見出し画像

【ショートストーリー】朝食


朝食

 

 珈琲豆を挽く音と注がれる適温のお湯の音、そして、立ち込める香りに嗅覚と聴覚が刺激され目が覚める。

 キッチンを覗くと、男は背を向けて珈琲を入れながら「ご飯、食べる?」と言う。その声は、慣れない酒を飲んだせいか、少しかすれていた。

 リビングの方に視線を移すと、既に綺麗にセットされたテーブルがそこにあった。木製のローテーブルの真ん中には、小さな花瓶。部屋に似合わず、チューリップが一輪飾られていた。その側に、二人用のグレーのランチョンマットが丁寧に置かれていて、その上には、柄の入っていない真っ白な皿に、ハニートーストとスクランブルエッグ、大きめのウィンナーが二つずつと、小ぶりなお椀型のお皿には、アボカドとトマトが乗った鮮やかなサラダがあった。

 

 この男は、初めて会った女を酔いにまかせて家に連れ込むような人間であるのに、昨夜の行為と同じく、とても丁寧な人間なのか。ここまで朝の時間を楽しめるのは単純にすごいと思った。部屋も、少し狭い1LDKではあるが、モデルルームのように整理整頓され、ガサツなところなど微塵も感じさせない。

 しっかりと朝食の支度を済ましているにも関わらず、食べるのかと聞くあたり、少し傲慢なように思えるが、ここで要らないと言えば、自分がひどい女のようなので、ありがとうと伝えた。

 のそのそとベッドから起き上がる。まだ肌寒い季節のため、白いシーツのかかった掛け布団が、まだ何も身につけていない私をはなさない。

「服、そこに置いてあるからつかって。彼女が置いていったものだけど」

 ベッドサイドに置かれている木製の椅子の上にあるそれは、とても可愛らしいジェラートピケの部屋着だった。肌触りがとても柔らかいピンク色の花柄のワンピースにふわふわのガウンは、これもまた、丁寧にアイロンがかかっている。

 一夜限りの女に、彼女の服を着せるのはいかがなものか。どうせ気を配るのなら、ここまでちゃんと気を使ってほしいと思いながらも、寒さに負けて袖を通す。

 部屋着のそばに、これもまた彼女のものであろうフリルのスリッパが置いてあったので、履けということなのだろう。彼女に、少し申し訳ないと思いながらも、冷たい床を歩くのは嫌だったので、仕方なしにそれを履き、暖かい食事が置かれたテーブルに向かった。

 小さめのグレーのソファーに座ると、男は入れたての珈琲を両手に隣に座る。

 少し遠い位置に置かれたテレビからは最新のニュースがながれており、今日も不倫報道で持ちきりだ。

「いただきます」

「…はい。いただきます」

まず、珈琲を一口飲んだ。挽きたての豆の甘い香りと寝起きには刺激の強い苦味が、私を満たす。

 なんだか笑えてきた。浮気女が本命彼女の服を着て、まるで恋人と迎える朝かのような穏やかな時間を過ごす。茶番にもほどがある。

 置いてあったナイフとフォークを手にとり、食事を始める。二人の間に会話はなく、すぐに食事が終わり、私はベランダに煙草を吸いにでた。この一服がたまらない。

 急に体が揺らぎ、背中にあたたかさを覚えた。男から抱きしめられているのだとすぐに気がついた。

「あらあら。急に子供みたいね。ご飯も珈琲も、とても美味しかったわ。ありがとう」

「また…会える?」

男は少し間を開けて、今にも消えそうなか細い声で言いながら、私の肩に顔を埋めた。本当に子供のようなその仕草に偽りの愛しみを感じる。

「さぁ、寒いしそろそろ部屋に入りましょうか」

 男は寂しそうな顔をして、私の後に続き、部屋に入った。

 昨夜脱ぎ散らかした服が綺麗に畳まれているのに気がついて、私はまた笑いがこみ上げてくる。この人はなぜこうも気を利かせようとするのだろうか。もうすこし肩の力を抜けば良いのに。そんなだから、彼女とすれ違って、昨日のように馬鹿なことをするのだ。

 服を手に取り、男の頭を撫でた。無表情な彼は、感情表現が苦手なのだろう。けれど、耳がすこし赤らんでいたので、喜んでいるのがわかった。

「生きるのが辛くなったら、いつでもあの店にいくといいわ。その時は誰かがきっと、慰めてくれるから」

 服を着て、最後に微笑んでやった。

 もう彼女とくだらない喧嘩をして、あの店に再び足を踏み入れることはありませんようにと祈りながら、私は玄関の少し重い扉を開けた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?