随筆(2021/2/1):小学校算数水準での数の掛け算の「順序」という、しばしば「数学」「教育」上有害にはたらく、公理っぽい何か(C.数の掛け算の「順序」の狙いは、「個々の条件やその性質としての単位を無視する子供に、それらを自覚させる」ことにある)
2_3.小学校算数水準での数の掛け算の「順序」を、「数学」「教育」で教えるとは、どういうことか
こうした小学校算数水準での数の掛け算の「順序」を、「数学」「教育」で教えるとは、どういうことか。
それは「数学」そのものの都合なのか、数学そのものとは関係ない、「別の事情」における都合なのか。
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もちろん、「数学」そのものの都合ではないんですよ。
小学校算数水準での数の掛け算の「順序」ということを、「数学」そのものは何ら認めていない。
これは付加的な、不要な条件だ。小学校算数水準での数の掛け算を「無駄に」狭めている。
数学の立場ではどちらでもいい、余計な事であるのに、数学教育の立場では一部不正解になる。
何らかの「別の事情」でこうなっている。
だったら少なくとも、それに伴う責任は、数学の負うべきところのものではない。その「別の事情」が負うべきものだ。
2_4.意図しているものは何だと考えられるか
2_4_1.意図しているものは何だと考えられるか
つまりは、何らかの「別の事情」がある。
こういうことをあえてする狙い、意図しているものは、一体何だと考えられるか。
要するに、期待し得る利益とは何か。
2_4_2.その狙いは、「全体としての結果と、個々の条件と、その性質としての単位が全て必要な時、個々の条件や性質としての単位を無視する子供に、それらを自覚させる」ことにある
様々な意見を見ていて、ある一つのことが浮かび上がってくる。
数の掛け算の「順序」による、数学教育上のメリットとは、
「全体としての結果と、個々の条件と、その性質としての単位が、全て必要な時(に限り)、
個々の条件や性質としての単位を無視するような生徒に、
それらを自覚させる」
ことにある。
そう見ると非常に見やすくする。
結果としての12ではなく、個々の3×4や4×3が大事なことがある。
3日間4食食うのと、4日間3食食うのとでは、カロリーは同じでも、健康への影響は違う。かかる時間や頻度が異なると、消化や吸収や排泄の負荷に効いてくるからだ。時間や頻度などの個々の条件は、無視しない方が良い場合がある。
これは、かなり限定的な理由だが、否定はしない。
全体としての結果と、個々の条件と、その性質としての単位、全てに意味や価値があり、必要な場合。
実生活では、明らかに、ある話だ。
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別の理由はもちろんあるかもしれないが、
「これは違うし、そんなことはどうでもいい」
と言われると、だいぶ困惑がある。
そういう苦言を呈する人に、改めてよく説明してもらったら、結局は
「個々の条件やその性質としての単位は、必要なことがあり、そういう時に備えて重視されるべきである」
という話に他ならないことがよくある。
違わないではないか。何だそれは。
それとも、「本当に」これはどうでもいいことで、他により目立った狙いがあるのだろうか?
その話はもちろんコメント欄で募るものです。
とにかく、
「私はこう見た」
ということです。
2_5.その意図はどういう時に限って成り立つのか
2_5_1.さっきの話は、これが相手に伝わって、理解できる場合に限り、正当化される
さて。
上記の意図はどういう時に限って成り立つのか。それ以外の時には適用すべきではないのか。どういう場合分けが可能かが、こちらの局面でも大事になってくる。
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さっきの話は、この狙いなり意図なりを、相手に説明していて、狙いが伝わっていて、相手が理解できている場合に限り、正当化される。
「全体としての結果と、個々の条件と、その性質としての単位、全て必要な場合が、ある」
「諸君は個々の条件や、その性質としての単位を、常にどうでもいいと言って無視してはいないか」
「これらを無視せずに自覚してもらうことが、この教え方の趣旨である」
まずは、こういう話をしなければならない訳だ。
この話をしなかった場合、その教育は、教わる側には意味不明なものになる。
どう解釈されるか、まるで分かったものではない。
というか、何一つ理解されないままである可能性がかなりある。
(これは当たり前で、要するに「説明してない」からだ。
説明していないのに「分かれ」というの、ふつうは無理な要求でしょう)
2_5_2.(混乱の元の解体・戊)これは「理論や理屈としての数学の話」「でなく」、「応用の実用としての一定水準の社会生活の話」であることを明示する
数学と数学教育に距離があるということをちゃんと弁えて、混乱を避けようとして、丁寧に説明すると、
「これは、数学としての観点からは、『小学校算数水準での数の掛け算の話』『ではない』」
「『社会生活で、全体としての結果や個々の条件が問われて、しかもそこに性質として複数の数と複数の単位が出て来る場合の話』だ」
「『理論や理屈としての数学の話』『でなく』、『応用の実用としての一定水準の社会生活の話』だ」
「事ここに至っては、ここで行われているこの数学教育の狙いは、『理論や理屈としての数学の話』『ではなく』、『応用の実用としての一定水準の社会生活の話』に寄与することである」
「今後からは、理論理屈と応用実用は、説明がなくとも自分で適切に都合よく区別出来ていて欲しい」
という話も、しなければならなくなるだろう。
繰り返しますと、これは
「理論や理屈としての数学の話」
「ではない」。
2_5_3.相手に伝わっておらず、あるいは相手が理解できていない場合、それはもう正当化できなくなる
で、もちろん、ここでつまづく生徒がいるということは、伝わってないか、理解出来ていないということだ。
要するに、そこはその生徒にとっては何らメリットになっていないということである。
というか、こんなことをしている限り、メリットの話、何一つ成り立ってない。全部台無し。
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教育には、ふつうは
「理解のために意義を説明されていなければならないこと」
や、
「説明すると受け入れられなくなるので、それとなく方向づけて、自分で心底気づかせるべきこと」
がある。
もちろん、上の話は、説明が要るタイプの話だ。
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で。
上の話を最初から「自覚している」、「説明している」、「理解させようとしている」教師が、そもそもどれほどいるだろうか。
教師としては、特に、「自覚していない」、「説明していない」、「理解させようとしていない」のではないだろうか。
だからこそ、ありかなしかのメリットは完全になしになっているのではないだろうか。
だからこそ、問題が起きているではないだろうか。
メリットの話をしたいのなら、それが実際にメリットのある「成果」として出ているかどうかは、当然問われることになる。
実現したかどうかの「結果」の話ではない。結果は出ても、成果としては芳しくなかったことはよくある。
アセスメント(査定)可能なレベルで、それなりのプラスの成果、現に出ているだろうか?
基本的にはこういう話は避けられないように思う。
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説明が必要な、伝わらなければ台無しになるメリットは、ちゃんと説明して伝えていかねばならない。
そして、その効果が限定的であることも、弁えなければならない。
そういう前提を踏まえてやって、意味や価値があるかどうか、ちゃんと調査と評価をして、そうして初めて教育方針としてありかなしか判断出来る。
残念ながら、今のところ、そういう前提自体が疑わしい。
だから、これは予断を独断的に持ち込んでいるということだ。
妥当性があるかないか問われるテーマの検証のためにやるのと、「これは妥当だ」と決め打ちでやるのとでは、妥当性がまるで違う。
ここら辺、ちゃんと確認した方がいいですよ。
このままでは、「これは妥当だ」ということの、身の証が立たない。
身の証が立ってないのに、「これは妥当だ」と突っ張るの、身の証が求められている時に、やらないでほしいんですよ。
2_6.なぜそんな場合分けをせねばならないのか
平たく言えば。
全体としての結果が必要で、個々の条件も必要で、しかもその個々の条件の性質としての単位も必要な場合。
小学校算数水準での数の掛け算の「順序」には、意味も価値も認めうる。
個々の条件を問われなかったり、それらの性質としての単位が問われなかったりする時。
小学校算数水準での数の掛け算の「順序」には、意味も価値もない。
そして、問われないことは極めて多い。
例えば、前にも書いたが、単位のない九九や、同じ型の単位の掛け算を行う面積・体積の時がそうだ。
こういった場合に、小学校算数水準での数の掛け算の「順序」を突き付けることには、やはり意味も価値もあるまい。
要求の前提が成り立っていない場合、その要求を飲むのは、ふつうは無駄なことだ。
あるいは、それをやって最終的には何のメリットももたらされなかったり。
あるいは、標榜されているメリットが、事情が変わった瞬間、あっけなく消滅したりすることが、強く予測される場合。
そんな無駄なことを、なぜ相手が素直に聞き入れなければならないのだろうか。
「これは、今も今後も将来的にも、無意味で無価値な約束事だが、やりなさい」
という話、意味や価値がある場合ほどの説得力を持たない。
そりゃあそうだ。自分が言われたら、やる気、出ないでしょう。こんなの。
そういう時に、そういう要求、しない方がいいですよ。不毛だから。
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必要とも義務とも言えないことに、リソースを割き、関係者が疲弊して。
メリットでより良くする以上に、デメリットも目立って大きかったら。
「メリットがあったから良かったのである」
という話は、ふつうは評価されない。
「その疲弊やデメリットを犠牲として受け入れて、なおもどうしてもやらなければならなかったことだったのか?」
こう問われた時に(問われる可能性はかなりある)、繰り返し
「メリットがあったから良かったのである」
という話を、例えば予算担当者やテレビカメラの前でしたあかつきには、言った側はまあ問題視されるだろうし、そのまま見逃してくれるかはかなり怪しい。
自分のやっていることが本当に良いと思っているのなら、正にこの回答が出来なければならない。
そうでないなら、それは実は
「良くも何ともないことを、リソースを費やしてやった」
ということになる。
これが受け入れられるかというと、まあ受け入れられまい。
まして、当然ながら、これが「良い」という話にはなり得ない。
で、実際に、
「総合的に見れば良くも何ともないこと」
として判断されてもしょうがないことをしている。
そりゃあ、ダメ扱いされても、しょうがないでしょう。
「そんな正直な、しかし一般人には分かりづらいことを言うからダメなのだ。そこはうまくやろう」
という話があるかもしれないが、これは単に
「言っている側が一般人の価値観を持たない、あるいは価値としてあまり認めていないない」
という話でしかない。
一般人は疲弊やデメリットを重く見る。
ここらへんの価値観をそもそも軽視している人が、一般人相手に
「疲弊もデメリットもどうでもいい。やらせろ。見守れ。金を出せ」
という話をしたら(正にそういう話を現にしている訳です)、それは説得など出来る訳がない。
ふつう、疲弊やデメリットは、無視していいほどには軽い話ではない。
余程のメリットがもたらされたのでなければ、その疲弊は
「無駄な疲弊」
になり、そのデメリットは
「無駄に受け入れさせられたデメリット」
となり、言った側は
「それらの無駄な犠牲を強いて、しかも無視する、信頼出来ない人」
たちということになってしまう。
共通していて欲しい価値観を持たないし、だから信頼も出来ない相手に対し、見守ることも、金を出すことも、そりゃあしたくないだろう。
これは、社会生活あるあるだ。せめて、そこは押さえておくべきだ。
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そう。だから、これは、無駄な話だ。
そういう無駄、避けたいではないですか。
この世にも、自分にも、相手にも、そういう無駄に付き合ってられるほどのリソースは、ふつうまずないものだ。
まして、それに付き合ってリソースが枯渇して、社会生活でドロップアウトしたり、死んだりするの、おそろしくばかげている。
「なぜそんなことをしなければならない? 嫌だね」
という反応を喰らうの、ごく当たり前だと言える。
これが、場合分けをしようとする理由の核心だ。
それは、リソースを考えたら、出来るだけ避けるべき、無駄だ。
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もし、どうしても、小学校算数水準での数の掛け算の「順序」を突き付けたいのならば。
ここの場合分けは、せめて断固としてせねばならない。
ちなみに、前提となる、上記の意図の説明と、その前提における「どういう時に限って成り立つか」という制約の話を、初手で明示している人、残念ながら今まで見たことがありません。
この様子では、おそらく生徒相手にも明示していないでしょう。
場合分けなどせず、一般的な話として、この話をしようとするのなら。
数学や、数学教育や、社会生活に対する、大きな不適応が待ち構えています。
こうなったらジエンドです。この路線は採用出来ない。放棄せざるを得ない。
(そういう話を、次回行います)