「介護時間」の光景㊿「波紋」「雨水」「月」。3.27.
初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
私は、臨床心理士/公認心理師の越智誠(おちまこと)と申します。
いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで書き続けることができています。
この『「介護時間」の光景』を、いつも読んでくださってる方は、「2002年3月27日」から読んでいただければ、これまで読んで下さったこととの、繰り返しを避けられるかと思います。
自己紹介
元々は、私は家族介護者でした。介護を始めてから、介護離職をせざるを得なくなり、介護に専念する年月の中で、家族介護者にこそ、特に心理的なサポートが必要だと思うようになりました。
ただ、そうした「家族介護者の支援」をしている専門家がいるか分からなかったので、自分で少しでも支援をしようと思うようになりました。
自分にとって、分不相応かもしれませんが、介護をしながら、学校へも通い、臨床心理士の資格を取りました。2019年には公認心理師資格も取得しました。現在は、家族介護者のための、介護相談も続けられています。
「介護時間」の光景
この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。そのことで、もちろんごく一例に過ぎませんが、家族介護者の気持ちへの理解が、少しでも進むのかもしれないと考えて、続けています。
今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2002年3月27日」のことです。終盤に、今日、「2021年3月27日」のことを書いています。
1999年から介護が始まり、2000年に、母は転院したのですが、私は、ただ病院に毎日のように通い(リンクあり)、家に帰ってきてからは、妻と一緒に義母の介護を続けていました。
ただ、それ以前の病院といろいろあったせいで、うつむき加減で、なかなか、医療関係者を信じることができませんでした。それでも、2年たつ頃には、今の病院が、母を大事にしてくれているように感じ、少しずつ信頼をしていったと思います。
2002年3月27日
それでも、将来のことは、1年先のことさえ考えられなくなり、毎日の、目の前のことだけを見るようになっていました。
そのためか、周囲の違和感や小さな変化にかなり敏感だったような気がします。前半は、そんな頃の記録です。家族介護者の気持ちの一つの例になるとは思います。
波紋
雨が降っている。水たまりにも降っている。
雨粒が落ちて、水の輪が広がると、すぐに別の雨粒が落ちてきて、波紋の広がりが消されてしまうように見える。水の輪が出来て、次の雨粒の波紋でそれが消されて、また次の雨粒が落ちてきて、が続いている。それは、思った以上の早いテンポで、そして、思ったよりも不規則なリズムだった。
雨が降って、水の輪が水たまりいっぱいに広がる頃、次の雨粒が落ちてきて、また波紋がキレイに静かに広がっていき、最大限に大きくなった頃、また雨の粒が水たまりに落ちる。そんな、ある意味で都合のいいテンポの雨って、ありえるのだろうか。
(2002年3月27日)
雨水
駅のホームで電車を待っていた。向こうのホームの下のところに、プラスチックのパイプがあって、そこから、水がバチャバチャと音を立てて落ちている。
電車が通ると、風を受けて、その水がさっきまでは少し重量感のある落ち方をしていたのに、ホントに軽いもののように、たなびくように形を変えているのが、通り過ぎていく電車の連結部分のすき間などからチラッと見える。
ほんろうされている、という感じ。
電車が走り去ると、また安定したバチャバチャに戻る。
(2002年3月27日)
『午後4時15分に病院に着く。
母と一緒にお菓子を食べながら、この前、24日に行った花見の話をする。
割と元気だった。
ちょっと安心した。
一緒に、歌謡ショーの再放送を見る。
病棟の中を、母と一緒に歩くと、いつもいらっしゃる患者のご家族と会って、少し話をする。桜の話題。
母の話は少しずれる。
午後5時30分に夕食。
食事を続ける。
午後6時10分頃、最近、いつも見かける患者さんの女性が来て、病棟のさらに端まで歩いて、そこからまた戻っていく。
無言で遠い目をしている。
「最近帰りたい、って言わないのよ」と母は、その人を見て、言った。
そのあと、急に「多いな、と思ったのよ。切り干し大根」と、残した。
夕食を残したのは、久しぶりだった。
「お赤飯食べたから」と母は言ったのだけど、それよりも、お菓子を食べすぎてしまったのかもしれない。
夕食はゆっくりと45分くらいかかる。
途中で、病院で「友達」になった同世代の患者さんがやってきて、私にもあいさつしてくれる。
食事が終わったら、母親はすぐにトイレへ行く。
部屋で待っていて、母が書いたメモを見たら、いろいろと花のことを書いていて、それとギョウザのことが一緒になっている。
花見をして、楽しかった。
おダンゴおいしかった。
そんな言葉と一緒に、3色の小さいだんごの絵も、ちゃんと色を付けた絵が並んでいた。
花見のことをいろいろと書いてあって、ありがたかった。
それから、母の爪を切った。
病院を出る前に、婦長さんと会って、お礼を言った。」
月
午後7時にいつものように病院を出る。
また少し寒くなった夜。
雨が降っているのに、空には満月が出ていた。
(2002年3月27日)
それから、19年がたった。
2021年3月27日
こんなに世論はオリンピックの開催を望んでいないけれど、それも、当然ではないかと思う。私自身も、こんなにコロナ禍が収まっていなくて、今も感染者が増えているような状況では、やめたほうがいいと思う。
それは、オリンピック開催の準備を続けることで、もし、開催した場合に、感染病によって、死ななくてもいい人まで死んでしまうのではないか、という疑いがずっと抜けないからだった。
それでも、今週は聖火ランナーが走り始めた。
コロナ禍と、介護の時の気持ち
コロナ禍が長くなり、いつ終わるか分からなくて、ワクチン接種が始まっているとはいっても、少なくとも周囲で、接種した話も聞かないし、自分自身は、今年中に接種できればいい方では、と思っている。
それでも、ワクチンが決定的に感染を防ぐかどうか分からないし、個人的には、そんなに手放しの希望を持っていないのは、期待をし過ぎると、それがうまく行かなくなった時に、ショックが大きいからだ。
コロナ禍が長引けば長引くほど、いつ終わるか分からない中で緊張感を保つのは難しいと思うのだけど、この、いつまで続くか分からない時間の流れ方は、個人的には、介護をしていた時と、よく似ていると思う。
あの時は、先を考えると辛くなるから、とにかく今だけに集中していたし、そうするようにしていた。そうでないと、大げさにいえば「無限の時間」に気持ちが、潰されてしまいそうに思えていたからだった。
そのために、本当に少し先のことも考えられなくなっていたし、その意識の持ち方は、負担感を増やしていたのかもしれないが、そうやって「介護環境」に適応していたのだと思う。
介護は19年間続き、3年前に終わった。
だけど、また介護の時と、同じような気持ちの持ち方をするとは思わなかった。
桜と明るい顔
出かけると、電車の窓からも、街を歩いても、思った以上に桜が咲いていて、こんなにあちこちに桜があったことに少し驚くような気持ちにもなるのだけど、そのためか、自分の気持ちも少し浮かれているように感じる。
でも、これだけ緊張感が続いていれば、それも仕方がないとも、言い訳のように思ったりもする。
朝出かけて、夕方に帰ってきた。
駅から公衆電話で妻と話をして、その時に、昨日、話の中で出ていたエクレアを買っていくことを伝えた。有名人が、ファミリーマートのエクレアが美味しい、と言っていた、ということを思い出したからで、それを伝えると、喜んでくれた。
駅で降りて、家に帰るまで、多摩川に続く道路は、いつもよりも人通りが多いように思った。
河川敷は、この季節になると、桜が満開になるからだと思う。
家に帰り、妻と話した。
「今日は、家の前の人通りが多かった。河川敷に向かう人の顔が、明るかったんだよね。
スーパーに行ったら、ワインを買っている若い人たちがいて、あ、花見に行くんだな、と思ったりもしたけど、浮かれている、というより、楽しそうで、やっぱり顔が明るくて、それは、私も嬉しかった」。
私の気持ちまで、少し明るくなるような話だった。
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