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「戦犯」の苦悩と欺瞞 牟田口廉也と火野葦平

最初に言っておけば、インパール作戦の司令官・牟田口廉也中将と、「兵隊作家」火野葦平は、どちらも東京裁判で正式に訴追されなかった。つまり正式な「戦犯」ではありません。

しかし、「史上最悪」といわれるインパール作戦で多くの日本兵を「無駄死に」させた牟田口と、小説で日本人を戦場に駆り立てた火野葦平は戦後、「戦犯」あつかいされました。


牟田口の「愚将」ぶりは、いまだにマスコミの話題になります。

「インパール作戦」を強行した牟田口廉也中将 毎夜料亭で酒を飲み、芸者を自分の部屋に(文春オンライン)


Wikipedia「牟田口廉也」を読むと、戦後の彼の苦悩がわかります。


戦死者の遺族が訪ねてくると頭を畳にこすりつけて土下座で謝罪をしていた。「死んだ倅を返してくれ」や「頭を剃って坊主になれ」という辛辣な手紙も数多く郵送され、同じ元軍人からも「腹を切れ」と自決教唆までされていた。そのため、旧軍人の集まりでも孤立しがちであり、昭和40年代にスバス・チャンドラ・ボースの慰霊祭が蓮光寺で開催された際、河辺をはじめとするビルマ戦線の旧将官や参謀たちが談笑する中で、一人離れて天を見上げ物思いにふけっている様子が見られたという

「私はインパール敗戦の責任者である。であるが故に、私は今日まで沈黙を守ってきた。私が発言すれば、すべて自己弁護だと思われるからだ。
私は佐賀の出身であり、幼にして葉隠の精神を訓えられてきた。従って、軍人である以上は死ぬことは少しも怖れていない。むしろ、こうした世の批難に耐えて生きることの方が辛い。苦しい。
一日として心の休まる日とてない苦悩のあけくれだった。」

精神的な苦悩によって身体的にも変調をきたしており、ビルマ従軍関係者が集って年1回開催されていたビルマ会という会合において、牟田口は途中で激しい痙攣におそわれ中座したことがあったが、医者の診察で「長年月にわたる精神的苦悩が原因」と診断されている



「戦犯」の訴追に抗弁せず、黙って従った人たちもいました。

しかし、戦後を生きるうえで、たえず世間への弁明と、自己正当化が必要な人も多かった。

牟田口と火野は、そういう人たちであり、かれら自身の自己評価も、

「自分は正しかったのか、間違っていたのか」

と、揺れ動いたのですね。


それは、火野や、いわゆる「戦犯」容疑をかけられた人たちだけの問題ではない。

その「自己評価の揺れ」は、多かれ少なかれ、その後の日本人に共通するものだと思うのです。


戦中は高かった火野の牟田口評


この二人、牟田口廉也と火野葦平は、インパール作戦中のビルマで会っています。

『インパール作戦従軍記 葦平「従軍手帖」全文翻刻』(集英社、2017)に収録されている、その会見録から、とくに火野の「牟田口」観の「揺れ」に触れたい。


朝日新聞の依頼で、インパール作戦に従軍した火野葦平は、1944年6月1日、インパールに近いビルマ側「テイデイム」の宿営で、牟田口中将と会見しました。

その模様を、火野は、(公開を前提としない)取材メモに、こう記しています(仮名遣いは現代風に変えた)。


隊長室に行くと、牟田口閣下と三浦参謀が話している。軍司令官(牟田口)はさして身体は大きくない人で、頭は禿げあがり、ものやわからな顔であるが、眼が鳶のように鋭い。猛将といわれる人であるが、一見すると好々爺のようだ。話好きの模様で、所信を積極的に語られる。身ぶり手ぶりで、賑やかに話をされ、屈託なく声をあげて笑い、すこぶる元気で、話は尽きない。さすがに話には芯があって、独特の人格が思われる。毛糸の袖なしチョッキ。
「あなたの書いたものは拝見したが、戦争は神聖なものだ。すべて大君へささげまつるの一念あるのみ。いつも部下に話をするのだが、三つのホルモンの注射をする。第一は戦争は必ず日本が勝つ、第二は戦争は外国人が考えるように悪ではなく善であること、第三は人生の完遂は臣下としての任務の完成以外にはないこと。」
「こんどの戦争はなかなか大変だが、大したことはない。自分は戦運のよい男だが、今度の戦もうまく行くものと信じている。いくらか、おくれてはいるが、大丈夫だ。」
「戦は必ず勝つし、念願のある者には一切の障害はない。」

(『インパール作戦従軍記』p167)

牟田口廉也中将
火野葦平『インパール作戦従軍記』


インパール作戦は乾季のうちに決着がつくはずだったのに、この6月にはすでに雨季が始まり、作戦が暗礁に乗り上げいてることは、火野にも明らかだった。

しかし、そのメモからは、火野が牟田口に好意的で、「芯がある」ことに感心していることがわかります。


それは、インパール作戦の失敗を確認したあとも変わりません。

その2カ月後(8月19日)、火野は中国・雲南省で、雲南戦をたたかう第18師団(菊師団)の田中新一師団長と会います。

田中は、牟田口と考え方のよく似た「イケイケ」の人で、二人は思想的同志でした。

火野は、その田中をほめる時も、牟田口と一緒にほめています。


三橋少佐と閣下(田中新一師団長)のところへ話を聞きに行く。フーコン作戦の特異性について明確な説明。悽愴(せいそう)苛烈といえる戦いの真意についての意見。一人一剣による断、はじめて必勝の信念になるということ、大いに同感である。牟田口中将と一脈も二脈も相通ずるところのある信念の人。戦争哲学、高いものを求める深い志。その熱情に衝たれた。
(同p415)


(なお、8月24日に、再び田中師団長と会ったとき、寄せ書きを求められて、火野はこう記したと書いている。

「天地を轟かしたるこの戦牟田口の名の消えざらめやも」
(同p427)

「消えざらめやも」では、反語表現で、「消えないだろうか、いや消える」という意味になってしまう。牟田口の盟友の田中にそんな言葉を贈るはずはなく、たぶん「名は消えない」という意味で書いたと思われる。つまり堀辰雄の「いざ生きめやも」と同じ文法的誤りだと思う)



戦後の小説のなかの「牟田口」


それが、戦後にどう変わるか。

上記の「取材メモ」は、公表されることを予定されていません。

しかし、インパール作戦を題材にした小説「青春と泥濘」(1949)で、牟田口に関する部分は、メモの内容がほとんどそのまま使われています。

その部分は以下のとおり。小説のなかで、牟田口は「瀬川」という名で登場します。


酸っぱいチン酒を飲んだあと、軍司令官は、身ぶり手真似で、雄弁になる。

「この戦は勝つよ。大丈夫だ。俺を信じてくれ。なかなか大変だけれども、いろいろな理由から現在の戦状はやむを得ん。俺は戦運のよい男だ。
きっと勝つ。・・・これから、パレルの方に廻ってみるつもりにしているが。この困難な現状にへこたれるところは、すこしもない。勝利はいつでも最後を信じる側にあるんだ。このごろ、すこし士気が鈍って、泣き言をいう奴があるから、俺はいつでもいってやるんだ。勝利の神が瀬川を見放すわけがないじゃないか、って。戦争は神聖なものだ。戦争は戦争の神聖さを信じて、これに没入する者に、いつでも勝利をあたえるんだ。俺はいつも部下へ三つのホルモン注射をする。第一は必勝の信念、かならず日本が勝つという強固な確信を持つこと。第二、戦争は外国人の考えるように、悪ではないこと、正義の師は善なること。第三、人生の完遂は臣下としての任務完成以外はなにもないこと。こんなこと、みんな当り前のことばかりなんだよ。この三つが心魂に徹していたら、これくらいの戦、なんでもないんだ。なるほど、苦しい戦だ。しかし、こちらが苦しいときには、むこうも苦しい(後略)」

軍司令官の語調は熱を帯びていた。それは狂信者の真摯さを明瞭に示していて、ほとんど昂然としていた。

(新選現代日本文学全集 火野葦平「青春と泥濘」筑摩書房 p94-95)


牟田口(瀬川)の発言はメモとほぼ同じながら、火野の表現が、

「芯がある」「信念の人」「高いものを求める深い志」(戦中)

から、

「狂信者の真摯さ」(戦後)

に変化しているのがわかります。

戦後の小説の中では、取材メモに見られるような肯定的表現は一切使われず、冷たい扱いになるのです。


火野葦平のごまかし


火野葦平は、戦後、「自分はオポチュニスト(機会主義者)ではない」と主張しました。

つまり、その場その場で思想を変えたわけではない。自分は真面目に生きてきただけで、一貫している、と。


日本の戦争が間違っていたとしても、兵隊さんが悪かったわけではない。自分が日本兵を肯定的に描いたのは悪くない、と。

自分は本当は戦争に反対で、平和を求めていた。しかし、あの時代には自由がなく、みんなが戦争への協力を強制されたのだ、と。


こうした火野の自己宣伝を、多かれ少なかれ信じて、

「火野葦平は好戦的な右翼ではなかった。本当は平和を求めた庶民派作家だった」

という火野葦平観を広めようとしている人たちもいます(上記『インパール作戦従軍記』の編者たちもそうです)。


わたしも、火野葦平をそのように弁護することはある。

ただ、それを信じるとなると、いろいろ不都合な点が出てくる。

火野自身が、自分の戦中の記述や思想を、戦後にかいざんしている例がけっこうあるからです。

どこまで意識的だったかはわかりませんが、戦後の世相に適応するために、「自己欺瞞」を続けなければならなかった面が、どうしてもある。

その例を、ここでこれ以上挙げることはやめますが(いずれまとめてやりたい)。


反論と自殺


もちろん、そういう火野葦平の境遇は、気の毒でもあります。

前に書いたように、「天皇も責任をとっていないのに、なぜ自分だけ責められる」という意識が、火野にはあったとわたしは思っています。その気持ちはわかるのです。


牟田口廉也の場合は、1962年に、インパール作戦を評価するイギリス退役軍人が現れたのをきっかけに、「反論」に転じました。


戦後長い間「無謀な神がかりの将軍」などと呼ばれ「あれで牟田口はよく生きておられる」と罵られてきた牟田口は、今までの鬱憤を晴らすかのように、積極的にこの主張を行うようになった
(wikipedia「牟田口廉也」)


インパール作戦の評価について、わたしはよくわかりませんが、牟田口は1966年に77歳で死ぬまで、インパール作戦正当化の論理を主張しました。


いっぽうの火野葦平はどうだったか。

1959年に書かれた小説「革命前後」は、いわば火野による自己正当化の試みでした。

しかし、それを書き上げた直後の1960年に、彼は自殺します。

「革命前後」は、自己正当化なのか、自己否定(反省)なのか、よくわからない作品になりました。

火野は、牟田口のように世間にむかって「反論」することはついになく、その代わり「自殺」を選んだといえるでしょう。




<参考>







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