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10人に8人が脱落!?話すこと重視の日本語教育の問題点は、「話させ過ぎ」という笑えない海外の実態

偉大な教師は心に火をつける。
残念な教育は、心に油をぶっ掛け火をつける。
口は日本語を話すが、心は日本語から離れている。
日本語教育も英語教育も、問題はそこじゃないのか?

こんにちは、語学の裏設定のゆうです。
今日はちょっとした違和感のお話をしたいなと思います。

日本の英語教育:「話す」ことが何よりも大切!!
オーストラリアの日本語教育:「話す」ことを重視しすぎて失敗。

日本人の英語教育と、オーストラリア人の日本語教育の両方に携わって数年経ちますが、毎年この温度差を感じ疑問を抱いています。

まず、

「話すこと重視で失敗」とは何か?

と申しますと日本語の学習を放棄する人が後を絶たないという実態です。


教育の問題は広いですから、
今日は日本の高校オーストラリアに高校の事情に絞って、
「話すこと重視」の教育のメリットデメリット
そしてこうしたら良いんじゃないかな?という提案をしていきます。

先にまとめると、

・高校生にとって外国語は世界への扉で、外国語を止めたら閉ざされる扉。
好奇心を潰すような実践能力の強制開花は大敵
・どちらも伸ばすため、「文化」に目を向けさせよう


外国語教育の一環として、日本では英語を習わされるように、オーストラリアでは日本語を学ぶことができます。 
どちらも15~18歳くらいの年頃の子が外国語を学ぶわけですが、
オーストラリアでは徹底的に「話す能力の向上」に力を注いでいます。

ご覧になってください。
日本語の中間テストの問題を。

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もちろんスピーキングテストの問題です。

日本語で自分の意見を言えるように、徹底的に教育しているんですよ!

今の日本の英語教育が目指すべきところじゃないですか!

ところが、

卒業後、日本語の勉強を続けるのは10人中2人いれば良いほう

というのが現実です。

・・・教えていて悲しくなります。

しかし、もっと悲しいのは、止めたくなるように日本語を学ばされた彼らではないでしょうか?

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1.好奇心が湧かないから去っていく日本語学習者


大事だからと言って、好奇心を置き去りにしても強制する学習スタイル。

ここに問題の根源があるのだと私は見ています。

日本語を勉強するのだから話せるようになるのは大切。それは分かります。でも「話すことの大切さ」が独り歩きして、話すことを強制させる教育になっている。

日本語がおもしろくない。
日本語が面白い!と感じるキッカケになる日本の文化学習は飛ばされた。

結果、
口の方は日本語を話しているけど、心は日本語から離れている
という幽体離脱現象が起きてしまうと私は考えます。
だから学校を卒業と同時に日本語学習から脱退しようと考えてしまう。

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数々の日常の例から分かるように、私たち人間は、おもしろい!と思ったことは続くし、つまらない!と思ったことはやめる生き物です。体も心も好奇心によって動かされる生き物です。

学校の先生方は、
「話すこと」は大事だと分かっていても、「日本語」に興味を持たせず、
強制力で教育の場を持たせている...

そりゃもちろん学校が終わったら続けない
という姿勢を自然と取るようにわけのです。

もし日本語と日本文化に興味があれば、
「直接日本人に会って話してみたい!」
と思うので強制されなくても話す機会は求めますし
仮に学校時代強制されたとしても、卒業後も勉強を続けるでしょう。
でも続けない。

日本語に興味がないから続けない。
話す実力はあっても、興味がない言語だから要らないし話せても面白くない。


これ、大問題ですよ!!!

外国語は視野を広げてくれる科目です。
15~18歳の彼らにとって、高校で習う外国語は、人生で初めて習う外国語になることでしょう。海外に継続的な興味を持つキッカケになるのは他ならぬその外国語のはず。

その外国語に込められた、
価値観とか、文化とか、そういった魂の部分が燃えている限り興味は尽きない。

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それを卒業と同時に捨ててしまうのが、約8割。


海外への興味も同時に捨てるか、興味が不安に変わるかが相場です。


めっちゃ悲しいです。

特に自分が家庭教師としてついて教えていた学生がそうなった時は。

日本独特の思考回路・文化土壌も授業中に取り入れたけど、
「先生、テストに出るところだけやって」
と要求され無事点数を取らせ希望進学先に送ったはいいものの、

日本語を捨てて卒業する姿を見送るというのは、めっちゃ虚しいです。


19世紀にウィリアム・アーサー・ウォードという教育者はこんな言葉を残しています。

普通の教師は言わなければならないことを喋る。
 良い教師はわかりやすいように解説する。
優れた教師は自らやってみせる。
 そして、本当に偉大な教師というのは生徒の心に火をつける。

それを踏まえたら、

学校はとりあえず学生の心に油をぶっ掛け火をつける場と言えます。

オーストラリアの日本語教育では「話すことこそ大事!」という名目で。
昔の日本の英語教育では「受験こそが大事!」という名目で。

今や日本の英語教育はオーストラリアの二の舞になりつつあると思うのは私だけでしょうか。

「好奇心が伴わない実力」って、本当に実力と呼べるのでしょうか。


2.好奇心に支えられた実力を形作るには文化を教える

結婚は人生の墓場という。
学校は好奇心の墓場になって良いのか?

外国語は、世界への扉。
外国に触れない外国語教育は、
扉の取っ手に触ることを許さない。


例えば、「時」という漢字を教えるとしましょう。

普通の教師なら、「10回書いて覚えましょう!」と教えるでしょう。
良い教師はなら、「3日おきに3回ずつ、分散して書こう」でしょうか。
優れた教師なら、「先生と一緒に10回書こうよ!」でしょうか。
偉大な教師は?

こんな感じでしょうか。
(本当の成り立ちは違いますが、興味は刺激できます。)

なぜ「時」は「日」+「寺」なのでしょうか?
それは昔、日本では「おで鐘を打って時刻を知らせていたからです」
当時はスマホもありませんよね?
時計」を使っていたんですよ。

という具合に「面白い!」と唸らせる要領で分からせていく。
それを更に枠を超えてつなげてみる。

今君たちは学校で勉強しているけど、昔日本には学校はなかったんだよ。
みんなお寺で勉強していたんだ。
寺子屋って言ってね。」
なんでお寺があったかというと....

という具合に、日本の歴史・文化に興味を誘ってみる。
そこだけに留まらない。

ロシアは識字率がとっても低かった国だよね。
学校に通う人は少なかったんだ。
でもソ連の頃には、識字率は爆発的に上がって世界一読書をする国民はソ連人と言われていたんだよ。
何でだと思う?お寺で勉強したのかな?

日本語が世界史と合体!

ここまで来たらもう後はどうにでも広げられます。
こんな風にして習った「時」は絶対忘れないでしょう。
日本に旅行したい!
お坊さんと話してみたい!
なんていう気持ちも湧いてくるでしょう。

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好奇心さえあれば、「話させる教育」は要りません。

勝手に勉強するようになりますから。
実力なんていくらでも付いてきますから。


そういう火を付ける教育をするには、英語の先生の能力が高い事が大事です。単なる英語の「使い手」としての能力だけではなく、背景知識が欠かせないのです。

それも単なる「英語」だけの背景知識ではなく、英語という枠を超えた知識がです。

教師の持っている知識の幅が鍵です。

教師は学生の好奇心の生殺与奪権を持っています。

好奇心を育まず、能力だけ育んでも、卒業と同時に英語から卒業したい学生の数を増やすだけだと思うのです。破局した恋愛と同じで、一度嫌いになった相手は基本的にずっと嫌いなはずです。

だから卒業しても「英語続けたい!」と思ってもらえるような英語教育をしないと。

点数に魂を売り渡しちゃだめだ。

「話す能力」を伸ばすと言っても、
教える側が気にするのは
「話す能力」を測る点数なのだから。

従来の「読み書き」型の教育と本質は変わっていないと思うのはわたしだけでしょうか。

まとめ

高校を卒業してからも、英語を学びたい!世界を知りたい!と思ってもらえるように、学生の好奇心は奪わないようにしてほしい。

「話す能力」だろうが、「読み書きの能力」だろうが、好奇心を殺す強制教育はよろしくないと思う。

面白いことがいっぱい溢れている世の中に出る前に、好奇心を葬ってどうする?


PS

関連記事を2本紹介します。

「もう私の好奇心は死んだ」という方は、今は亡きピョートル大帝に好奇心を蘇生してもらいましょう。

好奇心に心臓マッサージはいかが?


英語は高校生になってからで良くないでしょうか?英語で開いた世界への関心を活かすための教養を、英語学習の前に身に着けましょう。

英語より教養と母国語な理由。


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