人生の振り返り

今までの人生を振り返って、自分なりにまとめていきたいと思います。

その中で家庭環境だったり恋愛関係、病気・障害のこともそれぞれまた掘り下げて別記事で書けていけたらなと思ってます。
今回はあくまで思い出したことを軽くパパっと書き殴って(打ち殴って??)いきたいと思います。
なのでこの記事に書いたことがまた別記事で出てくるとは思います。サーセン

過去の記事にも書いたことや、乱文だったりで読みづらいと思いますが
あなたが飽きるまで、どうかお付き合いください。

ちなみに私はADHD(注意欠陥多動性障害)と双極性障害(いわゆる躁鬱)と愛着障害を抱えています。

幼少期


この辺りは私の記憶にないんで、両親の言っていたことを書くだけやけれども……
ショッピングモールやスーパーで手を離すと3秒でどっかに行くとか、お友達からおもちゃを奪ったり、借りたおもちゃを壊してしまったり、結構やんちゃというかお転婆というか問題児だったみたい。
すぐ迷子になってサービスセンター?の常連だった。
チャイルドシートから抜け出したりとか(笑)
脱走犯と両親から呼ばれていたっぽいwwwww
ADHD全開ですねえ~~~
当時住んでいたアパートの1Fがそのアパートの事務所?で、ちっちゃ~な公園っていうか砂場があったからそこでキャッキャと近所の子たちと砂遊びしてて。
事務所前に置いてあった(おそらく砂場の砂足し用?)の砂を勝手に開けて泥団子のさらさらの砂として使っていたり。
(最初は水分多めの団子を作って、そこから普通の砂で補強していって、最後にさらさらの砂でコーティングするのが好きだった)
幼稚園では鉄棒から落ちて顎を出血するも怒られたくなくて先生に黙っていたりもした。(結局バレて怒られたけれど)
幼稚園は2か所、小学校は3か所通っていて、いわゆる転勤族だった。
当時、私は幼稚園の年中?年長?忘れたけど、ある日母に「ここって私のお家だよね?」と聞いて母が「せやで」って言ってくれて、
私はもう友達と離れたくない、ここは私の家なんだって思って、トイレのドアに自分の家のハンコ(シャチハタ)を押しまくった。
もう引っ越しするのが嫌だった。
両親曰く「せわしない子」「よく動く子」「感受性が強い」「頭の回転が速い」「じっとしていられない」
あとはプールが好きだったみたい。

小学生


小3くらいだったかな?のときに父が転勤族なのがしんどいってことで(もちろん他にもいろんな理由があったと思うけど)転職して、滋賀県に家を購入。
私は何度目かの転園・転校で「どうせ友達作っても離れるしな」って思ってた。
小3で転校して、最初は若干無視されたり意地悪されたりあったけどすぐになくなった(多分みんなが飽きた)
特に気にしていなかったけれど。
授業中隣の子と話しすぎて先生に叱られて立たされたりもあったなあ(笑)
あとは本当に忘れ物が多くって、何年生か忘れたけど学級目標が「クラス全員忘れ物をしない」みたいなやつで、
忘れた子は帰りの会でみんなの前に立たされて
「私は今日○○を忘れて学級目標達成できませんでした。ごめんなさい。明日からは忘れないようにします」
みたいなことを言わされたりした。今やったらどえらいこっちゃぞ
授業中は座っていられないし宿題は忘れてくる。集団登校も遅刻するし、持ってくるべきものも忘れてるし、
親に出すプリントも学校に置いて帰るとか。よく怒られましたわ

とにかく動き回る、じっとしていられない、集中力がない、人の気持ちがわからない、
考えるより口が先に喋ってしまう、マルチタスクができない、忘れ物が多い、時間が守れない。
とかよくありました。今もよくあります。(これ以外も多くあります)
けれど小学校の時は特に顕著に表れてたと思う。
「変わってるね」「ヘン」「普通わかるでしょ」「なんでできないの?」「お姉ちゃんなんだから」
「よそ様が見たら恥ずかしい、みっともない子だと思われるよ」「みんなはできてるのに」
このあたりの言葉をたくさん親族から言われました。
親族っていうか母親と母方の祖母。

まあそういう感じで昔っから落ち着きのない子だった。友達も上手に作れないし、
人の気持ちがそもそも察することができないから(空気が読めない)、友達を傷付けても平気な顔してた。と、思う。
でも「どうせまた転校するしどうでもいいや」って舐め腐ってたとこもある。結局転校しないってことを小5くらいで知って絶望したりはあった。(笑)
これは自業自得。

でも5、6年生くらいから「あれ、自分おかしい?」ってなんとはなしに自覚してきて、
まあそのきっかけってのがいじめ。
みんなと違うからとかヘンに目立ってるからとか気に食わないとかそういう理由だったんだろうね、
まあこっぴどくいじめられまして。
暴力とか物がないとか物が壊れてるとかはなかった。
ただ無視するとか、仲間外れにされるとか、私の名前を出さずに私の悪口をすぐ近くで言うとか、
容姿や持ち物の悪口とか、廊下のすれ違いざまに「死ね」「学校来んな」とか言われるみたいな。
今考えるとまだマシじゃねとは思うけど当時、まだ私も女児でしたから。耐えれなかったんですよね。
でもどうしたらみんなと同じになれるとか、普通になれるんだろうとか、ずっと考えたけどどうにも治らない。
っていうか治ったとしてもいじめられるまでいったらもう終いよ。
ただこれはずっと覚えてるんだけどwwwwwいじめられてた時期に傷付けられた言葉や行動を
学校から帰って毎日日記というか、メモしてたwwwww誰に言われたかとかまできっちりメモしてたwwwww
その時の私は「これでいじめの証拠として出してやろう」とか「こう言われたから治そう」とかじゃなくて
「こう言われたことをあえてメモに残すことによってあいつらへの怒りを忘れないでいよう」って思ったんだよね。小6で。俺の殺意はこの頃に芽生えたんですねえ~~~(他人事)
というのも、学校から帰るといじめグループはいじめる前みたいに仲良くしてくる子が一部いたんですよね。
それで絆されかけたところに翌日学校でボロカス言われるみたいなパターンがあって。
それで「二度と絆されてたまるか。こんなこと言われたんやぞ」って忘れないためにメモしてた。
あれなんなん?集団じゃないと言ってこられへんのか?クソガキ共ぶっ殺すぞ(元保育士より)
Y.K A.K S.T R.F お前らのこと絶対忘れないから

まあそんなこんなの小学生時代、この頃から自傷行為ってのが始まっちまいました。少しずつ不登校気味にもなりました。
恐らくこの頃から自傷行為が始まった。あと自律神経失調症だったと思う。
これはこの作品のせいだ!って意味ではないのですが「ライフ」って漫画が当時流行っておりまして、
その中に自傷行為をするシーンがあって、最初はそれの真似事だった。
カッターでちょっとミミズ腫れ程度の傷をつける程度。

その頃、4つ下の妹がアスペとADHDと診断される。
結構重度?らしかった(今はどうか知らん)
癇癪があんまりにも酷くって母親がこの頃くらいからノイローゼというか鬱になってたと思う。
妹は体が弱かったのもあって(食べ物・動物アレルギー、喘息等)両親はそんな妹によく手をかけており、
それに嫉妬して自分で自分の鞄に画鋲を仕込んだりしていじめが酷いように仕立て上げることもあった。

母がパートから帰ってくるたびに叱られるのではないかと思い、足音が聞こえると慌ててゲームを閉じて家事を始めるなどしていた。
一度、夏休みに私も妹も家でゴロゴロしていた際、
洗濯物が干してあったが雨が降っていたようで母に妹とともに叱られた。
「あんたら家におって雨降ってるのわかってるなら洗濯物入れるくらいしたらどうなの?」「お母さんはこんなに必死で働いてるのに」と
汗で濡れた下着を触らされたりなどがあった。

小学校のとき、いじめられてたこととか妹への嫉妬や劣等感で
自分で自分のプールバッグに画鋲仕込んだこともあった。
こういう記憶力だけは良い

中学校


小学校からの持ち上がりが多く、いじめは継続。
バスケ部に入部するもののいじめっ子達と同じ部活になってしまって、さらにエスカレート。
私にだけボールのパスを回さなかったり、いつも友人のAと一緒に帰ってたけど、
Aもいじめっ子達に気を遣って(というかビビって?)、私と一緒に帰らない時が増えていった。
自転車でみんなで帰ってるときも、私が一番前を走っていて、右に曲がったらみんなは真っすぐ行った。
逆に真っすぐいったら、みんなは右に曲がった。
ずっと私が一番前だった。それか一番後ろ。どっちも一人。
みんなは2列とかになって楽しく話してる。
すごく孤独だった。
身長もそこまで高くないし、未経験ってこともあって3年間ベンチだった。
練習試合で別の学校に行って昼休憩の時も私は一人でご飯食べてた。
便所飯するときもあった。
声を殺して何度も何度も何度も何度も泣いた。悔しかった。ただ悔しかった。

仲の良い友人(M)は部活外でいたものの、自律神経失調症といじめが原因で朝が起きられなくなる。
登校時友人と待ち合わせしていてもどうしても朝が弱いことから遅れてしまい、
睡眠薬も処方されているため待ち合わせが厳しい旨伝えたところ
「私のお母さんも眠剤飲んでるけど朝ちゃんと起きてる、あなたの意思が弱い」などと言われることも。

母は学校へ行かない私を見ては「誰のお陰で生活できてると思ってる」
「ここは父母が稼いでお前を養ってやってるんだから言うことに従え、学校くらい行け」「穀潰し」
「妹でさえ学校へ行けているのに」等言われた。
リストカットをしていることが母にバレると馬乗りになられ包丁をつきつけられることもあった。
「せっかく綺麗な体で産んでやったのに」「そんなに死にたいならお前を殺して私も殺してやる」と言われ、
当時の私は恐怖より、やっと楽になれると思ったものの父に止められる。
自殺を少しずつ考えるようになる。
授業中大人しく座っていることができず歩き回ったりすることが多かった。
この頃から、子どもが好きという理由と、家庭や学校で同じような思いをしている子どもたちの支援をしたいと思い、
将来保育士になりたいと思っていた。
とにかく、辛い記憶しかなかった。
朝起きられず欠席、行けても遅刻で保健室登校、そこから教室に行ける日の方が少なかった。
中3で先生たちが気を遣って(修学旅行とかあったから)私と仲の良い子達と同じクラスにしてくれたんだけれども。
そんで6人ぐらいの仲良しグループが出来たんだけど。
その中にさっき書いたMって子が居て、別クラスでMと仲良かったYって子と3人でも仲良くしていたんだけれども。
私の住んでいたマンションには管理人さんが居るときにプレイルームっていう室内で遊べるとこと、会議室みたいなとこ(マンションの役員会議とかで使うようなとこ)が解放されてた。
MとY、もしくは6人グループの中にいるN、そのへんが私のマンションまで来てその会議室で私に学校へ来るよう説得してきた。
だけど私は行きたくないしっていうか起きれないしそもそも。
きっと厚意だったのは分かる。だけど当時の私からしたらただのプレッシャーだった。
ひたすら辛かった。母からも叱咤されて、友人からも叱咤されて、部活ではいじめられて、朝は起きられないし、どこにも居場所がなかった。
当時はホームページ(ホムペ)やブログ(デコログなど)が流行ってて、そこに私はいろいろぶちまけてたんだけど
それを見た友人にも「そうやって弱音吐いてないで学校来なよ、うちらおるやん」って言われて、
優しさなのは分かっててもなんでそこに繋がるんだろうって思った。

でもなんとか中学卒業して、3年間部活も耐え抜いて、地獄は終わった。

あと、言ってもどうしようもないような過去のことにこだわることが多かった。
正義感が強くて言ったら角が立つようなことも黙っていられなかったり。



疲れたので今回はここまで。
やっぱ過去の嫌なこと書いてるとちょっと精神的疲労が溜まりやすいね。
高校生からはまたそのうち書きます。

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