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短編小説集

10
いずれ長編になるかもしれない物語たち。
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【ショートストーリー】朝食

【ショートストーリー】朝食

朝食

 

 珈琲豆を挽く音と注がれる適温のお湯の音、そして、立ち込める香りに嗅覚と聴覚が刺激され目が覚める。

 キッチンを覗くと、男は背を向けて珈琲を入れながら「ご飯、食べる?」と言う。その声は、慣れない酒を飲んだせいか、少しかすれていた。

 リビングの方に視線を移すと、既に綺麗にセットされたテーブルがそこにあった。木製のローテーブルの真ん中には、小さな花瓶。部屋に似合わず、チュー

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【ショートストーリー】三条大橋の男

【ショートストーリー】三条大橋の男

「お母さんおおきに。行ってきます」

兎の結は、タクシーにのって、街から少し遠い料理屋のお座敷へ向かった。 

料理屋につくと、すでに地方の姉さんがたがついていて、一番下っ端の卯の結(うのゆう)は慌てて挨拶をした。

どうやら今日は、舞妓は卯の結一人だけらしい。

お座敷はいつもどおり進んでいき、5、6人の客も、芸妓の姉さんも酔いが回ってきたころ、卯の結は、自身に向けらている熱い視線に気がついた。

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【ショートストーリー】残酷な男

【ショートストーリー】残酷な男

「結婚したんだってね。おめでとう」

電話口。少し声が震えてしまったけれど、平静を装えていたと思う。

かつて、本気で愛してしまったセフレは、どうやら結婚するらしい。

私が初めて家に行って、シャワーを浴びたとき、女性物のケア商品が浴室にあったので、他にも女がいることは知っていた。

だから、この人には本気になっちゃだめだと自分に言い聞かせていた。

それでも、好きになってしまった。好きといってほ

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【ショートショート】ビターな香り

「バレンタイン、一緒に過ごせないのなら、ホワイトデーは私にちょうだい」

あなたは仕事だからと言っていたけれど、他の女性と約束をしていることなんて、わかってた。

あなたは嘘をつく時、三秒見つめるのよ。

「いいよ。ホワイトデーは一緒にいよう」

「約束?」

「ああ。約束」

クロワッサンを食べる手を止めて、三秒の間の後、あなたは言った。

わたしは、これで最後なのかもしれないと悟った。けれど、

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【ショートショート】ヒカリ

【ショートショート】ヒカリ

気がつけば夜が明けていた。
カーテンから漏れる光に、汗だくになった彼が照らされて、キラキラしている。

あまりにも美しかったので、光を取り込むように、彼の額にキスをした。

「悔しいんだ。世に出ている天才たちは、みんな幼少期に苦労している。苦労した奴はその後、例外なく輝くんだ。そういう風に作られているんだろう。どう頑張ったって、普通に幸せに育ってきた僕みたいなやつは勝てないんだよ。だから僕は、平凡

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【短編】消灯までの15分

【短編】消灯までの15分

消灯間近、二人の男女が、薄暗い院内のラウンジに置かれたソファに座っている。

コロナの感染対策で、ソファには間隔を開けて座るように促すため、一人が座るスペースごとにバツ印の張り紙が貼られており、誰もいないのだからそんなものは無視をすればいいものを、彼らは律儀に距離を保っていた。

普段であれば、煩わしく思いそうなものであるが、お互いに認識しつつも、病棟が違うために、なかなか関わることがむずかしく、

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【ショートショート】秘密を愛しすぎた女

【ショートショート】秘密を愛しすぎた女

「貴方のせいでまた店を変えないといけなくなったじゃないの。サロンでも開けてくれなきゃ割に合わないわ」

少し焦げ臭い花束を、女はグランドピアノの上に投げた。
小さな顔を引き立てるグラフのピアスと胸元の開いたシルク生地のドレス、高いハイヒールは脆い心をかろうじて守っていた。

この男の正義漢ぶった瞳に逆らえないのは惚れた女の弱みなのか、はたまた、ただその瞳にいい人間として映りたかったからなのか。男の

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【短編小説】風の音

【短編小説】風の音

女は銀座に立つ料亭の裏で煙草を吸っていた。
いつもはどんなに最悪な機嫌をも直し、心を落ち着かせるものであるそれが、ここ最近は、心を乱すものになっていた。

「そろそろ辞め時かしらね」

火が消えたことを確認し、料亭の中へと戻る。

二階と一階に、常連の団体客。二階の客は都々逸やさのさを嗜むのが好きで、この女でなければ相手ができない難客だった。

「〽憎らしい 憎い仕打ちは虫が好く 花を愛して嵐を憎

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【ショートショート】夫の変化

【ショートショート】夫の変化

月曜日。夫のスーツに、銘柄の違う煙草が入っていた。
私はセックスのあと、夫が放つバニラの香りが好きだった。
今はただただ臭いだけ。

火曜日。鏡台に並べた香水が減っていることに気がついた。
ジュエリー販売の仕事をしていたとき、あえて男性向けのシャネルをつけていた。
もう何年もつけていない。

水曜日。子供が「おかあさん、これなぁに?」と聞いてきた。
手に持っていたのはショッキングピンクのダサい紐パ

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【ショートショート】貫けないなら優しくしないで

【ショートショート】貫けないなら優しくしないで

「相談があるの」

「どうした? 珍しい」

いつもふざけたように話す彼も、真面目なトーンで答えてくれた。

「女も戦わなくちゃいけないと思う?」

「いいや」

彼は間髪入れずに答えた。意外だった。

「あたし、もう戦いたくないの」

必死に抑えた声の震えは、伝わってしまっただろうか。

「ごめんなさい。明日も舞台なのに。でも、どうしても貴方に聞きたくて」

「いいよ。どうせ家で寂しく飲んでるだ

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