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芥川賞作家の「経歴詐称」疑惑 火野葦平の「敗戦直訴」をめぐって

要約


・芥川賞作家、火野葦平は、戦争末期に「このままでは戦争に負ける」と陸軍トップに直訴した、というエピソードを語っている。

・今日、火野葦平を論じるさいに、よく引用される有名なエピソードである。

・しかし、このエピソードは、嘘である可能性が高い。

・そして、その嘘は、火野の自殺とも深くかかわっていると思われる。



こんな話、いまさら誰も興味がないと思うけど。

それに、書くなら、ちゃんとした論文の形で残したい、とずっと思ってた。

でも、そんな時間も能力も、わたしにはなさそうだから、概略だけ書き残しておきたい。



自ら語った「武勇伝」


火野葦平に、有名なエピソードがある。


火野は1944年7月、インパール作戦に従軍して、日本軍の惨状を身をもって知った。

そこで、日本に帰還した9月、「このままでは日本は負ける」と陸軍トップに直訴した。処罰されても仕方ないという覚悟だった。


火野は、以下のような話をしたことになっている。


インパール作戦が無謀きわまる強引作戦であったこと、それから、前線の将兵の質の低下、特に、参謀や部隊長の統率力の欠如、意地や面目や顔などの固執によって、いたずらに、兵士が犬死させられていること、正確な情報が伝わらず、或いは伝えないために、誤った作戦や命令がくりかえされたことーーその他であった。そして、結論として、もし、この後もこういう状態がつづくとしたならば、「由々しき結果を生じる」ものと危惧されると結んだ。

(火野葦平「解説」 「火野葦平選集」第四巻 1959 東京創元社)


しかし、陸軍トップの杉山元・陸軍大臣は、火野葦平の話を聞いたあと、

「御苦労。よくわかった。しかし、望みは充分ある。肉を斬らしておいて、骨を斬るんじゃ」

と述べ、両手で刀を持つ格好とともに一太刀振り下ろすしぐさをしたという。


それを見た感想を、火野葦平は以下のようにつづっている。


そんな原始的な精神力ではもう間に合わなくなっているのに、軍の中心となる責任者が、まだそんなことをいっているのが、私は悲しかった。


これは、火野葦平が、1959年出版の「火野葦平選集第4巻」(東京創元社)の「解説」で、初めて語ったエピソードだ。

その出版の直後、1960年1月に、火野葦平は自殺する。


火野の印象をよくする「美談」


このエピソードは、「兵隊作家」と呼ばれた火野葦平も、戦争末期には日本の戦争に疑問を持っていた、実は戦争に批判的だったーーということを示すために、よく引用される。


比較的最近では、NHKの「ETV特集 戦場で書く~作家・火野葦平の戦争」(2013年12月7日放映)、書籍『インパール作戦従軍記 葦平「従軍手帖」全復刻』(集英社、2017年刊)などで、このエピソードが強調された。



上記NHK番組のディレクター・渡辺考は、『インパール作戦従軍記』の編者も務めている。

彼は、同書の解説で、このエピソードの意義を以下のように強調している。


逮捕されても、投獄されても、処刑されても良いという気持ちだったというというので、かなり踏み込んだ内容だったと思われる。それまで軍部の意向とつねに寄り添っていた火野のなかに大きな変化が生まれた瞬間だと思う。
(『インパール作戦従軍記 葦平「従軍手帖」全復刻』p438)

戦場の悲惨を目の当たりにした火野が、勇気をふるって真実を伝えようとしている姿には打たれるものがある。積み重なる死を己のまなざしで見てしまった者としての責務を、火野は強く意識していたにちがいない。
(同書p447)


このNHKの番組は、火野葦平再評価をうながす力があったようだ。


この番組のあと、2014年に、北九州市立松本清張記念館で、火野葦平と松本清張の往復書簡が公開された。

九州出身芥川賞作家の先輩(火野)・後輩(松本)でありながら、共産党に戦犯と名指しされた火野葦平と、共産党シンパの松本清張とは、これまで並べて紹介されたことがない。

その2人の「往復書簡」が公開されたのは、火野が「実は戦争に批判的だった」という印象の変化があったからだろう。


その後も、たとえば2021年の西日本新聞で、「火野葦平の大本営直訴」というコラムが書かれている。



太平洋戦争の末期、戦争指導者に面と向かって作戦の無謀や前線の士気低下など深刻な問題を直訴した硬骨漢がいた。兵隊作家として国民的人気を博した火野葦平(1907~60)である。
(西日本新聞 2021年1月23日)



「兵隊作家」として、日本の戦争遂行に協力した火野葦平ですら、「史上最低の作戦」インパール作戦に従軍して、日本の戦争の愚をさとったーー

これは、戦後の戦争観に合致するとともに、火野葦平の作家的良心が感じられ、現代人の耳に心地よいエピソードだ。


しかし、このエピソードは、わたしは嘘だと思っている。

みんな、火野葦平にいっぱい食わされているのだ。


疑わしい証拠


このエピソードを語っているのは、火野葦平本人だけである。

ほかにいかなる証人もおらず、残された記録もない。


1944年9月25日、陸軍省大臣室で、火野葦平が杉山陸相その他と会ったのは事実である。

その跡は、火野の「手帖」に残っていた。

ただし、当日の出席者が記されているだけだった。


九月二十五日 陸軍省 大臣室にて

陸相 杉山元帥閣下
次官 柴山兼四郎中将
軍事課長 西村大佐
軍事高級課員 高崎大佐
軍務課長 赤松大佐
南方班長 高橋中佐
大臣秘書官 二宮大佐
元帥副官 小林中佐
報道部 澤畑中佐
大臣秘書官 宮本中佐

(『インパール作戦従軍記 葦平「従軍手帖」全復刻』p579)


この9月25日、火野葦平が大臣室で、インパール作戦の「報告」をおこなったのはたしかだろう。

しかし、それが、火野葦平の言うような、「処刑されても良い」という覚悟のうえでの「直訴」だったとは思えない。

そう判断する、さまざまな理由がある。



まず、素朴な疑問。

こんな「いいエピソード」を、火野はなぜ1959年まで黙っていたのか、ということがある。


火野は、戦後すぐに「戦犯」容疑をかけられ、1947年に公職追放された。

1950年に追放解除された後も、「戦争に協力した作家」という汚名は、ずっと火野を苦しめた。

みずからの危険をかえりみず、軍に直言したという、こんな「いいエピソード」を持っているなら、もっと早くに発表すればよかったではないか。

インパール作戦については、それを題材にした小説「青春と泥濘」を、追放中に書いている。その出版時など、いくらでも発表の機会はあった。


なぜ発表できなかったか。


出席者のうち、陸軍大臣の杉山元は、終戦直後に自殺している。

しかし、次官の柴山兼四郎中将は、1956年まで生きていた。

ほかの出席者についての没年は不詳だが、少なくとも柴山が死ぬまでは、発表できなかった。


なぜなら、「わたしの記憶とちがう」と言われるおそれがあったからではないか。


田中艸太郎の疑問


このエピソードはあやしい、と思ったのは、もちろんわたしが初めてではない。

田中艸太郎は、『火野葦平論』(1971、五月書房)で、このエピソードが、その後の火野の行動と整合しない、と書いている。


というのも、火野はその「直訴」のわずか2か月あと、南京で開かれた「第三回大東亜文学者大会」に参加し、大会3日目の11月14日、日本作家代表として「大会宣言」を朗読している。

以下のような「宣言」だ。


深く吾等の責任を感じ、大東亜戦争の完遂、大東亜文化確立の決意を固くし、・・・吾等は大東亜共栄圏内各民族の文化を高め、且つその大調和の達成に貢献せんことを期す。・・・大東亜民族精神の高揚を期す。


もし、インパール作戦従軍で日本の敗北を確信していたのなら、なぜ大東亜文学大会の代表を引き受けたのか。

そして、渡辺考のいう「軍部の意向とつねに寄り添っていた火野のなか」の「大きな変化」が生まれていたとすれば、こんな「宣言」を、朗読できるものだろうか。


当時、すでに日本の敗色が濃いことは、国民も感じており、作家たちも大会出席に消極的で、竹内好などは参加を拒否している。

それなのに、火野は、こうした戦意高揚の催しに、なお積極的だった。

田中は、こう書いている。


インパール作戦従軍による衝撃の余波が、南京大会で火野の胸中から消え去っていたと推定できる材料はない。またインパール作戦が火野の内部に深い絶望を宿したと推定できる材料はない。
(田中『火野葦平論』p80)


つまり、火野が何を考えていたかよくわからない、ということだ。


田中は書いていないが、この「大東亜文学者大会」の主催者には、朝日新聞社が入っていた。

戦中、火野葦平は朝日新聞と関係が深く(1940年に朝日文化賞受賞)、インパール作戦にも朝日の依頼で従軍している。

だから、朝日との付き合いという要素もあったのではないか、とわたしは思う。


そして、わたしは、「大本営直訴」のエピソード自体が嘘だと思っているから、大会への出席にさいして、田中のいうような火野の「複雑な心境」はなかったと思う。

田中は、


火野の従軍メモが残っていれば、あるいはその中に、当時の火野の心境を探り得る材料があるかも知れない。
(同p80)


と書いている。

その「従軍メモ」が、『インパール作戦従軍記』として2017年に出版されたわけである。

では、その従軍メモに、答えがあるのだろうか。


「従軍メモ」の反証


もし、火野のいう「直訴」のエピソードが本当なら、インパール作戦の従軍メモに、作戦への疑念や、日本軍の精神主義への違和感が記されていなければならないだろう。

火野の従軍メモは詳細で、発表を予定しない「本心」が記されていると思われる。


しかし、それを全部読んでも、「直訴」や、杉山陸相の精神主義に悲憤するエピソードにつながるような記述は見当たらない。

むしろ、その逆、インパール作戦を率いる牟田口廉也の精神主義への共感と、それを理解できない兵隊たちへのいらだちが書かれているのである。


それについては、以前、noteに書いたことがある。


火野は、1944年6月1日に牟田口司令官と会い、その印象を好意的に記している。


 猛将といわれる人であるが、一見すると好々爺のようだ。話好きの模様で、所信を積極的に語られる。身ぶり手ぶりで、賑やかに話をされ、屈託なく声をあげて笑い、すこぶる元気で、話は尽きない。さすがに話には芯があって、独特の人格が思われる。毛糸の袖なしチョッキ。
「あなたの書いたものは拝見したが、戦争は神聖なものだ。すべて大君へささげまつるの一念あるのみ。いつも部下に話をするのだが、三つのホルモンの注射をする。第一は戦争は必ず日本が勝つ、第二は戦争は外国人が考えるように悪ではなく善であること、第三は人生の完遂は臣下としての任務の完成以外にはないこと。」
「こんどの戦争はなかなか大変だが、大したことはない。自分は戦運のよい男だが、今度の戦もうまく行くものと信じている。いくらか、おくれてはいるが、大丈夫だ。」
「戦は必ず勝つし、念願のある者には一切の障害はない。」

(『インパール作戦従軍記』p167)


もっとも、この時点では、まだインパール作戦の成否は決していなかった。


しかし、その2カ月後、インパール作戦の失敗が明らかになった時点においても、火野の牟田口への印象は悪化していない。

典型的には、1944年8月19日、インパール作戦のあとに従軍した雲南作戦で、火野は、牟田口の盟友である田中新一師団長を、牟田口と一緒にほめている。


三橋少佐と閣下(田中新一師団長)のところへ話を聞きに行く。フーコン作戦の特異性について明確な説明。悽愴(せいそう)苛烈といえる戦いの真意についての意見。一人一剣による断、はじめて必勝の信念になるということ、大いに同感である。牟田口中将と一脈も二脈も相通ずるところのある信念の人。戦争哲学、高いものを求める深い志。その熱情に衝たれた。
(同p415)


さらに、8月24日に、再び田中師団長と会ったとき、寄せ書きを求められて、火野はこう記したと書いている。


「天地を轟かしたるこの戦牟田口の名の消えざらめやも」

(同p427)


「消えざらめやも」では、反語表現で、「消えないだろうか、いや消える」という意味になってしまう。牟田口の盟友の田中にそんな言葉を贈るはずはなく、たぶん「名は消えない」という意味の強調で書いたと思われる。堀辰雄の「いざ生きめやも」と同じ文法的誤りであろう。

つまり火野は、「インパール作戦が失敗だったとしても、牟田口の偉大さは変わらない」と思っていたのだ。


いっぽう、従軍メモで目立つのは、兵士の「精神主義」不足への不満である。


以下の記述は、従軍メモのなかでも、戦場の悲惨さが如実に描かれた白眉ともいえる場面だ。

しかし、そこで火野が感じるのは、英米への「憤怒」と、銃後への「叱咤」である。


7月4日(コカダン)

まっ青な顔にぎょろりと落ちくぼんだ眼を光らせ、全身まっ黒に泥と雨とによごれ、両手に杖をついて、亀の歩みよりもおそく、一歩一歩をはこんで来る二人の兵隊。足にはなにもはいていず、異様な色にはれあがり、杖と持つ手はまっ白に手袋をはめたようにふやけている。力のない声で、病院はまだ遠いですかときく。竹杖をついて、跛をひいて来る兵隊を見ると、左足にまいた布が血でまっ赤になっているが、ぬかるみにつっこんで泥によごれている。戦友の肩にすがって来る全身血まみれの兵隊。うつぶきかげんに杖をついてよたよたと来る兵隊の顔は原形をとどめぬほどに破れ、眼の下にも、唇の横もだらりと肉がぶら下がっている。道ばたにたおれている兵隊たち。その中の一人を首藤軍曹がおいおいとゆさぶったが返事がなかった。死んでいた。

すれちがうこういう状景に、眼を蔽いたいようだったが、腹のなかは悲しみと怒りとで煮えくりかえった。英米の奴、と、歯がみして憤怒の情がおさえきれないが、この兵隊の苦難と、銃後との結びつきはどうか。大悲哀のさなかに直立せよ。まっすぐにすべてを見よ。相すまぬ。銃後はもっとこれに応えるために心をひきしめねばならぬ。戦線はありたけの力を出しきり、尊い犠牲を日夜出している。銃後にはまだ余った力がある。その余裕が戦線の兵隊の苦難を大にしている。路上の凄惨な状態に涙がとまらない。

(同p258-9)


さらに戦場を進むにつれて、火野のメモでは、「はがゆい」という言葉が連発される。


7月10日
大したこともないのに後方へ下がることばかりを考えたり、大げさに病状を訴えたり、重いので小銃や鉄兜を木に吊るしておいて行ったりする言語道断の兵隊も少なくない。病気には同情するが気合が抜けていることがはがゆくてならぬ。兵隊の素質低下はやむを得ないことかも知れぬが、はがゆいばかりですまされぬ由々しき問題である。国難の真の意味はこういうところにあるかも知れぬ。
(同p291)

7月14日
画伯が煙草を吸っていると、もしもし、最後の火を消さないで私にくださいという者がある。そこらの兵隊に一本ずつやるとああうまい、何日振りかなあとよろこび、おたがい同志、病気のこと、病院のこと話し合う。愚痴ばかりで聞きづらい。ほかに話題もないのかもしれぬが、痛くても痛くないという兵隊の意地はないものかとはがゆい
(p301-302)

7月16日(マニブール川)
桟橋ながれて、昨日も一昨日も渡河作業をせず、両岸に荷物と人とがたまっている由。この大切な時期になんということかとその無責任にあきれる。こんな川ひとつを持てあましていたのでは大作戦はできまい。難曲を積極的に切りひらく気魄に乏しいとはがゆい。この作戦は陸つづきであるから、この程度でとどまっているのだが、島であったら、たいへんであろう。ガダルカナルその他の南の島々における苦難がそぞろ偲ばれる。
(p305)


「気合が抜けていることがはがゆくてならぬ」

「兵隊の意地はないものかとはがゆい」

「気魄に乏しいとはがゆい」


ここにあるのは、軍の精神主義への批判ではない。

むしろ、精神主義が足りないことへの不満であるのは明らかだろう。


つまり、従軍メモを虚心に読むならば、この従軍のあと、杉山陸相の精神主義を見て「悲しくなる」要素はまったくない。

火野葦平自身が、日本軍の精神主義の共感者であり、鼓吹者だったからだ。


しかし、『インパール作戦従軍記』の編者の渡辺考たちは、それでは自分たちの考える火野葦平像が描けないと感じた。

だから、前述のとおり「解説」において、火野が戦後に語った「陸相への直訴」のエピソードを引用して、「インパール作戦が火野の内部に深い絶望を宿した」云々という火野葦平像を補足するしかなかった。

(そして、そこにある矛盾には、目をおおっている。)


火野と杉山の8月15日


火野葦平と杉山陸相が大臣室で会ってから約1年後。

1945年8月15日、日本の敗戦を迎えて、両人は何を思ったのだろうか。


たまたま、両人が8月15日に書いたものが残っており、それを見比べることができる。

見てのとおり、ほとんど同じ精神内容である。


<杉山元>

御詫言上書

大東亜戦争勃発以来三年八ヶ月有余、或は帷幄の幕僚長として、或は輔弼大臣として、皇軍の要職を辱ふし、忠勇なる将兵の奮闘、熱誠なる国民の尽忠に拘らず、小官の不敏不徳能く其の責を全うし得ず、遂に聖戦の目的を達し得ずして戦争終結の止むなきに至り、数百万の将兵を損し、巨億の国幣を費し、家を焼き、家財を失ふ、皇国開闢以来未だ嘗て見ざる難局に擠し、国体の護持亦容易ならざるものありて、痛く宸襟を悩まし奉り、恐惶恐懼為す所を知らず。其の罪万死するも及ばず。

謹みて大罪を御詫申上ぐるの微誠を捧ぐるとともに、御竜体の愈々御康寧と皇国再興の日の速ならんことを御祈申上ぐ。

昭和二十年八月十五日 認む             恐惶謹言

陸軍大将 杉山 元(花押)
(Wikipedia「杉山元」より)


<火野葦平>

この数日のこと、筆とる心にもならず。すべて終り、すべて空しきのみ。歯噛みて唇をやぶるといへども、胸うちの怒りと悲しみとは去らず。ああ、力足らず、誠足らずして、真に宸襟を安んじ奉るを得ざる罪、死に値す。(十五日)
(北九州市立文学館の2020年「火野葦平展―レッテルはかなしからずや」展示より)

火野が取材帖に記した8月15日の言葉


ともに「宸襟(しんきん 天皇のお気持ち)」に応えられなかった責任に苦しみ、死に値する罪だと感じている。

杉山と火野が、同じ「思い」であったのが確認できる。


そして、杉山は、これを書いた1週間後(9月12日)、司令部で拳銃自殺する。

火野は、その杉山が自決した日の前後、9月11日と13日の「朝日新聞」に、「悲しき兵隊」という有名な文章を発表した。

それが彼の作家としての「遺書」であり、この文章をもって筆を折るつもりだったとされる。


われわれ日本人はいかなる現象の氾濫のなかにあっても、つねに炬火をかかげて国体の護持にあたらねばならぬ

畏くも軍人に賜りたる勅諭が単に軍人のみならず、国民全体の仰ぐべき規範であり、常住坐臥、国民の基としていささかも誤りのないものであるという私の長い間の信念は、いまも少しも変わらない。

これこそ聖断にこたえ奉る臣下としての唯一の道である。

(火野葦平「悲しき兵隊」 「朝日新聞」1945年9月13日)


火野葦平は「天皇主義者」であって、皇国史観を文字どおり信奉していた。

息子の玉井史太郎は、終戦直後に火野葦平が家族に書いた未公開の文書に、「臣 火野葦平」と署名したことを明かし、以下のように書いている。


火野葦平において特殊だったと思われる条件としては、母マンの、幼児からの東方遥拝の習慣化、天皇への信奉の絶対化という教育があったことが考えられる。

そのマンは、毎朝の東方に向かって手を合わせ、柏手を打つ習慣を終生変えることがなかった。(中略)

労働運動に献身するなかで、共産党の掲げる天皇制打倒のスローガンの前で尻込みした若い日に重ねてみても、敗戦という事態のなかで「国体護持」に「炬火をかかげてあた」ろうとする姿は、当時の心境をかなり正直に表明するものだったろう。
(玉井史太郎『河伯洞余滴』p74-75)


火野葦平は、杉山元と思いを同じにしながらも、杉山のように自殺することはなかった。

そして、「悲しき兵隊」をもって筆を折る決意をしたにもかかわらず、結局は、翌年から再び筆をとって小説を書き始める。


だが、その間にGHQの査問などを受けた火野葦平は、戦後の日本に適応するために、作風ーーというより、小説のなかの世界観を変える。

「天皇主義」を封印し、「戦争に批判的だった」という、もうひとつの自我を登場させるのである。


もうひとつの自我


戦後の時流に合わせた「もうひとつの自我」が典型的に現れるのが、公職追放中に書かれた『青春と泥濘』(1949)だ。

この小説は、前述のとおり、インパール作戦を題材にした作品である。「従軍メモ」をもとに、一部を仮名にするなどして「フィクション」として描かれている。

この小説の中では、従軍メモで、あれほど好意的に書かれていた「牟田口司令官」が、「瀬川」と名を変え、戯画的に表現されている。


酸っぱいチン酒を飲んだあと、軍司令官は、身ぶり手真似で、雄弁になる。

「この戦は勝つよ。大丈夫だ。俺を信じてくれ。なかなか大変だけれども、いろいろな理由から現在の戦状はやむを得ん。俺は戦運のよい男だ。
きっと勝つ。・・・これから、パレルの方に廻ってみるつもりにしているが。この困難な現状にへこたれるところは、すこしもない。勝利はいつでも最後を信じる側にあるんだ。このごろ、すこし士気が鈍って、泣き言をいう奴があるから、俺はいつでもいってやるんだ。勝利の神が瀬川を見放すわけがないじゃないか、って。戦争は神聖なものだ。戦争は戦争の神聖さを信じて、これに没入する者に、いつでも勝利をあたえるんだ。俺はいつも部下へ三つのホルモン注射をする。第一は必勝の信念、かならず日本が勝つという強固な確信を持つこと。第二、戦争は外国人の考えるように、悪ではないこと、正義の師は善なること。第三、人生の完遂は臣下としての任務完成以外はなにもないこと。こんなこと、みんな当り前のことばかりなんだよ。この三つが心魂に徹していたら、これくらいの戦、なんでもないんだ。なるほど、苦しい戦だ。しかし、こちらが苦しいときには、むこうも苦しい(後略)」

軍司令官の語調は熱を帯びていた。それは狂信者の真摯さを明瞭に示していて、ほとんど昂然としていた。

(新選現代日本文学全集 火野葦平「青春と泥濘」筑摩書房 p94-95)


牟田口(瀬川)の発言は、従軍メモとほぼ同じながら、火野の表現が、

「芯がある」「信念の人」「高いものを求める深い志」(戦中)

から、

「狂信者の真摯さ」(戦後)

に変化しているのがわかる。


「青春と泥濘」という題名は、作品の主張を端的に示している。

「泥濘」とは、インパール作戦に従事する側の火野葦平であり、「青春」とは、それを批判的に見る火野の「もうひとつの自我」である。

もしそれが戦中に発表されていたなら、「泥濘」だけの、いわば「泥と兵隊」のような小説になっただろう。

しかし、戦後の世界に適応させるために、火野は「青春」を対置させ、「青春」の側から戦争を批判してみせるのである。

この小説の最後の部分で、その図式が、以下のようにわかりやすく提示され、火野の「反戦平和主義」が披露されている。


僕はいま捕虜だ。(中略)

僕がつねに希望し信じて来たのは、人間の最後の結合の問題だった。戦争を超える人間の完成、虚偽と罪悪と、そして殺戮を超えた場所にある人間の結合、人間の青春ーー人間の救いは若々しいその人間の青春以外にはないのではないだろうか?

僕は日本人だ。日本の兵隊として、祖国の危急に際して戦った。それを恥じない。僕は最後まで日本人としてありたい。病院に運ばれ、いくらか健康を恢復してから、若干の訊問を受けたけれども、僕は必要以外のことは喋らなかった。僕は裏切り者とはなりたくない。ならない。英軍将校も深くは僕を追及しなかった。

しかし、日本人、民族、人種、言語、その結いめぐらされた垣が、人間の不幸をつくること、戦争の因となることは明瞭だ。僕は日本人として祖国を愛する。陛下のために、命を棄てることも悔いなかった。しかし、なにかで読んで憶えているが、トーマス・マンのいったように、国家などといっている間は、人間に不幸は絶えぬという言葉にもはげしく共感する。これこそが、人間の青春を破壊している真の泥濘かもしれない。

(前掲「青春と泥濘」p100)


そこには、1945年9月の「悲しき兵隊」に見られた、天皇主義者の火野葦平はいない。

天皇主義者であった過去を相対化し、「国家などといっている間は、人間に不幸は絶えぬ」と、登場人物に「反戦平和」を語らせる。


この小説を書く1947年までの2年間で、火野は、戦後に合わせた「反戦主義者」に「転向」したのである。

だから、1945年の朝日に載った「悲しき兵隊」の、上に引用したような「天皇主義」的な部分は、その後はなかったことにされる。

そうしなければ、火野は、戦後を作家として生きることを許されなかった。



だが、火野葦平の「本心」は、どうだったのだろう?

火野の「内なる天皇制」は、本当に消滅したのか。あるいは、「転向」は偽装であり、本当は天皇への想いを捨てなかったのか。


戦後、火野葦平の天皇観がどう変わったかは、興味深いテーマだ。

火野には「天皇組合」のような作品があり、文藝春秋の企画で、皇居で昭和天皇と面会する機会もあった。

このテーマについては、わたしには語る材料が乏しい。読んでいない資料があまりに多いからだ。


ただし、「陸相への直訴」のエピソードが、なぜ1950年代の終わりに書かれたのか、については、ある程度、推測できる。

ひとつの要素は、前述のとおり、1944年の陸軍大臣室での出来事について、ほかに証言者がいなくなったことが挙げられる。


それと同時に重要なのは、1950年代の後半、火野葦平は作家として、いろいろ追い込まれた状況にあったことだ。

1950年、公職追放解除の直後に書いた「花と龍」が大ヒットして、火野は流行作家に返り咲いた。

しかし、そのあとが続かなかった。


いっぽうで、九州出身の芥川賞の後輩、松本清張が、火野と入れ替わるように台頭していた。1957年の「点と線」によって、いちやく松本はベストセラー作家になる。


「九州文壇のボス」の地位があやうくなったと同時に、松本清張作品に象徴されるような戦前・戦中の左翼史観(暗黒史観)が、文壇でも主流になりつつあった。

1960年の安保闘争に向けて、左翼運動は盛り上がっていた。

戦争協力者であった火野の肩身は、ますます狭くなりつつあったのだ。


この状況に対応するため、火野はあらためて、戦時中の自分について弁明する必要を感じただろう。

その「弁明」は、2つの作品に代表される。

1つは、1958年に「世界」に連載した「青春の岐路」。これは、火野が左翼運動をしていた戦前の青春を描いたものだ。「兵隊作家」になる前に、左翼だったという経歴は、野間宏のような左翼作家に、火野を見直させることになる。

もう1つは、遺作ともなった、1959年「中央公論」連載の「革命前後」だ。

これは、前述のインパール作戦従軍、第三回大東亜文学者大会参加のあと、戦況悪化によって戦場取材ができなくなり、火野が福岡の「西部軍報道部」に徴用され、そこで敗戦を迎えて戦後に再出発するようすを描いた作品である。


この2つの作品と同時期に書かれたのが、「陸相への直訴」のエピソードなのだ。

つまり、火野が「戦争協力者」から「平和主義者」へ、「右翼」から「戦後民主主義者」へ、イメージチェンジしなければならない時期の産物だった。


この「直訴」のエピソードが、火野のイメージを変えるのに効果的であったことは、明らかだ。

このエピソードによって、現在でも火野が「本当は戦争に批判的な平和主義者だった」というイメージをつくることができている。


だが、その代償もあった。

「陸相への直訴」エピソードをつくったために、時間的にその後の「西部軍報道部」を描いた「革命前後」が、影響を受けざるを得なかった。

「直訴」と整合性を持たせるためには、敗戦前の「西部軍報道部」時代に、すでに戦争に懐疑的であった自分を描かねばならなかった。

だから、この時代と、敗戦直後まで残っていた「天皇主義者」的な自分の本当の姿を、作品の中で隠蔽しなければならなくなった。

そのため、「革命前後」は、非常に不正直な作品となってしまった。


この「革命前後」は、一般に、火野がみずからの戦争責任に向き合った「告白」のごとき作品だと思われている。

しかし、そういう作品として結実していないことは、以前にも論じた。


その点は、早くに田中艸太郎に非難されていた。


田中は、上に記したような「悲しき兵隊」中の天皇主義的部分が、訂正・削除されて「革命前後」に引用されたことを指摘した。

たとえば、1945年の「皇国のために、数ならぬ身の命を賭けて」の「皇国」は、1959年の「革命前後」では「祖国」に変えられた。同様に「皇軍」は「国軍」に変えた。こうした細かな訂正、削除をおこなって、火野は過去の自分を改ざんしている。

(なお、田中がこれを指摘した1971年時点では、まだ火野葦平の自殺が発表されておれず、病死と思われていたことは注記すべきだろう。それが自殺だったと発表されたのは1972年。)


田中は、火野をこう非難した。


善意をもって、火野の訂正、削除の意図を推測すれば、十四年の歳月によって変質した火野自身の「国家観」と「天皇観」が、あまりにも生ま生ましい国粋的言語の忠実な復元に堪えなかったのだろう。だが、「革命前後」が、ある意味では河上徹太郎の云うように、一身の誤解を恐れない<告白>文学を目指す限り、かつて火野が、丹羽文雄への書簡で述べたような「……多くの人が僕をみすてるかも知れない道を、僕は勇気を出して進まねばなるまい。」という決意に徹し、あえて、第一の「悲しき兵隊」は、一字の訂正も削除もなく「革命前後」の中に挿入れるべきだったのではないか、「革命前後」が戦争協力体験を忠実に再現した作品としてまれな価値を示したものとする評価が現れるようになった現在、協力の体験の最も深い心情の記録たる第一の「悲しき兵隊」はいかなる事情が火野の内部に介在したにしろ、そのままの形で生かされるべきであった。
(田中『火野葦平論』p124,125)


だが、1959年の火野葦平に、「多くの人が僕をみすてるかも知れない道」を進むような「勇気」は、もうなかったのである。


1944年9月25日に起こったこと


最後に、あらためて、1944年9月25日の陸軍大臣室で起こったことを想像してみよう。

この会見をアレンジしたのは、インパール作戦従軍時に現地で火野の世話をした陸軍参謀・瀬島龍三(のちの伊藤忠商事会長)だった。


瀬島としては、火野の見聞を、ジャーナリズムで使われる前に、軍で共有したかったのだろう。

火野が、牟田口ら司令官の批判をしたとは考えられない。

インパール作戦の失敗は、この時点ではみなわかっていたから、それを改めて強調することもなかっただろう。

火野は、インパール作戦で見た、兵隊の士気の低下を指摘して、もっと現場を引き締めるべきことを要求しただろう。

士気の弛緩の指摘は、軍の指導への批判であり、軍への苦言ではある。

それを、杉山陸相らは鷹揚に聞き、会見は終始友好的に進んだはずである。

この会見によって、軍と火野とのあいだの関係が悪くなった兆候はまったくない。


そこで起こったことを理解するためには、陸軍と火野との特別な関係を知らなければならない。

火野葦平は、陸軍によってきわめて厚遇され、特別視されていた、ほとんど唯一の作家であった。

火野の「麦と兵隊」などの兵隊小説は、陸軍の肝いりで、歌になり、映画(土と兵隊)になり、外国で翻訳書が出版されたりした。


それは、火野葦平が、必ずしも陸軍の思惑どおり、指図どおりに動いたり書いたりしたからではない。

火野は、軍に都合の悪いことを書くときもあったし、軍に苦言を呈することもあった。


それでも火野が、陸軍随一のお気に入りだったのは、結局のところ、火野の作品だけが一般的人気を呼んだからだ。

火野の、ときに反軍的な「人間臭さ」こそが、プロパガンダとして、最高の成果を挙げることを、陸軍は学んでいたのである。

五味智英は、火野のそうした「リアル」な部分こそが、「自然」であり、プロパガンダとして有用だったことを書いている。


火野の重要な「功績」は,従来の英雄譚ではなく,戦場の実相(一部であるが)や,下級兵士たちの生活をリアルに描き,彼らの辛苦を銃後の国民に伝え,双方の一体感まで生み出したことであ る。『麦と兵隊』『土と兵隊』に多くの惨苦が書かれていると,軍上層部の一部は不満であったが,火野は軍の制限範囲ぎりぎりまで書いて軍に認めさせた。これが戦争文学の一つのスタンダートとなり,他のルポルタージュや戦記物も暗黙の裡にそれに従った。 軍,国家は彼らの期待以上の火野作品で,国民に自然に「聖戦」「皇軍」を宣伝し,従来のどの戦記よりも効果的に国民の戦意昂揚を高め,国策に統合できることを学んだ。しかし,それは兵隊の一面のみの描写であり,暴虐な兵隊は全く登場しない描写は,軍にとっては都合の良い「リアリ ズム」でもあったのである。 さらに火野の「貢献」は,前述したように国家情報統制宣伝機関の思想戦・宣伝戦が国策遂行に有益であることを軍・官民の高官たちに認めさせたことである。
(五味智英「日中戦争期における清水盛明のプロパガンダ戦略と火野葦平」)https://meiji.repo.nii.ac.jp/records/10484


だから、火野が、何か軍の批判をするだろうことは、織り込み済みだったはずだ。

火野が、この会見の前に「逮捕されても、投獄されても、処刑されても良い」などと思ったように言うのは、滑稽なのである。


1944年9月25日にも、火野は、軍からいつも期待されているような役割を果たしたにすぎないだろう。

それを、それから15年たって、火野が「決死の直訴」のように言ったのは、「青春と泥濘」で、牟田口司令官のイメージを操作したのと同じ、自分の戦後の立ち位置を有利にするための操作だったと考えられる。

要するに、話を「盛った」のである。


火野の自殺


火野は、これら「戦後民主主義的」な自己イメージを作品その他に刻んだ直後、1960年に自殺した。

自殺の理由は、遺書に「芥川龍之介とは違うかもしれないが、或る漠然とした不安のために」と記された以外、不明である。


なぜ火野は自殺したのか。

それは、1945年に、杉山元の自殺と同時におこなわれるべきだった自殺の、遅すぎた実行だったのか。


逆に、火野が1960年に自殺しなかったとしたら、どうなったか。

火野は、田中が指摘したような「過去の改ざん」について、釈明しなければならない立場に追い込まれただろう。


火野は、「革命前後」が書籍として発売される前に死んだ。

「革命前後」が発売され、そこで過去が改ざんされていることを指摘されたら、火野は堪えられただろうか。説得力をもって応えられただろうか。

過去の戦争責任と正直に向き合っていないではないか、と追及されたらどうしよう、と火野は考えなかっただろうか。


自分が過去に記した「国粋的」「天皇主義的」な言葉の数々は、1960年以降も、たえず自分に降りかかってくる。

過去は変えられないのである。

それで、作家として、1960年代を生き延びることができただろうか。

松本清張は1959年、文藝春秋の「小説帝銀事件」を皮切りに、戦中・戦後の日本権力の「暗黒」をルポして、論壇の話題をさらった。

戦中の日本を「暗黒」視する松本清張の歴史観は、その後、文春ジャーナリズムのみならず、日本のマスコミの基調になる。

火野は、いつまでも自分が「暗黒」側であることを、自覚せざるを得なかっただろう。



自殺直前の火野葦平が、「死への思い」をつづった原稿が、2020年に発見された。

「愛も美しさもない暗黒」火野葦平、死への思いつづる 死去4カ月前の原稿発見(西日本新聞2020年11月18日)


その未発表原稿は、まさに「革命前後」が書き上げられつつあるころのものである。そこには、こうあった。


愚劣への恐怖。そして、自分が最大の愚劣だ。才能もなければ生活力もない。どうして今まで作家面して生きて来れたか不思議だ。死の予感。・・・味方は誰もいない。周囲の者はおれをカツオブシのようにすりへらすものばかりだ。愛も美しさもない暗黒。・・・いま死んだらどうなるのか……

北九州市立文学館の2020年「火野葦平展―レッテルはかなしからずや」展示より


過去への弁明を小説にしつつ、つもっていく自己嫌悪感。正直さ、誠実さが作家・火野葦平の取り柄なのに、それを裏切る後ろめたさ。そして、その葛藤を周囲に理解されない孤独が、感じられないだろうか。


火野葦平は、高血圧症で悩んでいたと言われる。

その「健康不安」が、火野の自殺の理由ともされる。


火野が自分の高血圧を気にし始めたのは、1959年4月から「週刊新潮」に連載された谷崎潤一郎の「高血圧症の思い出」を読んだためと思われる。

しかし、谷崎の高血圧と比べても、自分の症状がそれほど悪いとは思わなかったと思う。


火野の高血圧不安は、精神分析的にいうなら、真の不安から目をそらすための心気症状だったのだろう。

その奥に、より深刻な「将来不安」があることを、火野もうっすら自覚していたはずだ。

1960年1月23日の遺書には、本文のあとに、以下のように添え書きしてあったのも、それを裏付けると思う。


脳溢血でたふれた(倒れた)ものとあきらめて、みんな力を合わせ、仲よく、元気を出して生き抜いて下さい。

同上「遺書」



火野は、戦前・戦中をつうじて、「河童もの」の短編を多く書いた。

火野が描く河童は、庶民的で、おっちょこちょいで、直情的だが、憎めない正義漢、すなわちイノセントな存在である。

とくに、戦後は、火野は「河童もの」に固執したと言ってもよい。

人から色紙を頼まれたら、彼は決まって河童の絵を描いた。火野葦平の河童色紙は、いまも中古市場にたくさん出回っている。


その「河童」は、火野が、他人からそう思ってほしいような自分だった。

それもまた、戦争協力者としての自分を隠したいがための、「もうひとつの自我」だった。



以上、述べたのは、火野葦平の作家的評価を下げるのが目的ではない。

清水俊史が『ブッダという男』で論じたように、われわれは過去の人物を現在の価値観で評価して、その実像を見誤る。

火野葦平を、現在の価値観で「好ましく」描くことは、かえって彼の人間的苦悩を見逃すことになる。

火野葦平の実像を知ることは、歴史のなかの日本人の実像を知ることに通じるのだから、なおさら正確に知る必要がある。



<参考>







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