。)


部首を覚えたての時は特に、シリトリで色々な部首名を使用した。辞典で色々知ると、言葉も覚えて、これを即実践の武器として使える。やはり、強くなるのを実感できるのは楽しい。


そして、母の知らないことを言った時に、得意げにそれがなにかや背景、将来的な応用可能性などを「教えてあげる」のも大好きだった。🤣


母のイキな図らい繋がりなので、ここにもう一つ書こう。


私はハイハイがめちゃんこ速かった。二足歩行の自分よりも何歳も上の子たちとハイハイと全力疾走で競って負けたことはない。当然、ハイハイ同士でも私はいつも一番速かった。


今思い返すと、それはもしかしたら私が風呂場でやっていた遊びが関わっているかもしれない。


とっても大きい中がしっかりめで弾力ある発泡スチロールのような素材だけど、折れづらく、表面は塩化ビニールで加工されて、表面には絵柄やあいうえお等の文字が印字されている、横1mで縦は70cmくらいの風呂場の足板みたいなものを知っているだろうか?

↓↓こういうやつ


私はとにかくエネルギーの塊で、とにかく走り回っていたし、誰よりも多く動いても、夜は10時になるまで寝ない子だった。


その解決策だけではなく、私がどハマリしていた遊びが、その100cmx70cmくらいの板をハムスターのように延々と蹴り続けて倒れないようにしながら壁に立てようとする行動だった。


3歳に満たない子供が、背中は床に寝そべり、「あいうえお」と右から50音が巨大な字で書かれたその板をとにかくマシンのようにドドドドド〜っと蹴り続けているのだ。私にもこの時楽しいと思った記憶はたしかにある。そして、「ハイ。今日は終わり」と母がその板を壁に立てかけると、もっととねだって、第2ラウンドを開始した。(これは、おぼろげな記憶。足で蹴るだけで、再びその板を壁に立てかけるのが目標で、それが完遂するまで、やり続けていたんじゃないかな?ただ、稀にミッションをコンプリートしても、今度はもう一回成功したくなった。そして、絶対に母に手伝ってもらうのではなく、自分一人の力で、このミッションを果たしたかった。母には、このボードを蹴り続けた理由は伝えていなかったよう。だって、ミッションは2つあったのだ。普通に手を離せば、パタンと倒れてくる板を、自分の方向に倒れないように蹴る力と速さだけで、ボードを立たせ続けなければいけない。それを成功させながら、更に倒れてくる前の位置に足の蹴りだけで戻そうというのものだ。)


ここで、母のイキな図らいとは、見守るだけで、基本的には援助はしないというもの。もう一つの影のイキな図らいとは、まだ幼稚園に上がる前の子供に50音を見せるというもの。


何度も何度も、大きなボードを蹴り続けていれば(本来は風呂で足に敷く)意識せずとも見覚えができるだろう。すると、座学として叩き込まずとも、気がついたらもう50音を知っている3歳くらいのガキンチョが誕生する。


ガキンチョは、ただただ風呂に入り、好き好んで板をマシンのように蹴り続けて楽しんでいただけ。


子供はなんでも吸収するからね〜


遊びでシリトリをしたり、なんか楽しくて漢字辞典を読んでみたり、遊びでボードを蹴ってるだけで、いつの間にか50音を覚えていたり。


遊びを通して競争心を養い(生まれつき?)、遊びを通して語彙を増やし、遊んでいるだけで、いつの間にか色々知ってる。そして、気がついたら、赤ちゃんのハイハイ魔王から、かけっこが速い子、スポーツが得意な子、アスリートへと階段を登っていたりしてね。


楽しいこと(遊び)しか覚えてないけど、なんかいつの間にか学校で文武両道の凄い人になっている。こういうのって良いよね~。


今を大切に生きよう!


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