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「暗殺が成功して良かった」発言 島田雅彦の不始末と、わが世代の不徳

文芸村の権力者


島田雅彦が炎上している・・


作家で法政大学教授の島田雅彦氏(62)が、安倍晋三元首相の暗殺事件を念頭に、「暗殺が成功して良かった」などと発言した問題が大炎上を続けている。


でも、「暗殺が成功して良かった」という島田の発言は、それほど意外ではない。

業界の人が、仲間内で放言している類のことだよね。というか、「安倍殺されろ」的行動を公然とやってきたわけだし。

それが岸田首相襲撃事件と重なって、炎上となったのだろう。

業界的には何でもない、と言っても、その「業界」がトンデモナイのは事実。島田個人が問題というより、その「業界」が問題。

その「業界」というのは、いまの文芸界含めたマスコミ全般ですが。


ここでも、池内恵東大教授の尻馬に乗らせてもらう。

彼が今、日本でいちばん正しいことをバンバン言っているからね。


(島田は)昔からそんなことばっかり言っている人なんだよね…バブル時代に「就職したくないから作家になりました〜」みたいな話ががもてはやされた、一時の豊かさを享受した極東の島国の文芸業界の権力者。大学の文系がこういう人たちを教員にするようになったのが凋落の原因か結果かは分かりませんが

実売部数はほとんどないこういう作家、「大学教授」の権威づけとそして給料が重要みたいで、私大文系が教授にすると大喜びで授業やって先生と呼ばれていますが(色々学生とトラブル起こしている人もいますが)、日本の大学の人文系の問題の一つと思います。カルチャースクールと大学は別でしょう。


彼ら明確に権力者なんですよね。編集者にはじまり、文化人を利用したい行政・企業の追従者に囲まれている。しかしのちの時代に残る作品はない。同時代人にすら読まれていない。


池内氏が最後に言っていることが重要だ。

彼らーー島田雅彦のような80年代文化人が、今や60歳代になり、業界の権力を握っている。

芥川賞を取れなかった島田が芥川賞含む文壇の人事権を握り、京大教授になれなかった浅田彰がいくつかの芸術系大学の人事権を握っているらしい。

ゆくゆくは、芸術院とか学士院とかに入って、日本文化を代表する地位に就いても、不思議ではないですね。80年代文化のプロデューサーであった三浦雅士が芸術院会員になったし。

こうした「新人類」「ニューアカ」「ポストモダン」の80年代文化人の恥ずかしさについては、(そこでも池内恵氏の尻馬に乗って)すでに書いている。


恥ずかしい人たちが権力者である業界は、それは恥ずかしいさ。



彼らが「サヨク」である理由


島田雅彦、浅田彰、田中康夫、町山智浩、香山リカ、青木理・・

こういう人たちは、多少の年齢の差はあれど、私と同時代に生きた、80年代文化人なわけです。

島田雅彦には少なくとも1つの偉大な業績があって、それは「サヨク」という言葉を作ったことですね。

彼らは、それまでの「左翼」とも「新左翼」とも違う「新しさ」を誇ったわけで、その呼び名として「サヨク」というコピーは秀逸だった。

しかし、結局、左翼の根本は同じなんですよ。

彼らは、自民党と天皇制を選びつづける日本人を「土人」だと思ってる。

殺人を公には肯定しないだろうが、少なくとも思想的には「安倍は死んでよかった」と思っている。

自分たちは新左翼党派や共産党に入って政治活動をするわけではないが、思想的には同じであり、文化・言論活動を通じて、安全地帯から左翼活動をしている。そういう人たちの総体が、「サヨク」ですね。

そうした「80年代文化人」のくくりとはややズレるけど、「ジャーナリスト」と称する有田芳生や江川紹子も、同じだと私は思っている。

もともとは日本共産党にルーツのある人たち。唯物論者だから、宗教に一片の同情も理解もない。彼らの「オウム真理教」「統一教会」追及に私が同意しないのは、そもそも宗教を侮蔑しているからです。その追及は思想弾圧と同じだと私は思っている。

私も「自民党」や「天皇制」や、宗教と政治と癒着に対して批判がありますが、あくまで民主主義と自由と公正な言論ルールを守る中でやるべきだと思っていますからね。それがリベラリズムだから。

そして、日本の民族的な歴史には、国民として最低限の敬意と親しみを持っている。

しかし、日本史への敬意などはなく、また、民主主義だの公正さなどよりも、「自民党」や「天皇制」を破壊するのが先だ、というのが彼らの思想ですね。その急進性が彼らにはかっこいい。その目的のために手段が正当化される。それが左翼。

(島田は「天皇制」への嫉妬や倒錯した「愛」を書いていたりしたが・・あ、それで勲章をもらえたのかな)

いまの業界の主流では、その左翼思想が「密教」として共有されている。そのことは、ここでも繰り返し指摘してきました。

島田雅彦の今回の発言は、その「密教」がちょっと漏れちゃった、ということですね。


80年代文化が恥ずかしい理由


でも、私のような意見ばかりではない。

同世代で飲んだりすると、時に「80年代文化」の評価をめぐって議論になったりする。

私は、ずっと書いてきたとおり、80年代文化は恥ずかしいという意見だ。

あれは、生まれた時から豊かさと平和を与えられていた世代が、カネ余り時代に調子に乗っただけの文化で、世界に通用せず、恥ずかしい、と。そういう認識が、池内恵氏と共通していると思う。

浅田彰とか島田雅彦とかが大した本が書けなかったのは、結局大した「経験」がなかったからだと思う。頭デッカチな知識だけでね。

そして、それは他人事ではなく、自分もそうなわけです。世代全体が恥ずかしい。全共闘世代も恥ずかしいけど、我々も恥ずかしい。

で、実際、現在の日本文化に積極的に貢献しているのは、全共闘より上の世代の宮崎駿だったり、80年代文化世代より下の新海誠だったりする。

全共闘世代は少なくとも村上春樹を生んだけど、80年代文化世代(1960年前後生まれ)は島田雅彦しか生めなかった・・

のちの世代には、我々のことは無視して先に進んでくれ、と言うしかない。

しかし、「80年代文化は意味があった」という意見の人もいるわけです。

私はもう業界にうんざりし、業界からもうんざりされ、放逐されて無職だけど、「80年代文化に意味があった」という人たちは、まだ業界にいて、けっこういいポストに就いていたりする。

業界の特殊思想に適応できた人だけが出世するわけで、それはどの世代でも同じかもしれない。


島田雅彦とショスタコの思い出


ところで、もうみんな忘れているだろうけど、ショスタコーヴィッチが1975年に死に、1977年に西側初のショスタコ交響曲全集をハイティンクが録音したとき、その日本盤の解説を書いたのは、島田雅彦なんだよね(1980年代半ば)。

当時の島田は「知の最先端」の人で、かつ東外大ロシア語学科出身だったから、解説に最適だと思われたのでしょう。

こんな文章です。

「ともすれば音楽史の中で過小評価され勝ちなショスタコーヴィチに、新たな光芒を見いだすこと、新たな価値を惜しみなく与えることが必要だ。実際、ショスタコーヴィチはそれに値する作曲家である。」

「交響曲の長い歴史はショスタコーヴィチの第14番、第15番以後、長い眠りにつくことだろう。」

「サーカスのジンタとワーグナーの無限旋律、ハ長調の全音階と十二音技法が、何の矛盾も合成された時、ショスタコーヴィチの交響曲はユーモアとパロディを含んだ悲劇として、完成したのだ。」


特別に変なことを書いているというわけではないが(ハ長調の全音階?とは思うが)、大仰な文章だな、とは思う。「光」でいいのに「光芒」と言ったり、「与える」でいいのに「惜しみなく与える」と言ったり。

これを最初に読んだ時から、「なんかすごい無理な背伸びをして書いているな」という印象を持った。

それは、彼もまだデビューしたての若者だったから、仕方ないかもしれない。

それでも、専門家筋に対しても、「ちょっと気の利いたことを言う」才能はあったと思う。


私もマスコミにいたので、島田雅彦とは何度もすれ違ったが(よくパーティとかにいる人だったので)、畑が違って面識はない。

しかし、随分前に、一度だけ話す機会があった。

その時に、私はショスタコーヴィチの話題を出したのだが、彼はショスタコーヴィチのことなど、すでにほとんど忘れていたようだった。


島田とか、浅田彰とかに共通するのは、短い、機会音楽(演奏会以外の慶弔などのために作曲される音楽)のような意味での「機会的」な文章が、うまいことですね。でも、立派な小説や、長い論文は書けない。基本的にコラムニストの才能なのだと思う(だから島田は、芥川賞受賞作は書けないが、芥川賞の選評なら書ける)。この特性は、80年代文化人に広く共通している。


それはともかく、今回の一連の騒動で、島田雅彦の発言や文章を読んで、思い出したのはやはり30年前の「ショスタコーヴィチ論」だった。

簡単なことを、何か大仰に、「文学的」に表現する、その仕方に、「進歩がないな」と思ったのでした。







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